全力退職青年

転職先も決めぬまま令和6年末で前職を退職し、無期限かつ有限なモラトリアムへと突入した32歳既婚男性が、その後の人生を模索するためにあがき、楽しみ、苦しみ、悩む様をリアルタイムに綴っていく記録です。

panpanya「商店街のあゆみ」を読んで。~住み慣れた家の近所にもひそかに非日常の実在を願う心~

手を付ける心が出来上がらず、ずっと積んでいた、敬愛するpanpanya先生の新作、「商店街のあゆみ」を今朝やっと読んだ。

しゅばらしかった。

 

panpanyaにであったのは、まだ就活生だったおよそ10年前のこと。

当時はまだ先生の名前を知らなかったものの、再販版の「足摺り水族館」を書店で見かけたのである。

その表紙のビジュアルもさることながら、私はその装丁(今見ても素晴らしい紙の選定と、天アンカットだと思う)に惚れ込んで、いわゆるジャケ買いをした。

 

画像は恐縮ながら拾いである。

ビニルに包まれた装丁。紙も柔らかい藁半紙のような感じでもっているだけで幸せになる。

 

私の惚れた天アンカット

 

 

氏の感性は、どうも私の本質と波長が合うらしく、現代社会で失われていく本来の自分を年に1回呼び覚ませてくれるのである。

 

そういうわけで、panpanyaの作品に触れるたび、この5年位で、自分が急速に失ってしまった時間の流れを取り戻せるような気持ちになり、スマートフォンをおいて散歩に出ようと思ったりする。

 

自分も昔は、panpanya氏のように、まるで異世界探訪でもするかのような新鮮な気持ちで周囲の景色を見ていたような気がする。
町は生きていたし、見慣れた建物であっても、些細な変化は常にあり、季節ごとに空気は異なり、その日その時々に応じて道からは違う声がしていたと思う。

時間はもっとゆっくり流れ、現実と空想は割と緩やかにつながっていたことを思い出す。

 

「ここはどうでしょうの旅」は、最近流行ったジオゲッサーというゲームに似ているが、本作のほうが早い。
この旅を見ていると、ありふれた生活風景の中に、どれほどの情報と発見、そして空想の余地があるかということを思い知らされ、同時にそれらの全てを、価値のないものとして捨ててきているかがわかる。

 

まぁ、実際にはなんの実利もないことは確かなのだが、ではどうして、そういった小さな発見に憧れを抱いてしまうのだろう。

 

「うるう町」は、とてもおもしろい発想だった。
確かに、ある限定的な場合にのみ存在するものを「うるう◯◯」とするような言葉遊びは、たまに見かけるとは思うものの、それを土地でやるところが、不変にして変容し、常に未知が身近に存在する生きた町を描き続けるpanpanyaらしい。
自分も一時期仕事で登記簿を随分と扱っていたが、あの記載が間違っているとは考えもしなかった。

 

市井では役所のことを悪く言うことが多いが、存外、行政の仕事については全幅の信頼をおいているものだなと感じた。

 

しかし、何年も住んだ家の近所を歩いていても、ふと見た横道をまだ一度も歩いたことがない、ということはよくある。
そんな時、用もなくただ遠回りになるその道に足を踏み入れたいという逆らい難い欲求に襲われる。

 

実際、歩いてみればなんともない事もあれば、その道だけではなく、その区画ごと歩いたことがなかったりもして、まるで異郷に迷い込んだような気分になることもある。

 

私の家の近くには小さな山があり、その山を挟んで東西で、町の出で立ちから作られた時代、住んでいる人の所得水準もまるで違う。山の向こうは古く、そして裕福な地域となっていて、建物も一般的な市街地では見ることができないようなものが乱立している。商店の雰囲気も、ひなびているか、とても粋で小洒落ているかのどちらかである。当然山の向こうは車前提の作りをしていて世界が広い。

 

ところで山というのは、市街地にある小さなものであるとしても、町という人の香りをかき消す自然だ。
山の中に這入った瞬間に、その直前にいた町の記憶は中断されて、一時停止のようになる。
そして自然を超えて山を降りると、どうやら脳は、直前の町の続きに降り立つと思い込むらしい。

 

しかし、前述のとおり、全く構造の違う町が広がっているものだから、まるで別世界に迷い込んだかのような、不思議で、少し怖いけれど高揚感のある、ふわふわとした気持ちになる。

 

