2015/3/5講義「戦列艦の衰退と弩級戦艦」
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武蔵の凄さを語る前に「戦艦とは何ぞや?」というレベルから講義した方が武蔵の凄さもより理解できると思うぞ。 なので今回は「戦列艦の衰退と弩級戦艦」について、講義しようか。
2015-03-05 17:32:09そも、皆は「戦艦」という単語は知っていても「戦列艦」という単語は聞いたことが無いんじゃないか? 「戦列艦」というのは読んで字の如し「列を成して戦う艦」という意味だ。 主に中世ヨーロッパ時代から続く帆船のように左右に大砲を積んだ物で特に大型の艦の事を言う。
2015-03-05 17:36:48この戦列艦は攻撃できる方向が常に左右だけであったから、戦いは敵の真横に付いて撃ち合うのが基本でな。この時に生まれた陣形が艦これでお馴染みの「単縦陣」。 一列に並び敵の船とすれ違うように撃ち合う、というのが当時の海上戦の常識で「デカくて砲が多ければ勝つ」とかいう考え方が生まれた。
2015-03-05 17:41:54この船をデカくして砲を沢山積む、所謂「大艦巨砲主義」という考え方が世界各国に蔓延り、軍艦はどんどん大きく、より強力な砲をできる限り沢山積み、横から撃たれてもいいように装甲を左右に貼る、という傾向が強くなった。
2015-03-05 17:44:37しかしな、ここである革命が起きる。イギリス海軍が世界で初めて、主砲を旋回させられる「砲塔式」を取り入れた戦艦「ドレッドノート」を建造した。 これは砲塔式であるから主砲に角度を持たせる事ができ、射程距離も大きく伸びた。その衝撃はそれまでの海戦の常識を打ち破るものだったんだ。
2015-03-05 17:49:06それと同時に世界各国でこの戦艦ドレッドノートと同じレベルの戦艦を造ろうという動きが波及した。これによって生まれた戦艦達のことを、ドレッドノートのから1文字もじり「ド級戦艦」と呼称するようになった。 ただし、このド級戦艦にはある欠点があった。
2015-03-05 17:54:07今までの常識を覆す軍艦だったが、実戦を経験したことが無かった為に、装甲の貼り方は今までと同じ、船の横側(舷側)にしか貼られ無かったんだ。 つまり、砲塔から角度を取って上から降ってくる砲弾の事など考えていなかったわけだな。
2015-03-05 18:00:04装甲を貼っていない甲板に砲弾が炸裂した時、誰もが目を疑ったそうだ。敵でさえも。最新鋭の戦艦がたった数発の砲弾で爆発炎上し、戦闘不能になったんだからな。 そうして互いに撃ち合った結果、互いに大きな損害を出した。…地獄から命からがら帰投したかのような艦隊に各国が戦慄したそうだ。
2015-03-05 18:05:02そうしてド級戦艦の時代は終わり、世界各国で甲板にも装甲を貼った戦艦が次々と就役する。この艦達は「ドレッドノート級を超える戦艦」という意味で「超ド級戦艦」と呼ばれる事になる。 ここからようやく金剛などの優秀な戦艦が生まれる事になったんだ。
2015-03-05 18:09:46だがやはり当時はドレッドノートなどを生み出したイギリス海軍の技術力に敵う国はほぼ無かった。 そこで旧日本海軍はイギリスのヴィッカース社へ戦艦を発注し、完成した一番艦「金剛」を元に二番艦「比叡」を国内で建造し、さらに「榛名」「霧島」を民間(川崎重工など)に造らせ技術力を高めた。
2015-03-05 18:15:54そしていよいよ純国産の戦艦を建造することになる。…それが「扶桑」「山城」の姉妹だ。 金剛型を建造する中で得たノウハウや、ひらめきを元に戦艦として必要な物を詰め込んだ「扶桑」、そして更に修正したのが「山城」となる。 二隻を並べると艦橋の形が違うのが分かるから見てみるといい。
2015-03-05 18:23:51まぁ、初めての純国産戦艦の扶桑姉妹は良い意味での失敗作となった。無駄に大きくなり過ぎた艦橋、武装とカタパルトの配置…。運用する上で問題有りまくりの各部を改修しながら、今度はこれを教訓に「伊勢」「日向」が建造された。
