【UTCP Juventus】宇野瑞木
2009年のUTCP Juventus第16回はRA研究員の宇野瑞木が担当します。
これまで、中国大陸に生まれた「孝」思想を説く「孝子説話」(とりわけ「二十四孝」)の東アジア社会における伝播の様相と「孝」思想の機能を明らかにしてきました。その概要については、昨年のJuventusで記事にしましたので、今回はここ最近の研究について少し具体的に紹介したいと思います。
現在、まとめている博士論文では、中国の孝子説話群が、前近代以前の日本においていかに受け止められ(あるいは反発・改変され)、また機能していったのか、という点を考察しています。その際、単なる「受容」ではなく「リアクション」として捉え、説話受容の場で生じた「違和感」や「反発」、あるいは主題のずらしといった説話の積極的作り変えの現象に着目して分析を行っています。この作業によって、近代以前までの日本において、孝という外来の思想がどのような地層に、どのようなコンテクストにおいて選択的に摂取され、また機能していたのかを明らかにすることができると考えています。
1、日本中世仏教における孝子説話への反発
中国古代に生まれた孝子説話が説く「孝」は、私たちが普段「孝行」と聞いてイメージする内容からはかなりかけ離れています。たとえば、食糧難に陥った郭巨という男が、老母を生かすか我が子を生かすかという究極の選択に迫られ、老母を養うためにわが子を地面に埋めようとしたとき、天が郭巨の至孝に感応して金を掘り出させたという話は、日本においても古くから知られていました。しかし、いくら老いた親を養うためとはいえ、子を生き埋めにすることを「孝」として賞賛するような極端な内容は、現代の私たちの感覚ではにわかに理解しがたいでしょう。
それでは、中世日本においてこうした中国孝子説話はどのような受け取られ方をしたのでしょうか。孝子説話の受容の問題を扱った先行研究においては、日本上代から貴族社会を中心に既に儒教が浸透していたため「違和感」なく受け入れられたとする説がある一方で、逆に近世以前は儒教の受容が十分になされていなかったために、孝子説話に正面から向き合うこともなく、よって「違和感」や「反発」の表明がなされることはなかったとする説があります。
しかし、私はこのどちらも少し違うのではないかと考えています。中国孝子説話は、中世から仏教徒による追善供養の勧進や法会といった場において頻繁に活用されており、そうした説話の担い手である仏教徒によって既に儒教に対する痛烈な批判がなされているからです。
たとえば、平安末期から鎌倉初期に活躍した唱導家・澄憲は、その息子の聖覚とともに、中世において最も影響力を有した安居院流唱導を築いた祖ですが、彼らは中国孝子説話を唱導の場でとくに頻繁に活用していた一方で、儒教に対し反発的見解を示していました。澄憲は、晩年の書の中で、仏教の教え(聖典・内典)においては母を重視し、儒教の教え(外典)においては父を重視すると明記し、その上で大義のために子を殺す父の物語を例にとって外典の考えの浅さを批判しています。そして、子を思う気持ちの深さと肉体面(懐胎・乳育)において、母の恩が父よりも高いことを強調するのです。この母の恩が父の恩に勝るとする論理は、澄憲自身はオリジナルであると述べていますが、同時代人の慈円が日本は「女人入眼」の国といっていたように、当時の「母性」尊重の風潮ともある程度リンクしていたと考えられます。こうした鎌倉初期における儒教および中国孝子説話の受容の問題については、現在論文を準備しているところです。
2、中国における孝子説話の機能――孝と樹木のシンボリズム
日本における孝子説話の受容の問題を考える上で、中国での孝子説話の機能を把握する必要があるので、同時並行的に中国の問題も扱っています。中国の孝子説話の展開を考えるときに重要な点は、孝子説話の図像が古くから墓に描かれてきたということです。このことは、いったい何を意味するのでしょうか。この問題を解くには、墓という場がどのような機能を担わされていたのか、当時いかなることがそこで起こることを期待されていたのかを考えてみる必要があるでしょう。
そこで私は、孝子説話の最初期の図像が刻まれている、漢代の豪族の墓に建てられた地上施設「祠堂」の画像石(山東省嘉祥県武梁祠)について、その全体的な再解釈を試みました。その際、特に着目したのは祭壇の真上に配された「台閣拝礼図」の神話的樹木「扶桑」のモティーフです。具体的には、同時代の諸文献およびイメージの分析を通して、「扶桑」は、仙人世界に導くつむじ風「扶揺」と互換可能なモティーフである点、そしてまた実際の墓域に植えられた樹木の表象でもある点を指摘しました。つまり当時墓という場は、子孫が死者となった親を仙界へ導き祖先へと変換するための施設であるとともに、子孫が定期的にその祖先を招き、直接福を受けるための施設でもあったのであり、そのために天地の昇降のシンボルである樹木のモティーフは重要な意味を有したのです。
では、そうした願いが込められた墓に描かれた孝子説話の図像は一体どのような機能を果たしたのでしょうか。従来、こうした儒教的思想を示す歴史人物図については、一族の徳の高さや子孫への勧戒を表すと解釈されてきました。しかし私は、上記の意味とともに、その一族の徳の力によって墓の樹木を変形させ、そこに天へ導く風や雲気を生じさせるような瑞祥に満ちた場所であることを寿ぐ役割を担っていたのではないかと指摘しました。このように、墓における孝子説話の図像は、それだけで単独に機能するのではなく、その周辺に描かれていたモティーフ、すなわち樹木にまつわる民間信仰(当時、樹木や雲気、風は天地の昇降のシンボリズム)や神秘思想(徳の力による樹木の変形など)との補完関係において機能していたのであり、その意味ではきわめて呪術的な図像であったといえるのです。なお、以上については、拙稿(「後漢墓の祠堂における孝の表象――扶桑樹と風・雲のモティーフをめぐって」『表象文化論研究』8号、2009年3月)において既に発表済みです。
この樹木や風のシンボリズムと孝との関係は、時代を下ると、孝を取り込んだ仏教の中で別の意味をもつようになると考えています。すなわち、天への志向性よりも「飛花落葉」といった老いや死の無常の観念と結びついていくのです。
また、この墓に孝子説話の図像を描く風習は、漢代以降も断続的に元明代に至るまで続きました。この点は日本の状況と大きく異なっています。日本では墓に孝子説話の図像を描くことはなく、親の追善供養のために制作されることはありましたが、その場合も中国におけるような呪術性とでもいうべき意味は有していなかったのではないかと推測しています。今後、日中(韓)のよく似た図像を丁寧に比較・分析する中で、こうしたコンテクストの違いによって説話の機能の仕方がいかに異なっていたのかを明らかにしていきたいと考えています。