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2010年 09月 12日
1.
佐高信が『金曜日』の最新号(2010年9月10日売)で、また愚かしいことを書いている。本来、取り上げるにすら値しない内容だが、リベラル・左派の小沢一郎支持という現象とその意味について考える上でよい材料なので、簡単に触れておく。 佐高信「敵から見たら」 http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1354 佐高はここで、自身の福沢諭吉への高評価とその福沢理解について、安川寿之輔から批判(といっても軽くたしなめられた程度なのだが)されたことに関連して、安川を批判している。その内容自体は、(かつての?)佐高ファンの方が「安川教授も脱力しているか、苦笑いしているかでしょう。おそらくは雁屋哲さんが再反論されるでしょうし、その時佐高信さんは蜂の巣にされることはもう目に見えて明らかです。」と正しく評価しているようなものであって、安川がまともに相手にしてくれれば佐高は反論不能であろう。 それにしても、安川の福沢研究のような実証的かつ説得力の極めて高い研究に対して、何ら実証的な根拠も提示せずに、対抗しようとする佐高の無謀さには呆れざるを得ない。社長の佐高がこういう人物なのだから、株式会社金曜日のここ3年間の営業赤字が1億5000万円、というのも納得できる。 2. 佐高の上の安川への反駁文における、「反ファッショ」の「統一戦線」を乱すなという論理は、佐高の佐藤優起用の弁明も共有するものであって、こうした論理については「<佐藤優現象>批判」ほか、これまでも何度も批判してきたので、ここでは繰り返さない。私のブログ内で「佐高信」で検索して、適当な記事をお読みいただきたい。 今回取り上げたいのは、安川への反駁文における佐高の以下の文言である。 「私が言いたいのは、標的にされる者に対して、敵以上に激しい侮蔑の言葉を投げつけて何の意味があるのかということである。」 ここでの文脈では、佐高は、三島由紀夫に批判されている丸山真男を批判する安川の態度を批判しているわけであるが、もちろんこれは論理的には、右派に批判されている佐高を批判する私やその他の人々への反論にもなろう。「味方」である佐高ではなく、「敵」を叩くべきだ、と。 安川は『金曜日』に執筆しているから佐高を「味方」だと認識しているかもしれないが、問われるべきはそもそも佐高は「味方」だと見なされるべきなのか、という点である。 断っておくが、私は「敵」「味方」という言葉を使うのはそれこそ党派の政治が思い出されるのであまり好きではないが、佐高自身が「敵」という言葉や「敵」「味方」の論理を用いており(そういえば佐高は元・新左翼だ)、以下の文章のような現象を単純化した上で骨組みを摘出するという記事では有効な概念ではあるので、使用する。以下での「敵」とは、言論による批判やボイコットすべき対象という意味であって、それ以上のものではない。 3. 佐高は今回の民主党代表選で、小沢を積極的に支持している。これは、前回記事でも述べたように、リベラル・左派全般に見られる傾向である。 ところで、今回の代表選でほとんど言及されていないのは、日本のアフガン派兵およびアフガンへの「国際貢献」の問題である。このアフガン問題への積極的関与という案件こそ、現在の国際政治上、日本に対して欧米諸国(昔風に「帝国主義」諸国と呼んでもよい)が求めている最大のものである。今年か来年にはほぼ間違いなく政治的争点になってくるだろう。 そして、以前「民主党政権支持はアフガン侵略容認」で書いたこととも絡むが、日本の有力政治家でアフガン派兵を最も積極的に進めようとしている政治家は、周知のように小沢である。 日本はアフガンへ積極的関与すべき、という主張のメディア上での代表者は、伊勢崎賢治である(伊勢崎はISAFへの日本の参加をも「望ましい」としている)。伊勢崎については後日改めて論じる予定であるが、私が興味深く思っているのは、伊勢崎と小沢周辺の人脈とのつながりである。 