『ef - a tale of melodies.』第6話についての註釈と雑感

ef - a tale of melodies.3 [DVD]

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今週の『ef2』を観終わって最初に思いついた言葉は「表象の総動員体制」でした。キャラクターコンテンツとして展開していくための論理を守りながら、表現の過剰さによって間接的に「狂気」を印象付ける演出に触れて、「優子さんマジ怖えー」と震えながら、凄いものを観たという興奮を抑えられませんでした。大衆向け(あまり好きではない言葉ですが)としては最前線、ギリギリの位置に立っている作品でしょう。これ以上先にいくと、娯楽作品、あるいはアニメとは別の何かになってしまう。この切れ味はもっと評価されるべきだろうと思います。それと同時に、『ef』はアニメの見取り図において、どこかの空白にすっぽりと収まるような作品ではなく、見取り図そのものを再編させてしまうインパクトを感じさせます。もっとも、それが実現するかは今後の動向次第ですが……。
またその一方で、詳しくは後述しますが、ストーリィにおいては「資本主義社会の論理」に忠実な、極めてストレートかつ共感を得やすい話が物語の核となっています。それをひとことで表すなら、事後的に生み出される「無意識の決断」と、その決断に付属する義務の履行である、と言えるでしょう。それが、よく練られた群像劇の構成と、珠玉の演出によって装飾され、語られている以上の内容を感じさせるものになっています。
画面は無数の声で溢れていますが、どれもいい加減なものではなく、すべてが伝えたい情報を伴って描かれている。「よく考えてるなぁ」というのが、一番率直な感想ですね。前置きが長くなりましたが、第6話の註釈と雑感に移ります。
 
まずアバンについてですが、ミスリードを狙った先時法が用いられ、何だ何だと混乱させられたままOPへと突入します。遠景のステンドグラスを遮る中景の聖母像、中景の聖母像を遮る近景の雨宮優子、と縦にカメラを動かしながら同時に構図内の組み合わせもスライドしていくというファーストショットは良かったですね。また、アバンと同じシーンが後でもう一度出てくるのですが、そのときはなぜか台詞が変更されています。同じシーンを繰り返し描いたはずなのに、台詞が違う。もうひとつ重要な違いとして、アバンでは優子の口(身体)と声が連動しているのに対し、後の場面では声と身体が明確に切り離されていることが挙げられるでしょう。

OPは前回までと異なり、背景のみでキャラクタ無し、曲もインストと、明らかな異常事態。キャラクタがいないことは本来、作品世界内での出来事ですが、歌がないのは作品世界外の出来事であり、両者に関連はありません。それが何となく関係があることのように感じられるのは、OPという場が作品世界内/外の境界的な役割を果たしているためであり、もうひとつ、『ef2』という作品がその両者をある程度一致ないしオーヴァーラップさせているためだろう、と考えられます。
それはともかく、「声の喪失」と「身体の喪失」が関連付けて考えられているという点については、前回第5話の新藤景・雨宮優子の対話シーンを連想しました。景を説得する優子の強い言葉は画面の外から投げかけられ、景が振り向くと優子の身体は羽となって消えている。身体を持たなければ強いままでいられるのに、身体を持ち、声もまた実際の身体に従属させられるために弱さを抱えてしまう。『ef2』におけるドラマは、声の強さと、身体の弱さの落差から生じているのではないか、と僕は考えます。
    
本編の話に移りますが、今回の話では火村・優子・凪と三者三様の敗北が描かれます。優子に負けた凪は涙を流し、勝ったはずの優子もまた涙を流す。そして優子の秘密に触れた火村は絶叫する。これがもし逆だったら、火村と結ばれたのが凪だったら、泣くのは優子ひとりで済んだことだろう、なんて酷いことを考えてしまいます。あるいは、優子の立場にいるのが千尋だったら?どんなに辛いことがあっても13時間で忘れることが出来る……と、このように世界は「if」に満ち溢れ、物語に描かれる現在は、ありえたかもしれない幸福を取り逃した「出来損ないの現在」であるという考えに至るのは自然なことではないでしょうか。
このように別の可能性をちらつかせることで作品世界の悲劇性(あるいは悪趣味な喜劇)を強調すると共に、今回のクライマックスで優子が述べた火村の秘密―嘘をつくときに瞬きをする―によって、「出来損ないの現在」を作ってしまった火村の責任が表面化してきます。それはどういうことか。火村が優子を妹にしなかった、そのこと自体は価値中立的です。また、「瞬きをする」という行為と、火村が嘘をついていること、この両者の関連も優子が指摘する以前は存在しませんでした。それが優子の「問い詰め」により、以下のような「過去」が捏造されることになります。
「火村は優子を突き放したため、無意識下において優子への虐待に加担していたのだ」
「火村は以前から優子のことが好きだったが、そのことを彼自身気づいていなかった」
つまり、重要な決断は過去において既に為されており、現在ではそれを認め、決断に伴う義務を果たさなければならないのだ、と。しかし、前者の場合は明確な契機を描くことでより火村の責任を強調し、後者はむしろそれを描かないことによって、「火村は優子が好きである」ことの必然性を保障します。
 
さて、今回の話において優子の「素顔」が明らかにされました。「素顔」とはすなわち「私」という固有の人格とその表象との間に全く断絶がない状態であり、言い換えるなら、個人の内面性が顔を通して現れている状態に他なりません。だからこそ、優子の本音が引き出されるにしたがって、彼女の顔を覆っていた黒いベールが剥がされるのです。そしてもうひとつ重要なことは、「顔」がパーソナリティと深く結びついている以上、それは時として絶対的な他者性を示すのだ、ということでしょう。

彼女はただ仮面を被っているだけでなく、記号的なキャラクタデザインによって、データベースという「全体」への同化を常に迫られています。「ケータイ小説的」というカテゴリで括られる作品群の中の、複数登場する女性のひとりとして取り込もうとする全体化の視線。彼女の「素顔」はいわばそれに抵抗し、雨宮優子という存在の唯一性を強調するのです。僕たちが彼女の写実的な素顔に対して恐怖を抱くのは、それが記号的な意味体系をすり抜けようとするものであり、圧倒的な他者性を感じるためではないでしょうか。

瞳に映るのは自分自身。見ているのか、果たして見られているのか。本物の優子はどれなのか、決定することは出来ません。アバンにおいて描かれた内容が、後半に再び、しかも違った形で描かれる。どちらが本物なのか、これもわかりません。こういった決定不可能性が想像が現実を侵食する混乱を、多用なイメージの共存を下支えしているのだと言えるでしょう。
書き残したことも多いのですが、どうせ明日には第7話が放送されるので、続きはその後で。