道と未知は読みが似ているが、おそらくハレとケとでも言おうか、私達は、自分の住む日常の町のどこかに、未知なる非日常も存在していてほしいと、ささやかに願っているのだと思う。

 

だから、どうしてか知らない道に心惹かれるし、なんの実利もないにしても、住処の近所にまだ自分が知らない物を見つけると、理由の説明できない幸福を覚えるのだろうと思う。

マズローの欲求階層説における、承認欲求の優先順位の変化について思うこと

備忘的に記す。

ある話をしていて、マズローの欲求階層説について考えた。

 

人の欲求は

生理的>安全>社会的>承認>自己実現

の順に優先され、より強度の高い欲求が満たされて始めて、次の階層の欲求を満たそうとすることができるというものだ。

 

これについて、現代においては承認欲求が随分と優先される様になったのではないかと思う。

一方で、社会的欲求は優先度が下がっているように思う。

言うなれば、

 

生理的>安全>承認>社会的>自己実現

 

こうなったように感じる。

 

単なる思いつきでしかないが、なにかに使えるかもしれないので残しておく。

 

まず、社会的欲求から考えていく。

この思考の先に、承認欲求の充足の優先理由も見えてくる。

 

さて、自分に立ち返って考えてみても、現代は社会の存在が弱い。あるいは秘匿化・隠蔽化されている。意図的に見えないようになっている。

行政が偉そうにしていた昭和以前に比べて、行政は非常に小さくなることを求められ、そして同時に行政の積極的な干渉がなければ生活できない人が少なくなった。

もっとも大きい社会である、行政というものは、陰日向に支えるものとなった。

 

これに伴って地域互助もその優位性を失った。

近所付き合いはむしろ憚られるものとなった。

人の流動性が上がるとともに、地域への帰属意識も失われた。

 

ある意味経済が安定したのだ。

市民は独立性を、自立性を獲得したのだ。

 

こうして私達の根底には、「そもそも社会のお世話になっている」「社会がなければ立ち行かない」という感覚が無自覚のものとしても、失われてきたと思う。

 

そしてゼロ年代以降においては、注目されるのはもっとミクロな社会だった。

例えば学校や職場だ。

マクロレベルの社会への帰属意識は弱まった一方で、特に情報通信技術の成長とともに、ミクロな個人間の接続は強化されたはずだった。

 

しかしこれも令和に突入すると、つながる先が格段に増えた。

SNS等を代表する、マクロなインターネットである。

つまり、人は実態のない無尽蔵なネットワーク網に常にさらされている。

 

そこでは、常に誰かとの接続が持たれているが、明確に境界のある「社会」は形作られず、1対多または多対多のような、あくまで「個人対個人の集合」といった関わりの網なのである。

 

当然学校のようなミクロかつ閉域の社会もある。

しかし、学生が情報を交換し、そして自分と比較する相手は校友に限らない。同年代或いは年代を超えて、「カテゴリ」というゆるい共通点によって緩やかに繋ぎ止められたネット上のあらゆる個人が相手となる。

 

そのような社会においては、例えば学校、例えば会社内の閉域の社会でどれだけ頭角を表そうとも、それは平成以前ほどの威光を持たない。

常にそのカテゴリの上位存在が、Web上にいるからだ。

ミクロな社会のメンバーの信心が、すべてミクロな社会の中で消費されるわけではなくなっているのである。

 

そういうわけで、人は社会性を優先する意義を失いつつあるのだと思う。

 

同時に、社会に対する個人の影響力は、一般には失われるばかりだ。

社会に興味を持つことは、むしろ非効率的となった。

過去においては、社会へ影響することだけが、唯一自分の境遇を救ってくれるものだったかもしれないのだが、現在においてはむしろ、強大な個人となることのほうが、よほど自分を救いえるのである。

 

一方で人は、常に所属しているか否かにかかわらず、より広範囲の「カテゴリ」という塊の中で比較され続ける事となった。

つまり、小さな社会がすべてだった時代以上に、より多くの可能性の中で、自分の価値を値踏みされ続けるような状態になっている。

 

それは、個人の社会的価値が、多くの可能性、多くのサンプルの中で検討され続けているような状態である。

この1対多のネットワークの中で、個人は、自分の実存の様々な可能性を観測し、内的に自分と比較して、優劣をつけ続けることを強制されている。

 

「この学校は自分と合わなかった」

「この会社のあのひとに嫌われているから」

 

