プロレスファンが見た「世紀末オカルト学院」 - 1999年のマウントポジション

 

 
「世紀末オカルト学院」が大変におもしろい!
自分が好きなオカルトやホラー映画関係の小ネタや、女の娘に対するフェティッシュな目線に満ちた描写がタップリと詰まっていて、思わず口元がニヤけてしまうのですが、その辺については追々語らせてもらうとして、個人的に一番引っ掛かりを覚えたシーンについての感想文をアレやコレやと。
 
正直、余りアニメの話には関係ありませんが、「1999年」という本作の時代設定であり、世紀末の特別な時代に対するイチ個人の記憶・心象風景として読んでいただければ幸いです。
 
 

■1999年のマウントポジション

1999年。果して、自分が何をしていたか? 何が起こった年だったか? 自分の記憶はとにかく曖昧で、「世紀末オカルト学院」というアニメ作品の時代背景に対するリアリティも、非常にボンヤリとしたものでした。
ところが、ある一場面が目に飛び込んできた瞬間に、一気に「あの頃」の風景が甦ってきました。
 

 
男が少女に馬乗りになって顔を殴りつける一連のシークエンス。余りお行儀が良いとは言えませんが、個人的に、この一連のアクションにこそ「1999年」「世紀末」に対する、他のどの描写よりも強烈な時代性が感じられたのです。
相手の身体に馬乗りになる…つまり、「マウントポジション」こそ、プロレスファンだった自分にとっては、最も「当時」を思い起こさせるキーワード足りえるものでした。そう、それは、ノストラダムスの大予言やモーニング娘。のヒット曲よりも、もっと強烈で鮮やかに。
 
プロレスファンにとっての1999年、世紀末…は、90年代の半ばからプロレス界に迫ってきた総合格闘技の脅威が一気に表面化をした時代です。現在、英語圏ではMMA(Mixed Martial Arts)というスポーツライクな言葉に置き換えられ、一般的になっているそれは、当時はポルトガル語でVale Tudo(バーリ・トゥード=「何でもアリ」の意)と呼ばれ、ヴァイオレンスと攻撃性に満ちた独自のニュアンスを含んでいました。
 
バーリ・トゥードの歴史を紐解けば、やはりそれを一般的にしたのは93年にコロラドで行われた第一回UFCと、そのワンデイトーナメントで優勝を果たしたダークホース、ホイス・グレイシーということになるのでしょうが、その辺りのヒストリーに関しては、もっと専門的な書籍やWEBのアーカイヴに解説を任せたいと思います。ここで重要なのは、90年代の前半に、バーリ・トゥードが登場し、世紀末から新世紀に掛けてプロレスというジャンルを崩壊寸前に追い込んだ、その事件性と衝撃です。
 
ファンタジーとリアルの境界線が曖昧な格闘技であるプロレスの前に、ヴァーリ・トゥードという「黒船」が突如現れ、プロレスファンがその存在に屈した事件。
それは、間違いなく97年に東京ドームで行われた格闘技イベント「PRIDE」での高田延彦対ヒクソン・グレイシー戦ということになるでしょう。この試合で、当時プロレスラーの中で最強という「幻想」を生きてきた高田は、バーリ・トゥードにアジャストした格闘術「グレイシー柔術」の使い手であり、UFCの優勝者であるホイスの兄、ヒクソンの前に何もできずに完敗を喫します。
 


 
有名プロレスラーが、しかも、「魅せる」要素が強いショースタイルではなく、格闘色の強いスタイルを追求していたハズの高田が、ブラジル人柔術家の前にアッサリと敗北をする。
プロレスこそが最強であるという言説が、プロレスラーの強さが…そんな、プロレスファンがプロレスラーに抱いていた夢と希望とロマンが一瞬で瓦解をした瞬間でした。
 
 

■1999年のヒクソン・グレイシー

当時「最強」と呼ばれていた、ヒクソン・グレイシー。
 

 
今では、その「最強」のリアリティにクエスチョン・マークを投げかける人間の方が大多数ですが、バーリ・トゥードの研究もスタイルの解明も全く進んでいなかった当時の状況下では、間違いなくヒクソンは最強のファイターでした。
 
ヒクソンの格闘スタイルは、今見てみると恐ろしくシンプルなものです。先ず、タックルで相手を倒し、寝技に持ち込むとスルスルと有利なポジションを取り、敵を圧倒する。この時、仰向けになった相手に馬乗りになる…即ち「マウントポジション」の体勢を取ることが、当時の格闘技界のセオリーでは最も理想的な形とされ、ヒクソンはそれをひたすら忠実に実行していました。
 
