徳川綱吉の再評価について

世の中のほとんどの人間は、馬鹿でもない代わりにさほど賢くもなく、独創的なこともしない代わりに独りよがりなこともしない、ということは我々が日々実感するところですが、こと歴史に関しては「名君/暗君」「文明/野蛮」「進歩/退嬰」の二分論で切り分けたくなるのもまた然り。専門の歴史学者もこうした二分論から完全に自由にはなっていないのですが、しかし、これはちょっと如何なものかと。

いま使われている歴史の教科書では聖徳太子の事績や実在に疑問がつけられたり、鎌倉幕府の成立が1192年ではなくなっている。「いいくに作ろう鎌倉幕府」は今や「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」になっているのだ。
そして、教科書の変化で目に付くのは、人物評価の「上がった人」「下がった人」の明暗である
(中略)
劇的に評価が上がったのが、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉である。1988年版にはこうある。
〈生類憐みの令をだして犬や鳥獣の保護を命じ、それをきびしく励行させたため、庶民の不満をつのらせた〉
〈綱吉はぜいたくな生活をするようになり、仏教への信仰から多くの寺社の造営・修理を行い、幕府の財政を急速に悪化させた〉
みなが知る暴君の印象を強めるものだったが、現在では180度変わった。
〈犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた〉
 悪法とされてきた生類憐みの令が、〈綱吉政権による慈愛の政治〉とまで褒められている。『教科書から消えた日本史』の著者で、文教大学付属高校講師の河合敦氏は「綱吉ほど近年の研究で教科書上の評価が変わった人物はいない」という。
徳川吉宗が「暴れん坊将軍」になったように、「憐れむ坊将軍」が時代劇になる日も近いかもしれない。

http://news.merumo.ne.jp/article/genre/1180201

実際に教科書を見ていないので何とも言えないのですが、「綱吉政権による慈愛の政治」なんて露骨な褒め方を教科書で書きますかねぇ。綱吉政権の評価がここ30年ほどで大きく変化したのは事実ですけど、言えたとしても「生類憐みの令のような法令も一応合理的に解釈できる」という程度。
あと、綱吉政権を「戦国の気風を残した武士の武装解除」として評価する動きもあるそうですが、それくらいのことなら、ちょうど30年前に塚本学氏が生類憐みの令と諸国鉄砲改めの共時性だとか、傾奇者が反権力の表現として犬を捕まえて煮て食べた話だとかを書いているので、割と今更感が。

生類をめぐる政治――元禄のフォークロア (講談社学術文庫)

生類をめぐる政治――元禄のフォークロア (講談社学術文庫)

最近講談社学術文庫に入りました。名著なのでみなさん読むよろし。要点をまとめると以下のような感じでしょうか。
0.生類憐みの令は犬対策が中心ではない。
1.綱吉政権の時期は人と動物の関係が大きく変化する時期であったということ
新田開発が進み、山間部まで人が住みようになり、鳥獣害対策が深刻な問題になる。そうした事情もあって、当時の農村にはかなりの鉄砲が存在していた。そうした人々は戦時には足軽にもなり得るため、取り締まりを行う必要があった。そうすると、農民自身に代わって為政者が動物の取り締まりを行う必要が出てくる。
2.将軍権力が山野を支配する方法の変化
8−9世紀ごろには天皇家が許可したもの以外の鷹狩が禁止されているが、鷹狩は土地の利用や鳥獣に対する支配を示す象徴的な意味があったと考えられる。信長以降、狩場の保護のため鉄砲の利用を禁じる例も見られる。しかし綱吉政権の時期には幕府や諸藩の鷹制度は縮小されつつあった(費用など多くの原因が挙げられる)。のちに出された生類憐みの令は、狩場の保護のように生類を「獲物として」保護するのではなく、生類への慈悲という、より普遍的な原理に基づいて保護することで、山野を支配をする幕府の権威を「鷹狩とは違った形で」表現する試みであったと考えられる。
吉宗政権の時期に鷹狩は復活するが、かつてのように幕府の鷹制度は全国に及ぶものではなく、関東に限定されたものとなった(藩領の支配は藩に一任し、幕府が介入しなくなったことの表れ)。
3.憐みの対象となった生類は、幕府による管理の対象でもあったこと
犬の保護よりもはるかに徹底されたのが、捨子・捨牛馬の保護であった。その意味では、生類憐みの令が「人の命を軽視し動物の命を重視した」という批判はあたらない。ただ、ヒューマニズムに基づいて出されたというわけでもなく、捨子に関しては「農村における小家族の成立=親方の庇護を離れ、家族の内部で子供を育てなければならなくなった」という事情、捨牛馬に関しては「荷物運搬や軍馬としての利用など公的な役割を課せられながら、武士自身は牛馬を飼わなくなった」という事情などが背景にあった。
4.犬の保護と都市管理
鷹狩に用いる鷹の餌として、あるいは鷹狩の補助に犬は使われていた。こうした犬の飼育にかかる手間や費用は民衆にとって重い負担であったから、犬は怨嗟の対象ともなり、特に反社会的な傾奇者たちの標的にされた。こうした動きを幕府としては抑制しなくてはならなかった。また野犬問題も深刻化していた。犬関連の法令が戌年に集中して出されるなど将軍の恣意的な思惑に左右される部分も大きかったが、傾奇者たちの反社会的行為を取り締まると同時に、犬小屋を設置し、人々に慈愛の心を要求するという目的があったと考えらえれる。しかし、この試みは失敗する。犬小屋の管理は江戸の民衆にとって重い負担であったし、農村においては狂犬病が深刻な問題であった。ただ、鷹狩の縮小とともに、犬を鷹の餌として使うことは無くなっていく。

といったところでしょうか。犬の保護だけは撤廃されますが、あとは大体不可逆的。
要するに綱吉は、所与の環境に対して、当時の教養人らしい反応をみせた結果ああいうことを行ったというだけの話で、名君か暗君かといった評価は割とどうでもよく、この時期の社会状況や政治の変化と関連付けて生類憐みの令を理解することが大事ということです。