そういった言い訳は、現代においては通用しない。

そういう境遇でもうまくやった事例を、いくらでも見せつけられるからである。

1億以上の試行回数を踏まえた正解が、常にどこかにあり、自分が正解ではなかったことを嫌でも自覚させられる。

現代とはそんな時代である。

 

故に、承認欲求とは、過去においては、自分をプラスに見せる欲求だったかもしれないが、現代においては、安全の欲求なのである。

 

マズローは安全欲求を物質的欲求とした。

しかし、現代においては、安全欲求の中に物質的欲求と精神的欲求が併存していると私は思う。

さらされ、観測し続ける膨大な人間の実存のサンプルデータに対して、自分の有用性を認めることは、もはや自己の存在の肯定に必須となってしまっているのかもしれない。

 

少なくとも、そういう一対多ネットワークに浸かってしまった人にとっては、そうなのであり、その人数はかぎりなく増えてきているのだ。私の考えに違和感がある人は、まだそういったネットワークの中で生きていないということかと思う。

今はまだ、旧来の社会型の人間と、新しいネットワーク型の人間が入り混じっているため、価値観に相違があるだけなのではないかと思う。

 

書いて見れば、別段新説でもなんでもない手垢という感じだが、思ったことをとりとめなくも自分で文字にすることに意味があるように思うため、ここに残す。

無題

好きなものを嫌いになろうと必死になって、

好きでもないものを好きになろうと一生懸命だ。

きっと、誰もが。

どうして、素直になることは、これほど難しい。

「誰が勇者を殺したか。」は私を殺すことになるかもしれない。

「無駄になるかもしれないという恐怖と戦いながらも、前に進むことが正しいのだと、俺は思うようになった」

 

その言葉が、私には光に見えた。

 

誰が勇者を殺したか。なんていう、表題になっている命題なんてどうでも良くなってしまうくらいに、私はこの作品にアテられた。

まさにそれは、今私が仕事を辞めて、迷いに迷って、自分を誤魔化そうという理性と、いや違う、そんなのは嫌だという本能のせめぎあいにおいて苦悩していることだったからだ。

 

BUMP OF CHICKENの「才悩人応援歌」に、こんな詩がある。


 ーー大切な夢があった事 今じゃもう忘れたいのは
   それを本当に叶えても 金にならないから


この歌詞の素晴らしいのは、「今じゃもう忘れたのは」ではないところだ。

「今じゃもう忘れたい」なのだ。

全く、何一つ忘れられていないのである。


私は、自分が、自分のやりたいことから顔を背けていることを知っていた。
知っていたけれど、それはほとんどの確率で成功しなくて、仮に成功したとしても、それを継続して打ち続けるのは難しいし、大抵の場合十分な収入にもならない。
だから、なんとかして、やりたくなくなりたかった。

 

代わりに、自分の能力において再現度が高く、かつ金や安定を得られるようなことを、なんとかして好きになれないか、やりたくなれないかということを、この10年努力して来たのだった。

そして、本当にやりたいことには、何一つ努力しないようにしてきた。
おかしな話である。

けれど、不幸なことに、私は一般に必要とされる学力や仕事力が、平均よりはずっと高かったのである。
残念ながら、再現性の高い努力をすれば、その道は、多分今も十分に開かれている。
そういう意味で、私は本作のレオンの立場がよく理解できる。

 

どう考えたって、私にとっては、小説家になるなんていうことよりも、PMやコンサルの道に進むほうが、妥当で、合理的で、現実的な答えだからだ。

しかし、人は自分の心を裏切ることはできない。

この本を読んで、改めて自分の内側の願望を見つめ直させられてしまった。

 

本作の著者は44歳から小説を書き始め、45歳で大成した。
ものすごく運が良かったと言えるし、彼の人生全部の積み重ねの結果だとも言えるのかもしれない。

だが、そんなもの、結果論ではないか。

 

こういう稀有な遅咲きの成功例が、なおさら私の目をくらませるのだ。
もしかしたら、自分も・・・なんていう愚かな希望を胸のうちに抱いてしまう。

いや、元からずっと抱いている、そして蓋をし続けてきた希望に気付かされてしまう。

 

いずれにせよ、彼は玉石混交の「小説家になろう」からのデビューである。そこでは投稿者それぞれに、人生があり、そしてその大半は書籍化はおろかまともに読んでもらうこともできずに終わる。

