小人プロレスと都市伝説

最近また小人プロレスの話がよく出てくるので、ここでもまとめておきたいと思います。

よくある都市伝説

かつて低身長症の選手だけで組織された小人プロレス団体があり、テレビでも放送され人気を博していた。しかし人権団体が「身体障害者を見世物にするとは何事か」とクレームをつけ、テレビ放送は禁止となり、興行も取り締まられて団体は解散、レスラーたちは全員失業し困窮した。元レスラーは「人権団体のやつらは、俺たちの仕事を奪ったが替わりの仕事はくれなかった」と涙ながらに訴えたが、人権団体は彼らを無視して、小人プロレスを潰した実績を誇示しつつ、次の獲物(※主に女性の性的魅力を前面に押し出したコンテンツがここに入る)を狙っている。

実際はどうか

小人プロレスは全日本女子プロレスのいち部門として前座で開催され、メディアで取り上げられることは少ないが試合はずっと行われていた。全日本女子プロレスの倒産により試合の機会は激減したが、現在でも現役選手がプリティ太田とミスター・ブッタマンの2名おり、いまでも時おりリングに上がったり演劇の舞台に上がったりしている。人権団体その他に潰されたという事実は存在しない。

 

と、簡単に結論だけ書きましたが、続けてもう少し詳しく書いていきましょう。

 欧米では、男子プロレスも女子プロレスも小人プロレスも同じ興行に出るのが普通でしたが、日本ではこれらは別々に発展してきました。男子プロレスは、1954年に本格的プロレスを輸入した力道山が、相撲界のしきたりを踏襲した「プロレス界」という業界を創造しましたが、女子・小人プロレスはそれより早い1948年、ボードビリアンのパン猪狩・ショパン猪狩兄弟が、妹の猪狩定子と数名の女子選手に格闘技を教え(兄のパンは柔道、弟のショパンはボクシングと海外でプロレスの経験があった)、進駐軍向けのショーとして始めたのがその嚆矢とされています。ただしその内容は、相手のガーターを脱がせたほうが勝ちというお色気ショー的要素の強いもので、現代でいえばプロレスというよりキャットファイトに近いともいえます。

こうして、女子プロレスはストリップ劇場で上演されるボードビリアンの演目として始まり、同時上演の小人プロレスも、コントの一種として始まっています。

このガーターマッチは1950年に警視庁の取り締まりを受けて姿を消しますが、1954年2月に、力道山が蔵前国技館にシャープ兄弟を招き、日本初の本格的プロレス興行を開催して大ブームを巻き起こすと、同年11月には同じ蔵前国技館にミルドレッド・バークとメイ・ヤングという名選手をアメリカから招き、本格的プロレスとして再出発します。しかし、その後は団体の乱立と分裂を繰り返してなかなか発展せず、また観客も相変わらずお色気ショー目当ての男性が主で、当時のメディアでは、女子レスラーの奔放な生活が面白おかしく報じられるなどしていたようです。

1967年になると、その状況を変えるべく右翼活動家で愚連隊の首領だった万年東一が音頭を取り、柔道家の中村守恵(※男性)、そして女子選手のマネージャーだった松永高司らが中心となり、乱立する団体をまとめて日本女子プロレス協会を設立します。アメリカから「女帝」ファビュラス・ムーラを招聘するなど奮闘しますが、しかしこれも旗揚げまもなく中村派と松永派に分裂し、万年と松永(および兄弟姉妹たち)は多くの選手とともに脱退して、1968年に全日本女子プロレスを設立します。スポーツ志向のあった松永は、かつてのレスラーたちが奔放な生活を面白おかしく書き立てられていたことへの反発として、選手たちに酒・煙草・男の「三禁」を言い渡します。「男ができると女は股の力が弱くなる」というセクハラ的な発想もあったようですが、とにかくここで、現代まで続く「女子プロレス界」が始まったといってもいいでしょう。このとき、小人レスラーもダイナマイト・キングはじめ4人いたという記録があります。

(なお、全日本女子プロレスの会長は愚連隊の万年東一だったが、同じ時期の日本プロレスでは山口組の田岡一雄が会長を努めており、プロレス興行と暴力団は非常に密接な関係があった)

旗揚げ当初は、ストリップ劇場での興行が多く、酔客の好色な視線の中で試合をしていた全日本女子プロレスでは、小人レスラーのコント的な試合も好評でしたが、転機が訪れます。

