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添田唖蝉坊の演歌への姿勢が大きく変わったのは社会主義者、堺利彦との出会いからである。明治38年の「... 添田唖蝉坊の演歌への姿勢が大きく変わったのは社会主義者、堺利彦との出会いからである。明治38年の「ラッパ節」の流行で社会党機関誌「光」にラッパ節の替歌が掲載されていたのを唖蝉坊がみつけ、その歌詞に興味を持ち、堺を訪ねた折、社会党のための「ラッパ節」を依頼されて作ったのが「社会党ラッパ節」。この時、唖蝉坊は堺利彦の人間性と社会主義思想に惹かれ、以来党員となって歌と演説で活動する。世は日露戦争の暗雲がたれ込め、社会主義者への国家の弾圧が続いていたが、唖蝉坊は立て続けに下層労働者の歌を作り続けて行く。この時期、明治39年(1906)に彼が作った歌はすべて発禁歌となった「社会党ラッパ節」「嗚呼金の世」「ああわからない」「あきらめ節」等。しかしこれらは今の世でも多くの人の心を動かす歌の力がある。 唖蝉坊の「ラッパ節」がどれほど全国の労働者の間でも知られていたかという例に「足尾銅山ラッパ節」がある。こ
2013/11/19 リンク