私がそれをなぞっても、98%以上そうなることが関の山であろう。
それが現実ではあるのだが、この作品は、「失敗を恐れずに挑戦しろ。心配するな、俺が買ってやる」と言う。

 

これは成功者の驕りなのだろうか。
結局は、出版して陽の光を浴びたからこんなことを言うのだと卑屈になるのは簡単だが、そうではない。
これを執筆していたその時点では、まだ成功なんてしていなかったのだから。

 

本作の主人公は、誰もが絶対に不可能だと思う中で、一人だけ「勇者にならなければならない」と、最大限の努力を続ける。

それはきっと、本作を執筆しているときの彼の状況そのものであり、同時に、世界に対して、十分な努力は、十全に報われてほしいという願いだっただろう。

 

だからこの言葉は、執筆当時の彼の祈りだ。
自分の、あるいはまだ見ぬ誰かの人生に対する祈りだ。
小説を書くという、途方もなく長く、しかも大抵は金どころかゴミにもならない作業を日々続けることへの願いだったのだと思う。

 

それが、今は、結果として、私のような読者を感動せしめているのだ。
(当然のことだが、小説に限らず大抵の夢というのは再現性が低いことは言うまでもない。すなわち、この言葉は何人もの人を地獄に突き落とす責任を伴う悪魔の言葉でもある。作者は、当たり前だが私が書いたとしても買ってはくれまい)

 

しかし、日の当たらなかった第1作に次ぐ2作目が、終わりの保証のない努力をひたむきに重ねる勇者の話であり、努力礼賛の物語である。


著者も、きっと、なにくそと思いながら、その未来への不安とその先への希望のないまぜになったような思いで本書を書いたのだろうと思うと、たった252ページのライトノベルは、私の左手に確かな重みを感じさせたのであった。

 

 

この作品のために、私が真剣に自分の心に向き合う決意を固めたとしたら、私はこの本に殺されることになるかもしれない。

それでも続ける覚悟が、果たしてあるだろうか。

大人になってから読み返す「坊っちゃん」がめちゃくちゃ面白かった件について

突然だが、1月下旬に香川から愛媛まで母と二人旅行に行くことにした。

 

ここ数年民俗学などにも興味があり、四国といえば霊験あらたかな地でもあり、私にとっては未踏だったため、古代の日本の在り方に思い馳せてみたいと思っていたところである。

こんな機会でも無ければ、長期旅行などできないし、ある種の親孝行として母に持ちかけたのが発端だ。


その際に母が坊っちゃんにあやかって松山から道後温泉に泊まりたいというので、そうしようと、漱石を読み直すこととした運びである。

青空文庫で読めるためリンクにはそれを貼ったが、私は注釈や解説を信用している岩波を買った。

 

作品の顛末については未読者を考慮してここでまとめないが、一部具体的な出来事に言及することを許されたい。

あらすじをまとめることも避けるが、大前提を雑把に言えば、ある仁義と人情を尊ぶ江戸っ子な若者が、四国に渡って中学校で数学教師になり、辺境の地の様々な人間模様を見て色々思うお話である。

 

多くの人は教科書で読むイメージかも知れないが、大人になってから読んでみると、僧籍の人間を捉える視線の鋭さと、主人公の痛快さが非常に面白く、また心に思い留める言葉がいくつも見つかる一遍だった。

 

特に、主人公が校長に辞表を突きつけるシーンがあるのだが、似たような境遇から仕事をやめた直後の身であった自分には、とても自分と重なるものがあった。
私も同じように、こんな不純な場所にいたら腐ってしまうと思って辞めたからである。

 

しかしそれは、単にやめようとした境遇が似ていたというところではない。

彼は、まだ青臭くも、人生に真剣だった頃の私だったのだ。


主人公は23歳4ヶ月だという。私が入社したのは22歳の年で、当時は、そしてそれ以前の学生時代には、誠実と実直こそが真であり、それを貫かずして人間を名乗れるものかと思っていたし、事実そのように行動するタイプーー悪く言えば周りから浮いてしまうようなーーの人間だった。

 

それによって良い評価や信頼も得ていたとは思うものの、今に思えば当然のこととして、随分と嫌われたり敵愾心を向けられたり、嘲笑われた事もあったように記憶している。

しかし、当時の私にとって、そんな他人の嘲笑は私の敵にもなることはなく、己を貫くことを恐れていなかったように思う。

 