1970年代中盤になると、日本の芸能界では「スター誕生」に代表されるようなアイドルブームが到来します。その「スター誕生」で最終審査まで残り、山口百恵と競ったこともあるマッハ文朱が、1974年に15歳で全日本女子プロレスに入門。174センチの恵まれた体格(公称180センチだった時期もある)とスター性、高い身体能力を活かし、デビューしてわずか7ヶ月でエースの証であるWWWA世界シングルの赤いチャンピオンベルトを巻き、また歌手としてもデビューシングル「花を咲かそう」で40万枚のヒットを飛ばします。ここで女子プロレスラーがリング上で歌も披露するというショー形式が確立し、フジテレビで始まったテレビ中継(レギュラーではなく不定期放送で、ローカルセールス枠ではあったが)も、スポーツ部ではなく芸能部の制作番組でした。

マッハ文朱は2年半で引退しタレントに転身しますが、女性ファンの獲得に成功した全日本女子プロレスは、従来のお色気ショーから脱却し、新たなファン層を開拓すべく、ジャッキー佐藤とマキ上田の「ビューティ・ペア」を1976年に売り出します。デビュー曲「かけめぐる青春」は、歌唱もダンスも稚拙だったものの発売翌年になって突如ブームを呼び、男装の麗人的な雰囲気を持つジャッキーと、フェミニンなマキのコンビは、女性ファンの熱狂的な支持を集めます。当時、宝塚歌劇団が『ベルサイユのばら』の大ヒットで空前のブームを呼んでいたので、便乗した部分もありましたが、それまで中年男性が多かった女子プロレス会場は、女子中高生で埋め尽くされることになりました。

ビューティ・ペアは1979年に解散しマキが引退、1981年にはジャッキーも引退しますが、1983年には長与千種とライオネス飛鳥が「クラッシュ・ギャルズ」を結成。翌年には「炎の聖書」で歌手デビューしこちらもヒットします。リング上でも、体格に恵まれ高い身体能力を持つ飛鳥と、稀代のアジテーターである千種が絶妙のコンビネーションを発揮し、またライバルであるダンプ松本ら極悪同盟との抗争は絶大な注目を集めました。

ビューティ・ペアのファンは歌が目当てでしたが、クラッシュは当時の女子プロレスの常識を覆し、男子プロレスの技を取り入れた過激なファイトスタイル(具体的には前田日明の影響を受けている)でファンを強烈に惹きつけました。

こうして、全日本女子プロレスの客層はガラリと替わり、客席は女子中高生で埋め尽くされ、リングには黄色い声援と色とりどりの紙テープが飛び交うようになります。しかし、こうして女子人気が上昇したことで、ストリップ劇場のコントの流れを汲む小人プロレスは、「おじさん臭い」と会場でのウケが悪くなります。また、女子プロレスがアイドル的な人気を獲得し「追っかけ」のファンが誕生したことで、選手層が薄くカードの代わり映えがしない小人プロレスは「また同じネタやってる」と白けられることにもなりました。

テレビ中継でも、限られた放送時間の中でメインの試合を放送しなければいけないので、前座の小人プロレスを放送する時間はありませんでした。

なお、テレビ局に「身体障害者を出すのはまずいのでは」という意識が生まれるのはもう少しあとのことになります。

 

小人プロレスは、女子と違って入門希望者が少なく、オーディション形式ではなく主にスカウト活動で選手を獲得していました。

しかし、低身長症でしかも体力に恵まれかつショーのセンスもある人材を、そうそう獲得できるはずもなく、選手層は常に薄いままでした。「ミゼットプロレスの全盛期はいつか」と問うても、記録も資料も少なく、関係者の意見は一定していません。1970年代という人もいれば80年代という人もいます。

自分の知識がある1980年代についていうと、最盛期には7~8人の選手がいました。

  • プリティ・アトム
  • ミスター・ポーン
  • 天草海坊主
  • 隼大五郎
  • リトル・タイガー
  • リトル・フランキー
  • 角掛仁(のち留造に改名)
  • アブドーラ・コブッチャー(のちミスター・ブッタマンに改名)

正確な入門時期や引退時期がわからないので、いつからいつまでが何人だったのかは特定できませんでしたが、これらの選手が在籍していました。

アトムは均整の取れた体格で正統派のベビーフェイス、ポーンはモヒカン刈でずるがしこく立ち回るヒール、海坊主はスキンヘッドで容貌魁偉の怪力派ヒール、大五郎はリングネーム通り『子連れ狼』風ヘアスタイルに童顔のベビーフェイス、タイガーは空中殺法を得意とする覆面レスラー、フランキーはひときわ小さな身体ながら多彩なテクニックを駆使する技巧派、角掛は対戦相手や観客に悪態をつきまくるヒール、というのが役どころです。