伊勢崎の編著の本『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』(高文研、2008年4月1日刊)には、播磨益夫という弁護士が「自衛隊の国連活動の法的根拠は憲法9条ではなく前文と98条」なる論文を寄稿している。この人物は、プロフィールによれば、90年代前半には内閣法制局の職員であったとのことである。 この論文は、国連憲章にある「集団的措置」(武力行使)に対して日本が積極的に参加することは、憲法上も要請されており、完全に合憲であって、それができないとする従来の政府(内閣法制局)解釈の方が誤りである、と主張している。誰が読んでも気づくが、小沢の特異な憲法解釈と極めて類似している。恐らく、小沢の主張の(今のところ多分唯一の)体系的な憲法解釈論として理解されるべきものである。 国連容認下での武力行使への自衛隊の参加は憲法前文からも要請されているという論理は、小沢一郎の側近である平野貞夫によれば、湾岸戦争前後に平野自身が、自衛隊の海外派兵に抵抗する創価学会を抱き込むために、発案したものとのことである。平野は自身のさまざまな著作(『公明党・創価学会と日本』『平成政治20年史』その他)でこのことを述べているが、平野の自慢癖をも考慮に入れると、当時内閣法制局にいたはずの播磨が、この解釈論の策定に関与している可能性は大いにありうると私は思う。 だが、播磨という人物はそれほど有名ではないはずであるし、国会図書館の論文検索でもほとんど出てこない。ところが、伊勢崎は編著で寄稿を依頼しているだけでなく、播磨の憲法解釈を「最も現実的な法解釈」だと述べている。 素朴な疑問なのだが、伊勢崎は、どこで播磨を知ったのだろうか。伊勢崎が小沢と直接つながりがあるかに関しては断定を避けるが、少なくとも小沢周辺の人脈と何らかの関係はあると思う。多分、『世界』の常連執筆者かつ国連職員である川端清隆(2007年の『世界』誌面で小沢とやりとりしている)などがそうであろう。 その意味で、日本のアフガン派兵、積極的な対アフガン関与という言葉の正しい意味での帝国主義的な方策は、まさに「左」と「右」を超えて、追求されるということになっている。小沢のアフガン派兵論とはそのようなものである。 4. また、佐藤優によれば、鈴木宗男を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢とのことである。そして、鈴木が、「佐藤氏同様、日本政府は全面的にイスラエル寄りの位置に立つよう働きかけている」人物であることも周知の事実である。 小沢はさまざまな空手形を振っているように見える。普天間基地問題、地方参政権問題、日朝国交正常化問題その他もろもろである。それぞれの問題に携わっている人間や、それらに強い関心を持っている人物は、その個別の空手形に惹かれて、小沢を熱烈に支持しているように見える。 小沢のそれらの口約束が、真実か嘘かはここでの文脈においてはどうでもよい。より本質的な点は、事態の本質を単純化して言えば、小沢政権の樹立によるそれらのリベラル・左派系の団体や人物にとっての、自らの地位向上、主張の実現は、アフガンでの住民虐殺やパレスチナ人の虐殺と引き換えという構造になっている点であり、それらのリベラル・左派系の人物は(恐らく内心ではその構造を自覚しながらも)そのことを何ら問題にしていない、ということである。言うまでもないが、小沢を支持しておきながら、アフガン派兵反対やイスラエルの抑圧反対と主張するのは、ご都合主義以外の何者でもない。もちろん、現実にアフガン派兵問題が焦点になった場合、それらのリベラル・左派がアリバイ的に反対する可能性はあるが、社会的には完全に無意味である。 小沢の「政治とカネ」問題も、根底には恐らく、小沢が欧米諸列強および中国(≒旧連合国=United Nations)が要求する諸課題(=「国際貢献」)を、日本の政治家の中で最も断固として政治的に実現してくれそうな政治家という点があるのであって、そのような人物であるからこそ小沢にカネが集まるという構図になっているのだと思う。 小沢が進めようとしていることは、世界第2位(3位?)の経済大国である日本が、憲法上の制約を消去して、ヒト・モノ・カネを「対テロ戦争」その他の軍事活動に積極的に投入することであり、その結果、負担が軽減される米国その他諸列強による軍事介入はより頻繁に生じるようになる、ということである。