私が辞職するこの数年を振り返って見て、私はすっかりその実直さを失ったと思う。
私に決定権はなく、かといって上に事業を推し進める力はなく、腹を決めて責任を取る覚悟もなく、ただただ保身と停滞ばかりが優先されていた。
まったく空洞化したおままごとのような社内政治と外見の取り繕いに奔走させられ、それで金をもらっていた。


全く、本書の主人公の赴任した中学校の狸校長と赤シャツ教頭の振る舞いそのものである。


主人公はそんな校長について、「煮えきらない愚図の異名」と評する。
まこと痛快である。

 

どうして、自分の心の信じるままに生きることができなくなったのだろう。

それは、失うことが恐ろしくなったからだと思う。

そしてもっといえば、大抵の失うこととは今ではなく、未来の話である。

 

「ここでの評価が、この先のキャリアに関わるかもしれない」

「この人に嫌われたら、この先の異動にも悪影響がありそうだ」

「安定した稼ぎがなければ、将来困ることになるだろう」

「ここで仕事を辞めたら、将来が不安だ」

 だから、〇〇できない。

 〇〇やめよう。

 ☓☓しておこう。

 

何度そう思ったことかわからない。

 

人はなぜか、将来の不確かな利益(?)のために、今の苦痛を我慢することをためらわない。当然のこととして受け入れる。

だが、今楽しんで将来を苦しんでも同じではないか?

思っているより、自分は現在を生きていない。

未来を憂いて、毎日毎日、現在の自分を生贄に捧げ続けている。

結局、日々が辛い。

エブリデイ・サクリファイス。

 

ではなぜ、今を今のために生きられないのだろうか。

思うにそれは、今の苦痛の長さより、将来の苦痛の長さのほうが長いと考えているからだと思う。

人間の寿命は、少し伸びすぎたのかもしれない。

だから年を取ると、未来の憂いを持たなくなるから、自分勝手になる人が増えるんだとも思った。

 

子ども時代に読んだ記憶はだいぶ薄れていたが、大人になって読み返すと、かえって鮮やかに感じられ、そしてより一層面白く読んだ。

こんなふうに、32歳の無職野郎に、「今を生きること」を考えさせてくれるのである。

小説とは素晴らしいものだ。

 

それからこれは人生の「先」を知ってしまっている(未来ばかり見ている)大人の悪い癖だが、これを子どもの教科書に載せて読ませたいと思う気持ちも、理解してしまうのだった。

自分も年を取ったものだと思う。

 

だが、これは本当に悪い癖だ。

子どもに読ませるべき物語とは、夢を語り、心が踊り、覇道を示し、あるいは青少年に寄り添ってくれるようなものであるべきだと思う。

ライトノベルでも良いと思う。むしろそのほうが良いかもしれない。

未来ではなく、当然過去でもなく、なにより「現在」を楽しむことに繋がる、そんな物語であるべきだと思う。

 

 

さて、最後に備忘を兼ねて、忘れまいと思う部分を2箇所引用しておくことにする。

「考えてみると、世間の大部分の人はわるくなることを奨励しているように思う。わるくなければ社会には成功しないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する」

「議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向がいくら立派だって腹の中まで惚れさせる訳には行かない。金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸しでも巡査でも大学教授でも、一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌で働らくものだ。論法で働らくものじゃない。」


話は逸れるが、現代語の父である漱石だが、現代の日本語では誤用とされる日本語がいくつも見られる。
誤用などというものは、てんでくだらないものだ。
日本語とは、真に自由な言語である。
誤用かどうかより、どう書きたいか、どう伝わるかの二軸で言葉を選びたいと思った。

ぼくの考える最強の「Fate」参入完全ガイド

まずは、私の価値観がFateによってどのように変化したかについては、前記事「人類史とはいかにして肯定し得るのかという壮大な実験ーー 「Fate」との出会い」を読んでいただきたい。

 

そのうえで、私の考えるゼロから始めるFate世界のロードマップは以下のとおりである。

理想的なバージョンと、ライト版を用意する。
(理想版にも小説版を含めるなど徹底したバージョンもあるが、ここでは主題に近い作品のみを扱う)

 

■ライト版

原作ゲームがかなり古く、現代の諸氏にはプレイ感が受け入れにくい可能性があることと、原作ゲームでいう1つ目のルートのアニメ版がかなり古く質が悪いため、この2つを省略したバージョンである。

