よく読んでみると、三国志蜀書の本文に、姜維に批判的な言動は記載されてないように思える。この辺から、陳寿の心情が窺えるかもしれない
2013-08-24 21:11:38陳寿は董厥らの伝で、彼らが政治をみるようになり、且つ姜維が外征のために外に出っぱなしだったので、黄皓の悪事を止められなくなったと言っている。姜維は景耀四年までは成都にいたので、黄皓の専横が本格化したのは翌五年頃。逆に言えば、姜維が居た間は、黄皓もそこまで自由に振る舞えなかった
2013-08-24 21:34:38陳寿の言う黄皓の専横は、恐らく自分の左遷が根拠だろうと思う。姜維の属官を離れた後、黄門侍郎として働いていた時に黄皓が自分に対して強権を発動してきたタイミングがその頃なのだろう。陳祗の後、黄皓が役所の実質トップとなり、姜維が成都を離れるといよいよ専横を強めたと陳寿は思ったのだろう
2013-08-24 22:11:47姜維が黄皓を除くよう進言し、それを劉禅に拒否され、且つ黄皓が姜維に謝罪した逸話は、姜維が劉禅や黄皓から恐れ憚られていたことを示している。また、姜維が身の危険を感じたことを含めると、劉禅の権力もかなり確立されていた。そして、その裏にいる黄皓の権力も肥大化していたことを示している。
2013-08-25 01:28:48蜀で中書が現れるのは景耀六年の、諸葛亮の廟についての上表で、その中書(中書郎)は向充である。彼は尚書だったとあるが、景耀六年に中書郎では、その後に尚書となった可能性は低い。つまり、彼は尚書から中書郎へと移ったのである。それはなぜか?恐らく向充と姜維の関係、そして陳祗の死が絡む
2013-08-25 03:46:56蜀では突然中書郎が現れ、その上司は見えない。中書令なのか、侍中なのか、中常侍なのか?いずれにせよ、親姜維の向充が尚書から外されて中書に移ったことには、何らかの意味があるだろう
2013-08-25 07:28:56個人的に、向充の件は、歩兵校尉が連名であることに意味があると思ってる。当時の歩兵校尉の上司は、恐らく趙統。趙広の件に見えるように、趙雲の子は姜維とも近い可能性がある。また、中書についても、当時の侍中は張飛の系譜である張紹だ。姜維を中心に張飛らに諡を追贈したこととも関係がありそうだ
2013-08-25 08:28:06結論を言えば、陳祗死後、功臣の二世を要職につけ、次代を形成しようと試みた姜維が、その中心たる諸葛瞻に離反された上、彼らが黄皓におもねったため、その対抗として張飛や趙雲の子らと接近した結果が、向充の件に表れているのではないかということ。まあ、まだその主張の材料は揃ってないが
2013-08-25 08:35:19趙統の督行領軍は、向寵の就いてた中領軍だと思うんだよな。向充は射声校尉もやってたし、近衛との繋がりもある。習隆は歩兵校尉だし。この辺りに姜維の息が掛かってたのではないかと思う。来忠は参軍だから、この頃も姜維の下に居ただろうが
2013-08-26 00:55:53諸葛瞻と共に鄧艾の迎撃に出たのは、尚書の張遵、尚書郎の黄崇、羽林右部督の李球。五校は出てないし、その指揮官であろう趙統も出てない。尚書系の人物が多く、近衛からは李球だけだな。
2013-08-26 01:10:02虎賁が諸葛瞻に従わなかったのは、それが趙統の麾下だったからだろうか?しかし、国難に当たって、内輪もめで戦力を削るなんてことをするだろうか?
2013-08-26 01:17:30向充や趙統、胡博らが、尚書とは別な場所で姜維のために動いていたとしても、当の姜維は漢中、と言うか沓中から戻ってこないのだから、姜維が彼らと連絡を取り合って何かを画策していた可能性は低いだろう
2013-08-26 05:48:13諸葛瞻らは平尚書事であり、黄皓も与しているのだから、かつて費禕が蒋琬にしたように、詔勅で姜維を制する事はできたはずだ。まして尚書の高官が皆黄皓におもねっていたのなら尚更だ。しかし、実際にはそうならなかった。これは皇帝劉禅の意思によるものだろうし、その陰に郤正が居ても不思議ではない
2013-08-26 06:24:29郤正は秘書令として劉禅に意見することができたし、実際もそうしていたことは釈譏から分かる。その意見の中で姜維を擁護し、黄皓らの画策から姜維を守っていたというのは、十分に考えられる。そうなると、釈譏によって反駁した相手は諸葛瞻らだろう。安楽な道とは、黄皓らにおもねることだ
2013-08-26 06:29:49陳祗死後でも、姜維は完全に孤立していたわけではないのだろう。しかし、沓中から戻ってこれない状態ではあった。また、侯和の戦いを起こしたように、攻勢を継続する意思が姜維にはあった。この攻勢が、成都へ帰還する道筋をつけるものだったかはともかく、成功すれば親姜維派の力にはなったろう
2013-08-26 08:42:59いずれにせよ、姜維に対して詔勅による実権剥奪が行われなかったことは、誰かの働きかけがあったにせよ、劉禅の意思は姜維を宰相に留めておくというものだ。そしてそれは、諸葛瞻らの意思に反する。劉禅の敬愛していた陳祗が、生前に姜維の任用を強く願っていたのかもしれない。
2013-08-26 08:49:49陳寿による姜維評の「軍勢を軽々しく扱い」という内容は、洮西での大勝と段谷での大敗を彼が知っていたということを考えると、その評の裏にある感情に思いも馳せられよう
2013-08-26 09:27:56向充は近衛兵の指揮官だった向寵のおとうとで、自身も射声校尉を担った。趙統は近衛兵の指揮官。習隆も近衛である歩兵校尉。成都の親姜維派は、軍人で固められている
2013-08-26 12:53:36習隆は歩兵校尉でありながら秘書を司った。これは本来の職務からは逸脱している。ちなみに秘書令は郤正。恐らく、姜維の為の上奏を、尚書を経由すると握りつぶされてしまうから、近衛が秘書を経由して上奏するというルートが確立されたのだろう
2013-08-26 13:03:12大将軍録尚書事たる姜維なら、回りくどいことをしなくても劉禅に上奏することができる。近衛がわざわざ秘書を使ったのは、姜維が居なかったからだ。つまり、向充らの勝手な画策であり、影なる姜維支援
2013-08-26 13:07:27