添田唖蝉坊と革命歌および労働歌

 添田唖蝉坊の演歌への姿勢が大きく変わったのは社会主義者、堺利彦との出会いからである。明治38年の「ラッパ節」の流行で社会党機関誌「光」にラッパ節の替歌が掲載されていたのを唖蝉坊がみつけ、その歌詞に興味を持ち、堺を訪ねた折、社会党のための「ラッパ節」を依頼されて作ったのが「社会党ラッパ節」。この時、唖蝉坊は堺利彦の人間性と社会主義思想に惹かれ、以来党員となって歌と演説で活動する。世は日露戦争の暗雲がたれ込め、社会主義者への国家の弾圧が続いていたが、唖蝉坊は立て続けに下層労働者の歌を作り続けて行く。この時期、明治39年(1906)に彼が作った歌はすべて発禁歌となった「社会党ラッパ節」「嗚呼金の世」「ああわからない」「あきらめ節」等。しかしこれらは今の世でも多くの人の心を動かす歌の力がある。
 唖蝉坊の「ラッパ節」がどれほど全国の労働者の間でも知られていたかという例に「足尾銅山ラッパ節」がある。この歌は当時誰もが口ずさめた唖蝉坊の「ラッパ節」の旋律を用いて、鉱山労働運動の先駆者、永岡鶴蔵が詞を作り、「日刊平民新聞」の9,10号に掲載された。

「欲という字に眼が潰れ 人たる道を踏み躙り 平民の歎の叫び声 知らぬふりする穀潰し」と始まるこの歌は、永岡と南助松によって創立された労働至誠会足尾支部の感化を受けた労働者達を鼓舞し、足尾銅山大暴動ともつながりをもつ。
 永岡鶴蔵は、明治11年頃から各地の金属鉱山を渡り歩き、それらの実情をよく知る人物で、明治35年の夏から36年にかけて社会主義啓蒙のために片山潜らが全国で演説会を開いて回っていた時、35年11月に夕張炭坑を訪れ、当時炭坑夫組合頭を努めていた永岡の家に泊まり至誠会の南助松や坑夫等と話し込む。そして鉱山の事情通である永岡をオルグとして足尾銅山に派遣するよう進めた。この要請を受け、永岡は妻子を残して上京し、片山潜宅を本部とし日本坑夫組合を結成。そして一路足尾銅山へと向かう。36年の1月から永岡は辻占売りとなり、また演歌師のように自ら作った歌をうたい歌詞本を売って歩いたがかんばしくなく、坑夫として働くようになる。90日間で坑夫の境遇を詳しく調査し、毎晩数名の坑夫を家に集めて啓蒙した彼は、二ヶ月足らずでそこに日本労働同志会足尾支部を結成し、労働者の身近な問題をとりあげ闘争をはじめる。やがて会員は1400余名となり、組織の拡大とともに永岡は坑夫をやめ、雑貨商となって共済事業に取り組み、小新聞や社会主義関係の新聞雑誌を発行する。

<足尾銅山>
 こうした中、労働同志会への弾圧は激しさを増し、組織の立て直しを計るべく永岡は夕張から同志南助松をよぶ。この両者への坑夫達の信頼はあつく、明治40年(1907)2月1日には四山当番総代会が開かれ同盟規約を結び待遇改善24か条を決め、6日の至誠会総会で坑夫一同による請願を提出すること、主がこれを受け入れないときは、鉱業法枠内での運動をし、東京鉱山監督署に訴えることなどを決め、賃上げ、間代適正化、切り羽の安全、衛生管理、災害補償、労働者保護などを盛り込んだ請願書を提出する手はずを整えていた。
 しかしその準備をよそに、すでに同年2月4日午前に通洞第三区光一立坑第三見張所と第四見張所において、職員と坑夫の言い争いが始まり、これらの見張所への投石が行われた。やがて彼らは電話線を切断し外部への交通を遮断し、三日間に八カ所の見張所を破戒するに至る。2月6日、鉱業所長は土蔵の床下から引きずり出されて負傷、単なる微傷だったが、警察は至誠会幹部の永岡鶴蔵、南助松等を教唆煽動の理由で逮捕した。