ただし、原作ゲームは「記憶を消してやり直したい」という人もいるほど人気な作品ではあるため、そういう方は理想版①を参照されたい。

また、途中でハマって来た等の場合は、途中から理想版に移行してもいいだろう。

 

â‘ Fate/stay night [Unlimited Blade Works]:

新しい方のアニメ版。

原作ゲームでいうと2つ目のシナリオになる。

ライト版パスでは原作の一番最初のルートを知らずに観ることになるが、本作アニメはかなり出来栄えがいいため、ライトに入る分には十分。好きになってから原作をやるのでもいいだろう。

「いや、ちゃんと1ストーリー目から順番に見たい」という方におかれましては、スマホでもできるゲーム版の Fate/stay night[Realta Nua]のFateルートだけを先にプレイすることを推奨する。Fateルートはなんと無料なのだ。

 

②Fate/zero:  

「ゼロ」表記からもわかるように、stay nightの前日譚である。私が最も好きな作品でもある。原作は小説4冊で重めなのと、アニメの出来はかなり良いため、アニメでの視聴でも問題ないと考える。

アマプラなどで観ることができる。

 

③Fate/stay night [Heaven’s Feel]: 

原作ゲームの最後のシナリオの映画版。これはレンタルしかないので3本で2,000円かかってしまう。

 

④Fate/Grand Order: 

ソシャゲである。これの悪いところは、ゲームを長くプレイしないとシナリオを読めないところであるが、前の記事でも書いたように、プレイヤーが自らの手でゲーム内世界を長い時間プレイして生きていくからこそ得られるものもあるのである。

特に冒頭のストーリーは正直ファンストーリー程度であり、1部6章、7章あたりからストーリーの面白さが増し、2部に突入することで前の記事に書いたようなFGO世界の実験が果たされていく。

ある意味FGO第2部にたどり着かなければ、Fate世界の真髄は味わえないのである。

 

 

■理想版①: 原作ゲームをプレイする

理想版①は、「記憶を消してやり直したい」と言われるほどの名作とされており、stay nightについてはゲームプレイを前提としたルート。

ただし、①においてはFate/EXTRAをすべて無視している。

EXTRAは、前の記事で語ったFGO世界による思索のプロトタイプのような作品であり、特にFGO後半ストーリーについては、EXTRAをやっておくことで感動も跳ね上がるだろう。これについては「理想版②」に記す。

 

â‘ Fate/stay night [Realta Nua]:

原作ゲームの全年齢移植版。PC原作は絶版であるが1万円程度で中古市場にある。私はCD版原作を購入した。もとがR18であるため若干ストーリーが異なるものの、主題を読む分にはアダルト要素は不要かとも思うし、全年齢版はフルボイスであり、特に主人公の演技が素晴らしいため、むしろ移植版からのプレイも推奨できる。

スマホでできるが、1ルートめのみ無料で、2ルート目、3ルート目は1500円ずつかかる。

ちなみに、各ルート内ではエンディングは1種類のため、とにかく最後まで行き着けばそれでOK(真エンドとかはない)

②Fate/zero: 

理想版においても、アニメ版の視聴を推奨しておく。

â‘¢Fate/Grand Order

解説はライト版に譲る

 

■理想版②: EXTRAもプレイする

前述のとおりに、Fate/EXTRAは、FGO世界観の原点のような作品。

また、FGOのいくつかのストーリーは、EXTRAシリーズをプレイしていることによって、より感動が強まるようになっている。

そのため、個人的にはEXTRAのプレイを推奨したいが、いかんせんPSPがないとプレイできない点で万人に進めにくい上(来年にはリメイク版の発売予定があるが、それでも続編のCCCはPSP限定である)、難易度が結構高めのゲームである。

また、明らかに低予算のゲームであるため、人によっては冒頭で面白さを感じられず、離脱してしまう可能性も懸念される。

しかもシリーズがかなり長く、全部やろうと思うとけっこう大変だ。

ただ、それだけ長く続く人気があるということではあるし、何よりFGOのあるストーリーでは絶対にやっていたほうが理想的だとは思いはする。

真剣にFateに触れたい諸氏にはおすすめしたいが、「やれ!」とは言い難いため、理想②とした。

 

なお、EXTRAのプレイタイミングだが、stay nightクリア後~FGO第1部終章までであれば、正直どこでもよい。FGOクリア後に現れるステージから、EXTRA関連のストーリーが始まっていくからである。