2015-03-05 18:28:22「伊勢」「日向」は戦艦として間違いなく完成されたモノに仕上がった。艦これでもたまに扶桑が対抗心を燃やしているが性能差が有るのはこういう所だろう。 これで自信の付いた旧日本海軍はいよいよ国の顔となる戦艦「長門」「陸奥」を建造するに至ったんだ。
2015-03-05 18:31:27当時の戦艦の主砲といえば35.6〜38cmが主流だった。だが…それに満足出来なかった旧日本海軍は世界初の41cm連装砲を装備した「長門」「陸奥」を生み出した。 とてつもない大きさの主砲を運用できる技術力に、イギリス海軍も驚き、アメリカ海軍も危惧した。
2015-03-05 18:36:32これがきっかけで”建艦競争に歯止めをかける”という名目で、日本をけん制する為の「ワシントン海軍軍縮条約」により、参加国の戦艦、空母、巡洋艦などの制限が定められる事になる。 この時に長門と陸奥は「強過ぎる、廃艦しろ」と矢玉に挙げられたが、日本はこれを強く突っぱねた。
2015-03-05 18:42:05その結果、参加国の中で「ならばそれに匹敵する艦の保有は許可してもらうしそれ以上造るな!」と、交渉が行われた。この時に選ばれた戦艦の事を「ビッグ7」と呼ぶ。 世界で最強の7隻の戦艦を表し、それを2隻も保有する旧日本海軍はまさに世界最高峰の海軍だったんだな。
2015-03-05 18:46:20だが…日本にとってこの軍縮条約は戦争を避ける為の苦肉の策だった。この結果に戦艦だった加賀や赤城、天城達が廃艦・または空母への改装を余儀無くされたんだからな。 まぁそれはさておき、この軍縮条約も永遠ではない。その条約失効時に、世界に置いていかれないよう、新たな戦艦が必要となった。
2015-03-05 18:49:20…そう、そうして最高機密として街一つ丸ごとに緘口令を敷き、硬く警備と擬装を施して、技術力の粋を集め建造が行われたのが…戦艦「大和」。 46cm三連装砲は恐ろしく重くてな、旋回させるだけの装置すら他の国は真似できない。砲弾を装填する装置やそれ以外も日本にしか出来ない芸術品だった。
2015-03-05 18:55:47この写真を見て欲しい。これは大和の船首だが…下側に突き出しが有るだろう? これは「バルバス・バウ」と言って、波の抵抗を弱め速力を上げる効果がある。世界初の技術を大和建造時に生み出したんだ。 pic.twitter.com/aKp8IHBWYA
2015-03-05 19:00:48現代の船では当たり前となったバルバス・バウを採用し、何重にも張られた装甲は自身の主砲にすら耐えられる厚さと構造にされ、空前絶後の主砲を3基も搭載した上で、長門などを超える速力を発揮した。
2015-03-05 19:04:02ちなみに、46cm砲の砲弾の大きさは…そうだな、成人男性+頭ひとつ分で、重さは約1.2t。こんなものが何百キロという速度で飛んで来たら…火薬が詰まってなくても大変な事は想像できるな? さらにこれを何十発と装填するんだからそれを引き揚げる機械はさらに大きく重たい。
2015-03-05 19:09:41戦艦大和、武蔵が就役した頃、実はまだまだ大和型を量産し、更には大和型を超える超大和型戦艦の建造まで計画されていた。 量産計画は戦況の悪化により、最終的には予備部品を残して空母改装された「信濃」が最後となったが…。 当時はそれだけ戦艦の撃ち合いが戦争を決すると信じられていたんだ。
2015-03-05 19:16:04とまぁこれが世界と日本における戦艦の歴史だ。 …あと、余談だが大和の技術は戦後、民間でも活かされている。お店が回転するレストランには砲塔旋回時の振動を減らす技術が用いられたし、工場での重いものを高い所へ連続して引き揚げる大型機械や、船体形状を真似した貨物船など、多岐に渡る。
2015-03-05 19:21:37(あと一つだけ余談な。実は大和、武蔵の存在を当時の日本国民は緘口令が敷かれた街の人や一部の海軍高級士官、天皇陛下を除いて、誰も知らなかったし、クルーの家族も知らされていなかったそうだ)
2015-03-05 19:27:12アカウントのフォローは非推奨(見てもいい事はあまり)。しかしまとめを見て頂けるのはとても嬉しいです。是非、記事に対する感想や間違いなどの指摘・補足などコメント頂ければ幸いです。