そのためには日韓の「和解」の促進、ということになるだろう。このような事態を指して、一部の右派は小沢を「売国」だの「極左」だのと非難するだろう(現にしている)。それはある意味では正しいのである。 5. 冒頭の話に戻るが、佐高の「敵」「味方」に関する主張は、恐らく意図的に、安倍政権あたりの段階で止まっている。アフガンやパレスチナの民衆(または普遍的人権)から見れば、小沢を支持する佐高は明らかに「敵」である。そこにおいては、解釈改憲(小沢)か明文改憲(安倍)かなどといった問題は無意味であり、前にも述べたように、民主党政権の方が自民党政権よりもはるかに危険である。 佐高は、「敵以上に激しい侮蔑の言葉を投げつけて何の意味があるのか」と言うが、あからさまな右派よりも、現実的に最も海外派兵を推進しそうな政治家とその提灯持ち(佐高)の方がはるかに重要な「敵」であり、しかもそれが「護憲」だの「反ファッショ統一戦線」だのといった美辞麗句によって包まれているのだから、右派よりもより強く批判されるべきなのは当然である。 弁明として、佐高らリベラル・左派は「自分たちは「在日」の友だ。差別反対の主張もしている」と言うかもしれない。だが、こうした弁明は意味をなさない。問題になっているのは普遍的人権であって、在日朝鮮人の地位向上といったものではない。現実に、在日朝鮮人の文化人や学者(予備軍)には、佐高のようなリベラル・左派内部の有力者に媚を売って、執筆機会を得たり地位を向上させたりしている人間は掃いて捨てるほどいる。こういう連中(特に二世に多い)は、自分たち在日朝鮮人、いや恐らく自分たちのことしか考えていないのであって、例えばこうした連中を重用するかどうかといったことは、ここでの文脈とは何の関係もないのである(このあたりについては、「マスコミ界隈の在日朝鮮人と日本人リベラル・左派の「共生」、または共犯関係」の「(上)」および「(下)」参照)。 こういう在日朝鮮人をも末端に含めた、リベラル・左派とは、構造的には、金靜美が『水平運動史研究――民族差別批判』で完膚なきまで暴いたように、戦前の部落解放運動が侵略戦争に積極的に加担し、その枠内での地位向上を求めたことを構造的には完全に反復している。 6. 今回は小沢について言及したが、アフガン派兵その他の「国際的課題」への方策において、基本路線は菅も別に違いはない。伊勢崎も著書『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版、2010年2月)で言及・賞賛しているように、日本のアフガン問題への介入という件に関しては、「反小沢」ということになっている岡田克也外相も積極的である。メディアは両者の政策上の違いを騒ぎ立てているが、大局的な点(そしてそれこそ、本来市民レベルで議論されるべきもののはずだが)では大差はない。「国際的課題」については、小沢は急進的、菅は漸進的というだけのことであって、それは諸利権団体の利害が関与してそうなっているだけであり、政策的な違いではなく、利権団体の動向で今後どうにでも動くものである。 そもそも被告人となる可能性が高く、秘書が三人逮捕されている人間が党首に就くこと自体が馬鹿げているから、小沢か菅かという選択肢自体が馬鹿馬鹿しいのであるが、小沢が仮に今後没落したとしても、日本に要求されている「国際的課題」(「東アジア共同体」もそうだ)を有効に果たすと見なされる政治家または政治勢力に対し、リベラル・左派の支持団体である「在日」を含めたマイノリティ集団や沖縄の左派や労働組合が強い支持を与える、という構図は多分変わらないと思う。小沢が没落すれば、菅がその役割を果たそうとするかもしれない。 問題はそうした構造的なものであって、メディア上での政治言説としては、「右」や「左」といった区分けはその意味で無意味化しており、実態としては「左」が「極右」、「右」が「左」よりは「左」という構図になりつつある。佐高に限らず、旧来の「左」を無条件に「味方」とする前提自体を全否定しておく必要がある。
by kollwitz2000
| 2010-09-12 00:00
| 日本社会
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