マウント・ポジションになれば、あとは下になった相手の顔面をひたすらに殴りつける。そして、打撃を嫌がった相手がスキを見せれば、締め技や関節技で一気に仕留める…。現在では、「オールドスクール」とでも呼ぶべきMMAの基本中の基本といえる戦法ですが、1999年当時、このスタイルに対応できる選手や格闘技は未だ存在せず、実際に(試合数自体は少ないとはいえ)ヒクソンはこの戦法で連戦連勝を重ねていました。
 

 
相手の馬乗りになって、無慈悲に殴りつける…その光景とアクションには、プロレス技のラリアットやバックドロップやドラゴン・スープレックスや四の字固めとは全く違う…次元の異なるリアリティと説得力があり、それはバーリ・トゥード流のフィニッシュ・ムーヴとしてプロレスファンの間でも即座に認知をされていきます。
 

  
ですから、(作り手側は、恐らく無意識でしょうが…)「世紀末オカルト学院」で、マウントポジションから無慈悲に少女の顔面に拳を振り下ろしていたあのシーンは、当時の格闘技界の状況を考えると圧倒的に「正しい」描写であると言えます。
 
日本の柔道をベースに「締め」と「極め」を独自に進化させた「グレイシー柔術」という格闘技の持つ説得力に、神秘性を秘めたストイックな求道者というヒクソンのイメージが重なり、やがてヒクソンの強さは「300戦無敗の男」というメガロマニアックなキャッチコピーとなって彼の戦績とパーソナリティーを彩ることになります。
 
高田の衝撃の敗戦から、調度一年後の98年10月に行われた「PRIDE」第四回大会において、ヒクソンと高田の再戦が行われますが、ヒクソンは前回同様、高田にほぼ何もさせずに完勝。99年は試合を行わなかったものの、翌年、本当の世紀末である2000年にはパンクラスの船木誠勝をスリーパーで締め落し、「最強」の幻想を保ったまま現在までリングを離れることになります。
ヒクソンに頚動脈を締められ、目を見開いたまま船木が失神するショッキングな光景は、テレビで地上波放送されプロレスファンを絶望のどん底に叩き落しました。
 
<コロシアム2000 船木誠勝 vs. ヒクソン・グレイシー>

 
「世紀末オカルト学院」で、女子高生がマウントポジションの体勢から顔面を殴りつけられていた1999年は、ヒクソンが高田のリマッチを制し、そして船木を締め落として最強のままリングから離れる、正に「合間」の年であり、即ちそれは格闘技のメインストリームがプロレスからMMAへと移り変わる橋渡し的な年であったのです。
そして、マウントポジションは凄まじい説得力を持った格闘技の必勝術であり、この時代を象徴するキーワードであり、アクションでした。
 
 

■1999年のプロレスファン

プロレスファンにとって、1999年は最低最悪な年だったと言っても、決して過言ではないでしょう。
取りあえず、自分の語彙力では他に適当な言葉が見つからなかったので、手っ取り早く「最低最悪」という言葉を使いましたが、とにかく「1999年」という言葉に付ける形容詞は、ネガティヴで陰惨な言葉なら何でも結構だと思います。どんなに、自虐的で暗い言葉を使い尽くしても、プロレスファンの当時の気持ちと時代性を表現するのは不可能です。
 
とにかく、最低最悪な年でした。
 
「平成の格闘王」とまで呼ばれていた高田延彦が同じ相手に二度破れ、重苦しい空気を残したまま迎えた新年度は早々に、日本のプロレス界の象徴的存在である、ジャイアント馬場の逝去という最大級の悲劇が飛び込んできました。
馬場が社長を務めていた全日本プロレスは、エースの三沢光晴らを中心とした新体制での再出発を図りますが、次第にフロントと選手間での対立が表面化、ネガティヴなニュースや憶測が専門誌で度々報じられ、結果、三沢を始めとする有力選手・スタッフの大多数が翌年離脱をし、新団体「Pro Wrestling NOAH」がスタートします。
 
そして、馬場と同じく日本のプロレス界の象徴であるアントニオ猪木は、1999年、突如、自身が作ったハズの新日本プロレスに牙を剥きます。この年、恒例となっている正月のドーム興行で、猪木率いる格闘技団体「UFO」と新日本プロレスの抗争が勃発。その対抗戦の中で、新日本プロレスのスター選手だった橋本真也は、オリンピック柔道銀メダリストの小川直也とシングルマッチを行い、小川のプロレスの枠を逸した猛攻の前に何もできないまま敗北。新日本の強さを体現していた橋本のショッキングな敗戦は、以降のプロレス界に大混乱を巻き起こします。
 
