「発達」と「人格」はなぜ択一処理されるのか?
川畑友二「アスペルガー症候群とシゾイドパーソナリティー障害との関連について」 - sociologically@はてな
http://d.hatena.ne.jp/iDES/20071202/1196611156
アスペルガー障害とシゾイドパーソナリティー障害との関連性についての論文。広汎性発達障害と人格障害の関連性では重要になってくる論点。何が問題なのかというと、人格障害(II軸)で診断を取れば、広汎性発達障害(I軸)の診断はとらないことになる(少なくともとる必要はない)ということである。逆に人格障害を取らなければ、広汎性発達障害という診断は増加する。この診断は、医師の立場の違いによって大きく違ってくる。
先天的かつ肉体的原因に基づいた要素の多い発達障害の方が、障害診断における上位概念であり、
後天的かつ環境的原因に基づいた要素の多い人格障害の方が、下位概念であると整理した方が、
よほどスッキリすると思うのだが。
そんな二者択一を前提とするから「DSMを信じるか否か」という「神学論争」なども派生するのである。
全く無駄の極地だ。
いずれにしろ肉体に基づいた不適応なり、否定形要素なりが問題となっているのだから、
当事者が現在持ちえている所有環境に応じて、それこそ臨機応変に両者を並列的に使い分けるということはできないのか。
安定した環境、あるいは時間的余裕がある環境の下での不適応なら、発達障害の診断を取ればいいし、
不安定かつ、切迫した状況にあるというなら、人格障害の診断を取る、という風にはできないのか。