@demokuri そんな事書いてありましたっけ?口で主よ、主よという人ではなく御旨を行う人がパラダイスに入るのであって、結局は信仰があると言いつつ邪な人と、信仰を拒んだ行いのよい人間なら後者が勝るというユダヤ教の考えの方が聖書的では?(単に行為のみが救いの根拠とは言いませんが)
2014-11-12 23:43:56@hatsushi_Chuya まず、主の昇天までは、パラダイスも地獄も共に『死後の世界は地の下にある』とされていました…cf1サムエル28:13~14, ルカ16:26。 イエスは第二位格の『神』ですから、当然 遍在なる方であるということを忘れてはならないと思います。
2014-11-12 23:46:15@hatsushi_Chuya はつしさんは、神の命令に背き、岩を二度打ち、約束の地に入ることができなかったモーセは救われていると思われますか?
2014-11-12 23:49:23@demokuri そう解釈しますか。シェオルとハデス(陰府)がごっちゃになっている感じがするのは置いておきますけれども、エリヤとエノクも地の下にいたということでしょうか?
2014-11-12 23:59:16@demokuri はっきり聖書に書かれていないモーセの話をとやかく言うことはできませんが、エリヤの霊と一緒に現れたし救われるのではないですかね。十字架の前でも後でも、自分がした過ちの報いを受けるのは変わりませんが、審判は行いを減点方式のみで評価するほど単純でもないかと。
2014-11-13 00:11:23ユダヤ教が律法を守るという行いによる義を求めるのに対し、主を信じる信仰による義が与えられるのがキリスト教では…?RT:@hatsushi_Chuya 信仰を拒んだ行いのよい人間なら後者が勝るというユダヤ教の考えの方が聖書的では?
2014-11-13 09:25:03@hatsushi_Chuya 義と認められるのは、キリストの福音を信じた時…義認。 信じた者がキリストの教えを学び、理解し、従っていくことが信仰生活…聖化。(口先だけの信仰ではなく、信じた後の従順を主は望まれていると理解してます) 携挙または千年王国に入る時…栄化だと思います。
2014-11-13 09:31:54@hatsushi_Chuya 聖書が言う『裁き』は、信者には御国での報酬を決めるものであり、不信者には刑の重軽を決めるものであって、有罪か無罪かを決めるものではないのですよ。
2014-11-13 09:35:26@demokuri 正確には違います。行いによる義ではなく、ヤコブの手紙で言われているような行いという血肉が伴う信仰による義認を求めます。詩篇に呼び求める者すべてに神は近いとあるので、メルキゼデクなどの異邦人であっても正しい人は聖徒が受ける報いを受けることができると考えます。
2014-11-13 09:37:12@demokuri 箴言8章に「わたし(知恵、言葉)を得る者は命を得、主から恵みを得る。すべてわたしを憎む者は死を愛する者である。」とありますが、最初の質問にもどると福音を信じない限り義とされないので滅ぶなんて聖書に書かれていますか?
2014-11-13 09:50:06@demokuri たまにそういう事をおっしゃる方をお見かけしますけど、どこにそういうことが書いてあるんでしょうか?信者が有罪にならないことが本当なら、弟子に対して姦淫して地獄に堕ちるくらいならその手を切り取ってしまえと言ったのは単なる脅しになりますけど...。
2014-11-13 09:57:28@hatsushi_Chuya どの契約を元にした時代の人かにより、信ずべき神の命令(ことば)は違うと思います。キリストの十字架は、イザヤが初めて預言しているので、それ以前の人々は知りませんでしたから。しかしアダムとエバが創世記2:16~17の命令に背いた結果、罪と霊的死が入り、
2014-11-13 10:04:33ユダヤ教について、いろいろと勘違いされ過ぎてる。たしかに行為義認と捉えかねない部分は強いけど、それは保守的なプロテスタントが律法が救いの根拠だと考えてないながらも聖書の戒めを守ろうとするのと同じであって、原始教会のユダヤ人信徒たちは今でいうメシアニックジューみたいに生きてたのに。
2014-11-13 10:09:08@hatsushi_Chuya 創世記3章でいのちの木があるエデンの園から追放された結果、肉体の死が入りました。その時、彼らの罪の贖いとして動物が死に、その皮の衣で二人は覆われたのです。ここに神の愛と恵みがあります。また旧約の律法の型が見えると思います。
2014-11-13 10:09:12@hatsushi_Chuya 今はキリストの十字架の死と復活の後なので、信ずべきはそのキリストの福音であり、信者は過去、現在、将来犯すであろう全ての罪が赦されています。ですから、日々の悔い改めだけで有罪になることはないのです。
2014-11-13 10:17:28@hatsushi_Chuya しかし未信者はまだキリストの十字架の贖いを信じてはいないので、そのままではいつか神の御前で、自分で自分の無罪を証明しなくてはなりません。キリストという仲介者(弁護人)抜きには、神の完全な証拠を前に無罪を勝ち取ることはできません。
2014-11-13 10:21:00@hatsushi_Chuya 肉体の死後の悔い改めでは遅いのです。だからこそ、クリスチャンは『今』一生懸命福音を伝えていく必要があります。神もそのように働かれています。ヨハネ5:17、6:44~45、14:26
2014-11-13 10:27:07@demokuri 基本的に律法は不変です。ノアの時代から食べ物の清い清くないはあったし、パウロは異邦人向けに律法をリベラルに解釈したけれども、ペテロが復活後も清くない物を口にしなかったように衛生と倫理の規範を含んだ食物の規範や、全ての律法も天地が滅ぶまでは一点一画も廃れません。
2014-11-13 11:55:37@hatsushi_Chuya ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
2014-11-13 11:59:51@demokuri もしパウロの言葉を字義通り受け止めるなら、産めよ増やせよではなく新約時代は、カトリックの司祭みたく独身がベストと捉えかねなかったり、男が被るべき頭の覆いを女が被るようにとか律法の真逆をいくことを説いたかのように読めますが、そうではなくて
2014-11-13 12:00:47@demokuri 必ずしも律法通りじゃなくていいと説いているのであって、新約時代だからどうとかそういうのはないと思いますよ。ですから今もなお、昔と同じように「呼び求める者すべてに近い」という原則は今も生きてると。もしそうでないとおっしゃるなら、聖句で証明してみて下さい。
2014-11-13 12:01:09@demokuri 律法の終わりと訳されてますが、「律法の目的」という意味もありますよ。確かにそこだけ読むと戒律がなくなったかのように読めますが、パウロは信徒に対して同性愛者や飲んだくれ等はパラダイスに入れないと言ってて、全体を読むとどうやら律法がなくなったとは言ってないのでは?
2014-11-13 12:11:31@hatsushi_Chuya 聖書全体の理解の基準は何でしょう? これはご存知ですか? 私はこれを基準に聖書全体を理解する立場の信仰です。 神様のご計画・経綸 〜七つのディスペンセーション〜 osusowake.hatenablog.com/entry/20130606…
2014-11-13 14:56:542017年の3月頃から2018年の8月にかけて大きな回心を経験しました。ここにまとまっている僕のtweetたちはかなり今の考え方とは違っていたり明らかに浅はかなものも多く一度は全て非公開にしようかとも思ったのですが、これらの過去も含めて自分であって、これらを抹消することは不誠実であろうということで、晒しておくことにします。(2019年9月)