ロンドンの暴動 -1980年代に起きたこと
「80年代の話とは全然関係ない」「今、暴徒になっている人はその後生まれた人たちだから、記憶にないんだよ」という人も多い。それでも、「何でないか」を知ることも必要と思う。
以下、主にウィキペディアの英語版から情報を取った。(もっと知りたい方はBrixton riot, Broadware Farm riotなどのキーワード、そのリンク先などを探ってみてください。)
―有色人種の住民対警察
その前に一般的な話だが、有色人種の英国国民の一部、具体的にはアフリカ系、カリブ系と識別される、肌の色が褐色・黒色の男性たちの一定年齢の人たち(10代から40-50代ぐらい)は、警察による路上質問に捕まることが多いといわれている。いくつか、統計の数字でもそれは確か明らかになっている。これは、1つには、犯罪者や刑務所に送られた人の中で、この範ちゅうに入る人が、ほかの人種グループと比較すると、非常に多いからだ、と聞いている(この点についても数字がいろいろなところで出ているのだが、今回はちょっと省略)。
何故そうなるかというと、話が長くなり、統計・数字なしに語ると、「人種差別主義者」として批判されてしまうのだけれど、肌の色自体が一義的に問題なのではなく、例えば家庭環境(親に仕事があるかどうか、安心感を抱かせるような環境にあるかどうか、両親や家族が犯罪者であったかどうか、あるいは過度の飲酒あるいはドラッグ体験があるかどうか)や教育程度によって、その人の社会環境が変わってしまうからだといわれている。
警察と有色人種の(若い)男性たちとの関係は、必ずしもハッピーなものではない。おそらく、「不当に疑惑の目を向けられている」と感じる有色人種の男性たちは少なくないはずだ。
1993年に、黒人青年スティーブン・ローレンスが、バスを待っているときに数人に殴打され、殺害された事件があった。犯人グループとされる5人が逮捕されたのだが、有罪には至らず。人種差別主義者の男性たちがローレンスが黒人だから殺害したのではないか、とみんなが思っていたが、誰も有罪にならないという状態に。1999年、この事件を調査したマクファーソン報告書は、ロンドン警視庁が「組織として人種差別主義的だ」と弾劾した。
-ブリクストン暴動(1981年)
南ロンドンのランベス特別行政区の住民と警視庁が衝突したのが「1981年ブリクストン暴動」である(ブリクストンはランベス区の中にある)。
1980年代初期、不景気の英国で、もっとも打撃を受けた地域の一つが南ロンドン・ブリクストン地区に住む、アフリカ・カリビアン系住民のコミュニティーだった。高い失業率、貧相な住宅、平均より高い犯罪率に苦しんでいた。
警察と住民との衝突事件が何件か発生し、1981年4月上旬、警視庁は犯罪撲滅のため、「スワンプ81」作戦を開始した。ブリクストンに私服警官が派遣され、5日間に1000人が路上で職務質問を受け、100人が逮捕。4月10日、警官から逃げようとした黒人住民マイケル・ベイリーと警察官らとの間でもみ合いになった。ぐったりとなったベイリーを警官らがパトカーで運ぼうとしたことに、地域住民が反発。11日、多くの住民は警察がベイリーを見殺しにした、殺したのだと信じ、群衆となって集まりだした。
その後、群衆の一部が店舗の襲撃、瓶やレンガなどを警察隊に投げつけるなどした。10日から12日まで続いた事件で、100台以上の車に火がつけられ、150の建物が損害を受けた。82人が逮捕された。警視庁からは約2500人、暴徒は5000人が参加したといわれている。
―ブリクストン暴動(1985年)
南ロンドンで9月28日に発生した暴動である。警視庁の捜査員らが、拳銃所持違反などの疑いで、マイケル・グロース宅を捜査。このとき、グロースは自宅におらず、母親のドロシー(ジャマイカ出身)が在宅だった。しかし、警察は息子マイケルが在宅中と思い、手荒な捜査を実行。このとき、ドロシーは警察官による発砲で、下半身マヒ状態となってしまう。(後、警察はドロシーに賠償金を支払った。)
