何者でもないけれど、やっぱり何者かを目指したい

「人は誰かになれる」はドラクエ7のキャッチコピーだったか。

私が初めて遊んだRPGはドラクエ7だったんだけれど、完全にスタートを間違えている。ほかのゲームがみんな短く感じた。

 

「何者かになりたい」

誰だって一度くらい、そういうことを考えたことがあるのではないだろうか。有名になりたい、名を残したい、認められたい。どこかの誰かでもその他大勢でもなく、この「私」にしかできないことを成し遂げたい。同世代が、あるいは少し上(下)の世代がキラキラ輝いているのを見るにつけ、そういう思いは強くなる。私だって。

いや、あなたは今のままでも十分「何者か」になっていますよ。誰かの家族であり、友人であり、パートナーである、あなた。ある人にとってかけがえのない存在になれれば、それは十分に「何者か」ではないのか。

うーん、やっぱり、そういうことではないか。

 

私自身、「何者か」になりたいクチであった。絵や作文が得意だった子ども時代、周りと同じことを思いつくのは嫌いだった(それは今も同じか)。個性的で独創的で創造的で、ほかの誰でもない私だからこそ生み出せる何かを携えて華々しく活躍すること、それが当時の夢である。適正はともかく、壮大なストーリーを目の当たりにして、「こんなマンガを描いてみたい!」と思わなかった人は少ないんじゃないだろうか。現代っ子は、「こんなに面白くて魅力的な動画を撮って、みんなを楽しませたい」と考えているのかもしれない。

とはいえ、成長するにつれて、自分の能力やそれに伴う向き・不向きがわかってくる。さらに、ちやほやされた田舎の学校から都会へ出れば、自分の能力など大したことがないこと、自分よりすごい人、できる人はごろごろいるということにも気づく。世界は「その他大勢と私」で構成されていたはずなのに、実は私も「その他大勢」に含まれる、なんてことのない人間だったと思い知る。

その後の展開はどうだろう。それこそ、「その人らしさ」が出てくるのではないだろうか。受け入れる、抗う、見て見ぬふりをする。世界に一人だけでも特別な人を見つけられれば、自分は誰かにとっての「何者か」になれたのだと考える人もいるだろう。いや、やっぱり知名度があって「私にしかできないこと」をなさなければ何者でもない、という人もいるだろう。それはどっちだっていい。「何者か」になれたかどうかなんて、各々が判断すればいいのだ。

 

私はどうだったかというと、「私にしかできないこと」を目指したい派だった。

細かいことはもう忘れてしまったけれど、いろいろあって今の職に就いて、どうせやるなら偉くなりたいと思った。とはいえ、偉くなる方法がわからない、試験があるなら、まあそういうのは(多少)得意だから頑張れるが、そういうわけでもなさそうだ。異動で花形の部署に行って鍛えられて、力をつける。じゃあどうやってその部署に行くの?それは運。

社会人になりたての最初の3年くらいは、ビジネス書を読み漁っていた。社会人に求められるマナー+αとか、仕事ができる人はどういう選択をするのかとか、〇〇歳までにこういう人間になろうとか。お、こうやって書くと恥ずかしいね!

とりあえず偉くなりたいと思っていたから、みんながどうやって偉くなったのかに興味があった。たまたま一緒に仕事をして……そこでがむしゃらに働いて……「うちに来ないか」と引き抜かれ……。「すべては偶然、いつ誰が見ているかわからないから、一生懸命頑張ろう!」

キャリアは偶然(運)というのはわかるけれども。お金、返してくれ。

 

異動で、いわゆる「花形」に行く人と私と、何が違うんだろうと考えていた。考えながら、うらやましくもあり妬ましくもあった。なんで私じゃないんだろう、私とあの子、何が違うんだろう。

……などと考えられないくらい忙しくなり、仕事のできなさに落ち込む日々が続く。仕事に費やす時間が長くなっていく日々。働くって、こんなに何もかも差し出すような行為なの?もう手札もHPも残ってないよ!

 

そういう時に出会ったのが、インターネットに残されている誰かの日記、ブログだった。それは大変だったね、こうしたらいいんじゃない?、それがどうした!!誰かの言葉を追いかけることで、大変な経験を共有できたり、そんなときにどうしたらいいのかアドバイスがあったり、くじけるなと励まされたり、自分以外の考えに触れることができた。それは、私にとってとても大切なことだった。

つらくて苦しくて大変なときは、ふさぎ込んでしまって周りの言葉が入ってこない。天照大神も岩戸に隠れるくらいだし。そんなときに届くのは笑い声か泣き声か、はたまた猫(犬でもいい)の鳴き声か。これがダメならあれ、あれがダメなら……と、とっかえひっかえ試して、ふさぎ込んでいる人(自分)に届く声を探す必要がある。

励ましがみんなを元気づけるとは限らない。今はただ、何も言わず一緒にいてほしいという人もいるだろう。インターネットで日記を漁る中で、私は、自分に欲しい言葉を見つけることができた。そして、その言葉につかまって、気を抜けば流されそうな激流に抗うことができた。手を離せば、暗く冷たい大きな流れに飲み込まれてしまうその状況から(命からがら?)抜け出し、今に至る。

 

どこかの誰かの言葉が、どこかの誰かを救う。身をもって、そんな経験をした。

だから私も、私の言葉で誰かを救いたい。いや、救いたいなんておこがましいか。こうやってダラダラと日記を書き続けることで、もしも誰かがここに辿り着き、「ああ、まあそういう考え方もあるか」と、思ってくれればそれでいい。採用されなくても、選択肢の一つになることで、ほんの1㎜でも何か役に立つことがあれば、それはとても嬉しいことだと思う。

 

偉くなることをあきらめたわけじゃない。でも、偉くなって何を成し遂げたいんだろう。そう考えると、私にとって、社会的な地位を高めることはあまり意味がないんじゃないかと思う。それよりも、今は、言葉を書き連ねるこの行為を、やめたくない。

今のところ、職場での私はただの「その他大勢」で、特に目立った成果を残していない。私にできることはほかの誰かにもできるし、ほかの誰かがやっていることは私にもできるだろう(そうじゃないと困る)。でも、仕事を通して「私」が考えたことを、インターネットの片隅にちびちび書き残すことは、私にしかできないことなんじゃないだろうか。

個性的で独創的で創造的な文章を書くことができない私は、多くの人にとって何者でもない。けれど、いつかの私のような思いをしている人が、私の文章を読んで、少しでも気持ちが楽になったというのなら、私は「何者か」になれたと言えるのではないだろうか。

「何者か」になれたかなんて、そんなの、私が決めればいいことなのだ。