<新日本プロレス 橋本真也 vs. 小川直也>

 
以降、小川に負けた橋本は過酷な運命に振り回され波乱万丈のプロレス人生を送り、MMAに友好的なアプローチを取ったアントニオ猪木は、新日本プロレスの格闘技路線を突き進め、その歪は数年後、武藤敬司や小島聡といった有力選手の同団体からの離脱を招き、完全に主軸を失った新日本プロレスは長らく続く迷走状態へと陥ることになります。
 
こうした純粋なプロレス団体だけでなく、格闘技寄りの団体に目を向けてみれば、新日本プロレス出身者で格闘技団体「RINGS」を率いていた前田日明は、「霊長類最強の男」アレクサンダー・カレリンとの試合を最後に、やはり1999年に現役を引退。
同年、RINGSは、それまでのプロレス的な枠組みを取り払った「真剣勝負」によるトーナメント「KOKトーナメント」を開催。翌年に掛けて行われた同トーナメンを勝ち抜いて優勝したのは、山本宜久や金原弘光といったプロレスラーではなく、アメリカのアマチュア・レスリングの実力者「アメリカン・トップ・アスリート」ダン・ヘンダーソンでした。
 
どうやら、時代は凄まじいスピードで動き始めていました。総合格闘技は、プロレスが元来持っていたテリトリーを侵食し始め、プロレスはその意義を急速に失いつつあったのです。
MMAからの侵略行為、あるいはプロレス側からの無謀な挑戦という形で、プロレスラー vs. 総合格闘家の試合は、90年代後半から2000年代の頭に掛けて、各団体・イベントで行われましたが、そのほとんどがプロレスラーの惨敗に終わり、より一層、重苦しい雰囲気とネガティヴなイメージを残す結果となりました。
 
1999年は、プロレスファンにとって、暗いニュースとアクシデントが立て続けに起こった年であり、「マウントポジション」に象徴されるバーリ・トゥードがプロレスの意義を全て消し去る…私たちは、ひたすら「リアル・ファイト」に押しつぶされ苦しみ、鬱々とした気持ちで日々を過ごしていました。それが、1999年、当時のプロレスファンのメンタリティーだったのです。
 
 

■まとめ - 2010年のプロレスとマウント・ポジション

「世紀末オカルト学院」は、「ノストラダムスの大予言」に代表される、1999年という時代性が持っていた終末思想やオカルト…ファンタジーが現実を侵食していく様を描いたアニメ作品です。
一方、当時のプロレスファンは、その真逆、「ファンタジー」が「リアル」の前に屈服をする、その恐怖に怯えていました。
 
「オカルト」と「プロレス」リアルとファンタジーの境界線が非常に曖昧な両者は、1999年という時代においては、全く正反対の方向から、その境界線の定義づけが成されようとしており、反転された「恐怖」が、それぞれのコミュニティーを脅かしていたのです。
 
そんな当時の空気が、「世紀末のオカルト学院」のマウントポジションを見ていたら甦ってきた次第。アニメや漫画の感想文BLOGで書く内容ではないのかもしれませんが、このアニメ作品を見た時に一気に再生されたのと、どうしても当時の空気を書き記しておきたくて、こうして一つのエントリにまとめさせていただきました。
 
これが、プロレスファンである私が過ごした1999年です。
 
それから、10年以上経った現在。プロレスは、相変わらず厳しい状況が続いてはいるものの、「ファンタジー」が「ファンタジー」であることを改めて許され、総合格闘技とはまた違った視点から「戦い」をクリエイトしています。
一方で、総合格闘技は暴力的な雰囲気を脱し、スポーツライクなイメージを身につけようとしています。街の喧嘩自慢が、馬乗りになって相手が失神するまで顔面を殴りつけるようなショッキングな試合は減少し、今現在、MMAの世界でスター選手として活躍をしているのはジョルジュ・サン・ピエールのようなアスリート然とした新しいタイプのファイターです。
また、MMAの技術革新は凄まじいスピードで進み、高いボクシング技術と、決してポジショニングを重視しないサブミッション(関節技、締め技)という二つの要素が勝敗の大部分を決するようになりました。
マウントポジションに固執する選手は少なくなり、決して最も有効な戦法ではなくなった。時代は変わったのです。
 
MMAと名前を変えたバーリ・トゥードとプロレスは、10年以上の時を経て、ようやくそのカテゴリーを明確に区分したような印象を受けます。そして、「世紀末オカルト学院」で描かれたようなマウントポジションからの残虐な顔面パンチ…という、正に90年代後半のショッキングな光景というのは、その両者の境界線が極めて混沌としていた「あの時代」の象徴的な光景だったと言えるでしょう。
 
 
 
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