ドロシーがジャマイカ出身だったため、地域の住民は警視庁による人種差別行為が起きた、と見た。また、母親は既に死んだと解釈して、怒りを感じた住民の一部が地元警察署の周りに集まりだした。集まった群衆のほとんどが黒人で、逆に警察側はほとんどが白人。こうして、地元住民と警察との対立が大きくなった。地元店舗への住民による襲撃、窃盗、放火が発生した。
窃盗行為の写真をとろうとしていたジャーナリストが、暴徒たちから攻撃を受け、後命を落とした。
―トッテナム・ブロードウオーター・ファームでの暴動
今回の暴動と直接比較されているのが、同じトッテナム地域(ハリンゲイ行政区内)で発生した、1985年10月の暴動である。このときは同地域のブロードウオーター・ファームが事件発生地となった。
10月5日、黒人男性フロイド・ジャレットが、「路税支払証明書」(道路税を支払ったことを示す、自動車のフロントガラスに掲示する丸いラベル)にかかわる疑念で、逮捕された。4人の警官がジャレットの自宅を捜査。ここには母親シンシアも住んでいた。警察と家族との間のやり取りの中で、シンシアが転び、心臓発作で亡くなってしまう。(後、娘が警察官に押されて亡くなったと主張したが、自然死という判断が出た。)
シンシアの死で、もともと警察が人種差別主義的だと考える地元の黒人コミュニティーの中に、大きな怒りが生まれた。その1年前には、黒人女性チェリー・グロースがブリクストンで警察官に射殺されていた。
トッテナム警察署の前に抗議のために群集が集まりだした。警察と黒人青年たちの衝突が発生し、抗議側はレンガや火炎瓶などを警察官らに投げつけた。こうした中で、警察官2人と、3人のジャーナリストたちが流れ弾を受けた。店舗の窃盗行為や放火も発生した。
火災を止めるために消防隊が派遣された。警察官キース・ブレイクロックは、消防隊の仕事がスムーズに進むよう、支援役として配置された人員の一人だった。消防隊は暴徒に追いかけられ、逃げたが、ブレークロックは転んでしまった。ブレークロックは、マッチ、ナイフなどを持った暴徒たちに囲まれた。ブレークロックを動けないようにするために、暴徒たちは警官を痛めつけ、とうとう死なせてしまった。
ブレークロックの殺害では6人が逮捕された。3人は未成年であった。成人の3人が殺人罪で有罪、終身刑となった。しかし、十分な証拠がなく、1991年、控訴院は3人を無罪にした。警察側の尋問メモ(証拠として扱われた)に手が加えられていたことが判明したのだ。
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―現在との関連は?
BBCのクレア・スペンサーが各紙の見方を集めている。
http://www.bbc.co.uk/blogs/seealso/2011/08/daily_view_what_can_be_learned.html
「トライデント作戦」(警視庁による、アフリカ系及びカリブ海系コミュニティーでの銃による犯罪を処理する作戦)を率いるクローディア・ウェッブは、1980年代の暴動の根っこにあった問題がまだ対処されていない、とガーディアン紙に語る。「トッテナム地域の多くの人がまだ貧困、失業、過度に混雑した住居の中にいる」「持てるものと持たざるものが隣同士に生きている。ハリンゲイには裕福な場所もあるが、破壊された場所は普通のコミュニティーの中心地だった」。
テレグラフ紙のアンドリュー・ギリガンは、事情はすっかり変わったという。「1980年代は、ロンドン警視庁の人種差別主義はいつものことだった。いまや、人種差別主義的なことを一言言っただけで、キャリアが終わるになる。当時は有色人種の警官は180人だった。いまは3000人いる」。
「ハフィングトン・ポスト」のコラムニスト、エリザベス・ピアーズは、変わっていない部分は怒りだという。「いまでも、警察のパトカーが来ると、ブロードウオーター・ファーム付近では不満や反対を示す声が出る。警察への嫌悪感はトッテナムのサブカルチャーの中に入り込んでいる」、「1985年、トッテナムの若者は怒りをもっていた。今でも怒りを感じている。これをどうかしないと」。
地域に住むバンシ・カラは、昔の事件のことを抗議者たちは「覚えていない。黒人青年スティーブン・ローレンスのことも。『組織的人種差別主義』といえば、ぽかんとされる。でも、警察に対する不信感と疑念は特有のものだ」と語っている。