 

1980年頃には、当時人気絶頂だった『8時だョ! 全員集合』に、リーダー格のミスター・ポーンが出演します。

全身タイツに身を包んで突然舞台に走り出てきて、志村けんに突き飛ばされるが受け身を取って起き上がり、逆に志村を投げ飛ばして走り去っていくという、コントの脈絡を崩す異化効果を狙った演出だったようですが、視聴者の反応は芳しくなく、数回で降板することになります。

これをもって「小人レスラーの仕事が人権派に奪われた」実例とする向きもありますが、レスラーのテレビ出演が一本なくなったのと、小人プロレスがなくなったのとではまったく違う話です。また、視聴者から苦情があった、とはいうものの実際のクレームがどんなものだったかは確認されておらず、視聴者からこういう苦情があった、とテレビ関係者から聞いた、と松永会長が小人選手に語った、という又聞きの又聞きでしか残っていないため、取り扱いには慎重な注意が必要です。

 

1982年頃には、リトル・フランキー、天草海坊主、ミスター・ポーン、プリティ・アトムの4人が「リトル・アーミー・ロッカーズ」を結成して「ポ・ケ・バ・イ・ブギ」でレコードデビューもしています。この時期を全盛期とする意見も多いところですが、彼らの全盛期は長く続きませんでした。

 1990年ごろまでに、リトル・タイガーは女子レスラーと結婚して帰郷し、ポーンの義理の息子であるコブッチャーは厳しい練習に耐えかねて退団。そして、プリティ・アトムは網膜剥離と思われる症状でほぼ失明、ミスター・ポーンと天草海坊主は下半身不随で車椅子、隼大五郎は脳に水が溜まって記憶障害となり、引退を余儀なくされます。

主力選手が次々に再起不能になっていった状態では、新人のスカウトができるはずもなく、しかもこの頃には医療の進歩で小人症が治療可能になったこともあって低身長の人自体が少なくなり、薄くなった選手層を補充することができないまま、現役選手は、リトル・フランキーと角掛仁のふたりだけとなりました。

この時期になると、「別冊宝島」などサブカル系の媒体でプロレスを取り上げることが多くなります。また、『ちびくろさんぼ』絶版問題など、メディアの過剰な自主規制を問題視する動きも出てきて、存亡の危機に瀕していた小人プロレスは、そちらからも取り上げられることになりました。

 

笑撃! これが小人プロレスだ

笑撃! これが小人プロレスだ

 

 

1992年には、森達也制作のドキュメンタリー『ミゼットプロレス伝説』がフジテレビ系の深夜で放送されます。

関係者の証言と彼らの日常生活を鮮やかに描き、一度退団したコブッチャー改めミスター・ブッタマンの復帰を、ダイナマイト・キングら引退していた選手たちも駆けつけて応援し、故郷で土木作業員として家族を養っているリトル・タイガーも、一夜限りの復帰をするという感動的なストーリーとなっていました。

また、1995年には、差別問題を扱った「朝まで生テレビ」に角掛が出て、テレビ局の過剰な自主規制でタレントとしての仕事が減ったことを訴えました。現在の都市伝説で、元レスラーが「人権団体のやつらは俺たちの仕事を奪ったが替わりの仕事をくれなかった」と語ったことになっているのは、このときの角掛の話と、『スター・ウォーズ』でR2D2のスーツアクターをつとめたケニー・ベイカーの発言とされるもの(こちらも出展不明)を混同していると思われます。

 

この当時の有名なエピソードとして、変態キャラで売られていた角掛が「俺はこれでも小型特殊の免許を持ってるんだよ」と言ったところ、スタッフから「小型で特殊なのはあんただろ」と言われた、というものがあります。角掛は変態キャラのヒールとして、今は亡き今井良晴(ながはる)リングアナから、リングでコールされるとき「親の因果が子に報い」と見世物小屋の口上で呼ばれたり、女性スタッフに宛てて書いたラブレターをリング上で読み上げられたり、という仕打ちを受けていたものですが、それらを人権団体が問題視したという話は聞いたことがありません。

 

90年代になると、プロレス界にはFMWなどインディ団体が乱立し、またビデオソフト販売も一般化して、テレビに頼らないプロレスが普及していきます。

小人プロレスも、テリー伊藤と「ビデオ安売王」が組んでソフトを制作・販売していたことがありました。現在、YouTubeに上がっている小人プロレス動画は、そのときのものが多いです。 