そういう意味で、FGOプレイとEXTRAのプレイは平行することが可能である。

ただし、stay nightのプレイは実質前提となっており、並行プレイは推奨されない。

â‘ Fate/stay night [Realta Nua]:

②Fate/zero: 

③A Fate/Grand Order(1部終章まで): 

3Bと平行プレイ可能。

③B-1 Fate/EXTRA: 

PSP専用ゲーム。本体もソフトも中古で購入する必要がある。ちなみに来年リメイク版が発売されるようなので、

難易度が結構高いため、攻略サイトを見た方がよい。また、Easyモードでプレイしてよい。

ポケモンのように最初に主人公の性別と味方を選ぶことができ、組み合わせによってそれぞれストーリーが異なる。難易度や専用シナリオの都合から、おすすめの手順は以下のとおり。

  1. 男主人公×セイバー
  2. 男主人公×キャスター
  3. 女主人公×アーチャー

個人的にはアーチャーが一番大変。また、キャスタールートがかなり良かったほか、続編のスピンオフ作品のことを考えると、キャスターのプレイは推奨したいのだが、1周目は難しすぎるため、絶対に推奨できない。

 

なお、ルート分岐が1つだけある。どちらもエンディングはほぼ共通なのだが、次作やFGOの前段階として知っておくべきルートは「ラニルート」である。なので1周しかしないつもりの場合は、ラニルートを選択することを推奨する。

 

â‘¢B-2 Fate/EXTRA Last Encore

EXTRAのアニメ版である。EXTRAのシナリオは、もともとの脚本家の問題や、予算の都合で原作者のやりたかったことは十全にできなかったらしい。そのため、このアニメ版ではゲームとはまた違ったことを試みたし、続編のCCCも作られたという。

 

③B-3 Fate/EXTRA CCC: 

EXTRAの続編。難易度はだいぶ下がっていると思うので、どのサーヴァントから選んでも大丈夫になった。ただし、ギルガメッシュのみネタバレ要素があるため2周目以降を推奨する。

これ以降は、詳細を書き始めると攻略サイトのようになってしまう。ここまで来た諸氏であればさすがに自分で調べるやる気がある人だけだと思うので、詳細を割愛し、作品名に留める。

 

③B-4 Fate/EXTRA CCC Foxtail: 

コミックである。CCCのスピンオフなのだが、ここでしかでてこないサーヴァントなどがFGOで活躍するため、興味がある場合は見ておくほうが望ましい。

 

â‘¢B-5 Fate/EXTELLA

アクションゲームになり、スマホでプレイできるようになった(1,800円)。

 

同上。

 

 

ここにない作品については、Fateが好きになってから自由に触れたらいいと思う。

(私も全部に触れきれてはいない)

 

また、Fateではないのだが、「月姫」、「魔法使いの夜」、「空の境界」については触れておくことで、共通する世界設定に対する理解が深まる。

(もともと私は、創作の参考とするため、むしろこちら側の設定を調べることをきっかけにType-Moon作品に触れ始めたのである)

 

 

さて、長くなってしまった。

これを見て、むしろ「うっ・・・じゃあいいかな」となってしまった方もいるかとは思うのだが、個人的にはぜひ手にとっていただきたいと思うところである。

 

 

 

 

 

人類史とはいかにして肯定し得るのかという壮大な実験ーー 「Fate」との出会い

今週のお題「読んでよかった・書いてよかった2024」
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今年、ずっとためらってきたものの重い腰を上げて触れたコンテンツ群にFateがある(型月全般には触れられておらず、今はFateに留まる。)

Fateシリーズに関しては、FGO以前とFGOで個人的には意義や価値が異なると思っているのだが、いずれの作品についても、総じて触れてよかったと思った。

 

たかだかゲームと思うことなかれ、である。

 

あらゆる創作物は、文字であれ、音であれ、絵であれ、今我々が良いと思っているものは、当代においても常に当たり前のものではなく、当時は「そんなくだらない表現」とされた形式が、今となっては本流とされている物が多くある。

人は、否応なく変化を繰り返し、失敗の連続の先に僅かな光を見出し進展してきたのである。

20世紀後半から21世紀初頭の日本において、ゲームとはまさにこの1つであると思う。

前の記事でも書いたが、例えば西洋において伝承や詩に対して、思索としての小説という形式が開発され、そこでしか試み得ない思索・表現を人類が獲得したときや、20世紀初頭に「活動写真=映画」という表現を獲得してきたように、20世紀後半に我々はゲームという表現方法(もっと言えば、表現物の享受形態)を獲得した。