 ところがその逮捕で7日には坑夫達の暴動はエスカレートし、高崎歩兵三個中隊が出動して暴動を抑え、政府は足尾鉱山に戒厳令を布き、鉱夫の強健鎮圧を計った。検挙者460人は導火線の縄でしばられ栃木中を数珠つなぎに行進させられたという。
結果、事件後、銅山側は全従業員をいったん解雇し、身元の明らかなものだけを再雇用し2割の賃金をアップしたが、施設の被害は甚大となった。
 裁判で検察は至誠会の暴動示唆を主張したが認められず、南助松と永岡鶴蔵は無罪の判決となった。
 こうして「予戒令発動を機とした警察の取締りの強化は,同志会員の離脱を招いた。少数の活動家を除き,ほとんどの労働者は永岡のもとに寄りつかなくなった」「 こうした経験を経てからの永岡の一般労働者に対する評価はきわめて醒めたものがある。公判廷で同志会の衰退理由について問われた彼は,財政の赤字をあげた上で,つぎのように述べている。『一体労働者などには実際会の必要なる事を感じて入会する様の者は極めて尠ない。只進〔勧〕めらるれば這入る。全然御祭り騒ぎを遣るのみで先き先きの事などは考がひ〔へ〕ぬ』。この時期,永岡は行商と運動を結びつける形で,当時流行っていたラッパ節などに自作の歌詞をつけて歌いながら,飴などを売り歩いた。その1つ〈足尾銅山労働歌〉にも,彼の労働者仲間に対する気持ちが現れている」(二村一夫「足尾暴動の歴史分析」)。
 この暴動に関しては荒畑寒村も「平民新聞創刊後約一ヶ月にして勃発した足尾銅山の騒擾は、社会党大会の論争とともに、日刊平民の全存在期間における最大の事件」と記し、事件当時平民新聞の取材で現地に赴いていた記者の西川光二郎が足尾の同志等と逮捕されたことから、急遽代役で急行することになったというが、ここでは幸徳秋水が平民新聞ではなく二六新報の肩書きを借りて寒村を送り出している。
 「空はくまなく晴れていたが、細尾峠を越える時には積雪脛を没し、雪は藍関を擁して馬すすまずと詠じた故人の心も思いやられる情景である。戒厳令下の足尾町に入ると、軍隊は本山、小滝、通洞に各一個小隊、細尾に五分隊、その他は足尾町に分駐し、宿屋という宿屋は軍隊の司令部、裁判官、警察官、新聞記者であふれている。そしてすでに検挙された坑夫と、護送の巡査と、まだダイナマイトをかかえて坑内に潜む坑夫の逮捕に向かう警官の決死隊と、新聞記者とが雪解けの泥濘をふみかえして狭い街路を右往左往し、さながら戦場のような騒ぎであった」と寒村は当時の現場の様子を描き、警察が速くも彼の正体を察知し尾行を始めたことで宇都宮監獄に送られた夫君に妻達が差し入れに赴くのに同道して足尾を脱出したという。なお至誠会の南助松は「好人物であったが少し大言壮語の癖があり、釈放後は上京して書画の販売をしながら、いつも五万の十万のと夢みたいなことをいっていた。彼の同志であった永岡に至っては、南に比べるとズッと人品が下がり、後にはあまり香しからぬ事件に連座して獄死したそうである。しかし彼らはとにかく鉱山労働運動の先駆者であった。彼らは片山潜に感化されて労働運動に投じたのだが、学問なく、よき指導者なく、労働運動がまだ一般に存在せず、実に労働者階級そのものが未成熟であった当時にあっては、彼らの意識と行動だけがひとり時流に抽んずる訳にはいかなかった。ああ、彼らもまた、時代の一犠牲者というべきではなかろうか」と結んでいる。

 またこの時期には、添田唖蝉坊が唄ったことでよく知られるようになった「革命の歌」がある。この歌は、明治40年2月17日に神田錦町の錦旗館で開催の日本社会党大会で米国から帰国した幸徳秋水が労働者の直接行動、アナルコ・サンジカリズムを唱え、それが青年分子に広がる中で、社会党の従来の歌「富の鎖」より戦闘的な歌をと、「日本平民新聞」が詞を募集し、築比地仲助のものが採用され、これを当時選者の
堺利彦と親しかった添田唖蝉坊が一高寮歌「ああ玉杯に花うけて」の節で唄い流行したもの。なお「平民新聞」この歌の掲載でその号が発禁となり、この歌を唄ったものは検束され留置されたという。なおこの「革命の歌」の取材で西尾次郎平は堺利彦の娘、近藤真柄と添田唖蝉坊の息子添田知道を訪ね、その時の様子をこう記している。
「約束の時間に近藤氏のお宅を訪ねると、しばらくしてから添田氏も来られた。私はいろいろとお世話になった謝辞を述べ、ラッパ節のことなどについて二時間近くも面白い話を承った。いよいよ「革命歌」の録音に入ったが、さすがに演歌の大家だけあってその堂々とした節回しは、あの格調高い歌詞にふさわしく、当時の歌のこころをほうふつとさせる名演唱であった。歌が進んで四番目にかかり「老いたる父も痛ましく、彼らの為に餓死したり」の歌詞を歌い終えると、近藤氏は苦しかった革命運動の戦いの跡を思い出されたのか突然、絶句されてしまい、次の「ああ積年のこの怨み」という歌詞が停まってしまった。右手で涙を押さえておられたのである。この歌の選者であった父上の堺利彦氏のことや、ご自分も弾圧の犠牲者として未決生活を経験された時にこの歌を歌ったりしたことを思い出されたのではなかったろうか。五番だけは添田氏の独唱になったが、また元気にあとを続けられたのであった」。
 この時の録音テープは歴史的な記録として残るだろうと筆者はいっているが、今では行方がしれない。

<桃山晴衣と近藤真柄>
 桃山晴衣は添田知道師に連れられて荒畑寒村翁や近藤真柄さんの前で演歌や自分の歌を披露していた。こうして一つ一つの歌の背後の歴史を辿ってみると、桃山の歌の軌跡は深淵である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

土取利行・添田唖蝉坊・知道を演歌する
京都黒谷・永運院(京都市左京区黒谷町33)
2013年11月17日(日)開演16:00
前売り3000円 当日3500円  予約問合せ:井上080−1994−4647
■本会では「足尾銅山ラッパ節」を始め、「ああ踏切番」「ああ無情」など唖蝉坊演歌の長歌を主に歌いますのでお楽しみに。