 

しかし、これらの試みも多くの収穫は得られず、小人プロレスが大きな人気を獲得することはないまま、全日本女子プロレスは経営危機を迎えることになります。

 

クラッシュ・ギャルズが起こした爆発的ブームは、1985年に大阪城ホールで長与千種とダンプ松本が敗者髪切りマッチを行い、ダンプの凶器攻撃で流血し敗北した長与が、会場を埋め尽くした1万5千人の少女ファンが泣き叫ぶ中、血だるまのままバリカンで坊主にされるに至って、頂点を迎えます。

(余談だが、この放送を見た視聴者から「残酷すぎる」とクレームがつき、関西テレビでは放送を打ち切りにしているものの、これをもって「女子プロレスラーの仕事が奪われた」と言う人は見たことがない)

この当時、長与にあこがれてプロレスラーを志望する少女は激増。全日本女子プロレスのオーディションには4000名が応募し、また全女に対抗する新団体として、秋元康がプロデュースし新間寿や山本小鉄やグラン浜田も関与した、ジャパン女子プロレスも発足します。

しかし、芸能の仕事も器用にこなす長与と、レスラーが歌を歌うことに疑問を持っていた飛鳥との間にすきま風が吹くようになり、また、長与は新たなライバルとしてジャパン女子の神取忍との対戦を熱望したものの、会社に認められなかったため失望するなど、ブームは終息していきます。

この辺のドラマについては、いい本があるので読んでください。

 

プロレス少女伝説 (文春文庫)

プロレス少女伝説 (文春文庫)

 

 

 

1985年のクラッシュ・ギャルズ

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 

 クラッシュは解散し飛鳥と長与も引退しますが、彼女たちに憧れて入門した選手たちのレベルは飛躍的に向上します。

クラッシュの引退後、全日本女子プロレスを支えたのはブル中野とアジャ・コングでした。

ダンプ松本の悪役ファイトは、凶器攻撃を主としてあくまでベビーフェイスを引き立てるためのものでしたが、ブルは過激な技のファイトで観客をひきつけるようになりました。

また、1990年に新間寿親子により旗揚げされた、メキシカンスタイルの新団体「ユニバーサル・プロレスリング」は、選手層が薄かったため全女からアジャとバイソン木村を借りて試合をさせていたのですが、ここで女子プロレスに馴染みの薄かった男性のプロレスファンが彼女たちを「発見」します。これで全日本女子プロレスの会場には、それまでの「お色気目当てのおじさん」でも「レスラーに憧れる女子中高生」でもない、「プロレスファン」がつめかけるようになりました。

そして1993年には、業界再編の流れに乗って他団体との対抗戦を開始。ここにも語るべきドラマは数え切れないほどありますが、語っていたらそっちだけで記事が何本あっても足りなくなるので、くわしくはこれらの本をご参照ください。

 

1993年の女子プロレス (双葉文庫)

1993年の女子プロレス (双葉文庫)

 

 

 

 

1993年の横浜アリーナ大会で、女子プロレス対抗戦ブームは頂点に達するのですが、しかしその勢いは長くは続かず、翌年の東京ドーム大会は、アマレスや異種格闘技戦、男子のゲスト試合も含めたテーマの弱いカードが23試合も続き、空席が目立つ中で午後2時から翌日の午前1時まで、段取りが悪いままダラダラと進行したあげく、メインとなった北斗晶の引退試合は対戦相手のアジャが試合中に脚を負傷して不完全燃焼に終わり、北斗の引退もうやむやに撤回され、終電に乗れなかったファンが東京ドームのゲート周辺で雑魚寝をするという、伝説のズンドコ興行となります。この失敗で全女の屋台骨は大きく傾くことになりました。

なお、この興行にも小人レスラーはちゃんと出場しています。

 

もうひとつ、全女の経営を圧迫したのが、不動産投資の失敗です。ビューティやクラッシュの全盛期には、売上金をダンボールに入れて足で踏んで詰め込んでいたといわれるほど利益があり、その金を不動産投資に回していましたが、バブル崩壊で収支が急激に悪化しました。松永会長は、身体を痛めて引退した小人レスラーたちのため、秩父に「リングスターフィールド」という保養所を所有し、彼らにそこの管理人をやらせていたのですが、それらの不動産投資が結果的に経営を圧迫してしまいました。