 

ゲームストーリーの特徴というのは「捧げられる時間の長さ」と、そしてなにより「自分自身が主人公として振る舞う」という”シンクロニシティ”にあると考える。

 

Fateは2004年に第1作であるFate/stay nightが発売された伝奇ビジュアルノベルであり、過去の人類史に刻まれた英雄を召喚して、万能の願望機である聖杯を奪い合い争うという世界観に基づき、様々なストーリーが展開する作品群である。


詳細はまた別の機会に語りたいところではあるものの、端的に言えば「自分たちの起こしてきた過ちとどのように向き合うべきなのか」、そして我々が「なぜ前を向かなければならないのか」といったような、人間としての生き様、矜持について自覚させられるものであった。

 

そして、特にFGO後期にて顕著になっていくのだが、この作品に捧げられている精神性とは「人類史は過ちの連続であり、我々はそれを学び、自覚しなければならない」という内観と、同時に「そのすべての過ちを自覚しながら、その積み重ねの果てに、いかにして私達の人類史を肯定できるのか」といった、徹底的な検証の姿勢である。

 

過去は変えることができない。

しかし人類は生き続けなければならない。

だが人類は罪深い。これは過去に限らず現在進行系で続いている。

そんな人類は、果たしてこのまま生き続けてよいのだろうか。

 

これは、現代に生きる我々に課せられている永遠の命題だろう。

そして多くの場合この問いに対して「どのように良くするべきか」という手法的アプローチから解を求める。

しかし、Fate(特にFGO)の試みとはそうではなく、「なぜ人類史の存続が、世界という巨大なシステムの抑止力を振り切ってまで存続することが認められてきたのか」という問いかけとして捉えているのである。

 

言うまでもなく、自然というのは、「安定した状態に戻ろうとする力(これをレジリエンスという)」が非常に強い。

”自然淘汰”といえばわかりやすいだろうか。
この力によって、最も良い形を維持するように何億年ものあいだ、この世界は発展してきた。

 

過ちだらけに見える人類は、それでもこの2万年以上もの間、この地球のレジリエンスによって、少なくとも抹消されることはなかった。

言い換えれば、なんだかんだ言っても、私たちの人類史は「地球に存続を許容されてきた」のである。

Fateは、この事実をまず大前提としてスタート位置におき、「ならば、どのようであったなら、存続が認められなかっただろうか」と問いかける。

それを考えるために、Fateは、自分たちの人類史の汚点を克服したような、”あり得たかもしれないより良い人類史”を対抗馬として空想し、私達の人類史と対決させるのである。

 

その”一見してより良さそうな世界”を目前として、Fate世界は、「それでも我々の人類史は、存続するに足るものだろうか」と自省する。

そして、「ありえたかもしれない人類史の否定」を通じて、Fateは、自分たちの人類史の過ちをすべて飲み込んだうえで、「未来の可能性の強さを信じろ」と、訴え続けている。

 

この検証が正しいかどうかは、ここで語るものではない。あくまでエンターテインメントであるし、当然、我々の人類史の存続を肯定するべき要素を見出すための思索であるから、最初からフェアな検証とは言えないかもしれない

少なくともアカデミックに許容できるアプローチではないだろう。しかし、小説という思索がもとよりアカデミックな論評に耐えるための論文ではないのと同様に、ゲームという思索も客観的な正当性を主張するものではないのである。

 

だが、私はこのFateの示す道しるべから、長大な人類史の正負の積み重ねの重みと、超大局的な視座に立ったうえでの私達の取るべき行動理念という価値軸を得た。

これは2024年と言わず、この10年においても1,2を争う価値観の変革であった。

(ちなみに争うもう一方は「本好きの下剋上」シリーズによって得た、「祈り」という在り方についてである。)

 

これを読んでFateに興味を持っていただける方がどれくらいいるかはわからないが、まだ触れていない諸氏においては、コンテンツが多く大変だが、ぜひ触れてみてほしい。

 

私の考えるFate世界に参入するロードマップについては、次の記事で解説しているので、参考にしていただきたい。

ただ、かえって大変だなぁと思ってしまうかもしれないので、思い思いに触れてみるのでもよいかと思う。

 

 

 

 

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