1997年、全日本女子プロレスは経営破綻し、アジャや井上京子ら過半数の選手が退団します。小人レスラーたちは残留しますが、1998年にはミスター・ブッタマンが首の故障のため引退(会社には残留)、2002年には角掛留造が引退・退団し、リトル・フランキーが肝臓病で欠場中に死去します。これで、一度は日本の小人プロレスが途絶えました。

2004年に、新人としてプリティ太田が全日本女子プロレスに入門し、対戦相手としてブッタマンが現役復帰したため、辛うじて小人プロレスの命脈は保たれましたが、翌年に全日本女子プロレスは松永高司会長が勇退して解散。女子プロレスは地下アイドルに近い業態となり、かつての全女のように、大会場での試合や地方巡業を行うような団体はほぼ存在しなくなりました。

女子プロレスの支配者として君臨していた松永4兄弟も、末弟の俊国は2002年に死去、解散時に社長を務めていた弟の国松(レフェリーとしてのリングネームはジミー加山)は2005年、解散直後にビルから飛び降り自殺、会長を務めた中心人物の高司は2009年に肺炎で死去し、兄で副会長の健司(レフェリーとしてのリングネームはミスター郭。息子の太もレフェリーで、リングネームはボブ矢沢)も2020年に肺炎で死去しました。小人レスラーを家族同然に思っていた彼らも、すでにこの世の人ではありません。

 

現在では、プリティ太田とミスター・ブッタマンが現役として活動していますが、その試合の評価は観客からも関係者からも極めて低く、またふたりとも高齢化しており、今後の発展もあまり望めないのが現状です。

太田は舞台俳優としての活動の方が多く、またみちのくプロレスではグレート・サスケやバラモン兄弟と組んだ新興宗教ユニット「ムーの太陽」の一員としてリングに上がっており、従来の小人プロレスの枠組みから外れたところに活路を見出しています。ただし「ムーの太陽」が展開するプロレスのコンセプトは極めて難解であり、毎年12月の後楽園ホール大会「宇宙大戦争」は、誰も理解できないといわれるほどの情報量の多さで有名であります。

 

海外のマット界では、小人レスラーは大型レスラーと組むマスコット的な役割を担うことが多く、メキシコでは人気レスラーと同じマスク、同じコスチュームを着用して「〇〇・シート」と名乗るのが通例となっています。また、小人レスラーの草分けとして日本でも有名なスカイ・ロー・ローは、巨人レスラーであるスカイ・ハイ・リーのパロディでした。

 

・昭和35年 来日したスカイ・ロー・ローの映像


[昭和35年8月] 中日ニュース No.345_2「小人のプロレス」

 

 日本の小人プロレスは、小人だけで試合をするためカードのバラエティが少なかったことも、人気を獲得できなかった原因のひとつでした。これから、大型レスラーに混じって戦うことができれば、活路を見出すこともできるかもしれません。

 

とはいえ、現在のプロレス界では、小型の体格でもレスラーになれます。

みちのくプロレスののはしたろうは身長159センチ(メキシコの小人レスラー流に、新井健一郎のミニ版で新井小一郎、新崎人生のミニ版で野橋真実を名乗っていたこともある)、大日本プロレスの佐久田俊行は155センチと成人男性としては極めて小柄ですし、新日本プロレスの石森太二も、163センチとかつてのプロレス界では考えられないほど小柄ですが、筋肉隆々の鍛え上げられた肉体から繰り出す技は迫力充分で、大型レスラーと対戦してもまったくヒケを取りません。

小型だが大型選手と戦えるパワーを持ち、またスピーディでアクロバティックな動きをこなす選手が大勢いる現状では、健康に不安のある小人レスラーをわざわざ起用するメリットはごく少なく、残念ながら今後新しい選手が出てくる見込みはほとんどない、と言わざるを得ないのが現状です。せめて、今いるふたりの選手を応援していきましょう。

 

・直近の試合 2020年12月6日 鳥取だらずプロレス

 

 

もう一度まとめます。

  • 小人プロレスは誰にも潰されたことはない
  • 幅広く人気があったわけではなく、「衰退した」という人の多くが過去の人気を過大評価している
  • テレビでレギュラ―放送されていたことはなく、単発で放送されていたという記録もない
  • 「仕事を奪われた」といっても、誰かに引退させられた選手はいない
  • 会社が潰れたのは放漫経営のせい
  • 今でも現役選手は2人いて、禁止されたことも規制されたこともない

長々と書いてきましたが、ここだけ覚えて帰ってくれれば充分です。