1987年出版の『チェルノブイリの雲の下で』を読んでみて
- tokabakichi
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『チェルノブイリの雲の下で』田代ヤネス和温著を読んだ。チェルノブイリ事故から1年後のこの本に書かれていることを、私は自分に原発事故がふりかかって、やっと追体験したのだと悟った。すでに語られていたことを、今そのままなぞっている。
2013-02-20 13:13:03『チェルノブイリの雲の下で』を読むと、事故後の国の対応が人や命を守るためではなく、変わりない世界を維持しようとするためであること、経済の前に農業の補償がなされないこと、そして汚染食品が流通していくこと、ベクレル派と呼ばれる放射能を忌避する人々が中傷を受けること、すべてが重なる。
2013-02-20 13:19:39反原発デモに参加し始めた一般の人々、そしてそれを利用する反原発派、また反原発派の切り崩しのために利用しようとする体制側。そして、次の事故を防ぐために反原発に向かう人々、一方日々の被ばくを減らそうとする人々、そんなことがすべて87年の本に書かれていた。私はそれを知らずにいた。
2013-02-20 13:24:03また、この本には、当時収集できたヨーロッパ各国でのチェルノブイリ事故への対応も書かれている。全く問題ないとした国、ヨウ素剤を配布した国、さまざまだけれど、情報を隠ぺいする所が多かった。
2013-02-20 13:27:23『チェルノブイリの雲の下で』p238より引用(1) 「チェルノブイリの放射能が私たちの日常にある日突然入り込んできたことは、私たちにとっていわば新しい時代の体験でもあった。私たちが現に生存しているこの世界が、もはや「純潔」ではありえないこと、
2013-02-20 13:30:08『チェルノブイリの雲の下で』p238より引用(2) 世界は最終的な破局を目前にしているのではなくて、すでに破局のただ中にあることがはっきりと示されたのだ。」
2013-02-20 13:31:05『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(1) 「多くの人たちが何事も起こらなかったかのように振舞っている姿を目撃した。彼等は放射能の雲の下を子どもを連れてピクニックやデモに出かけた。汚染されていることがあきらかな食品を平然と口にした。政府が「安全宣言」を発し、
2013-02-20 13:34:29『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(2) 何の注意もされなかったことが悪の根源にあるにせよ、その政府を疑おうとしない人びとの姿勢に、私は今さらながら唖然とした。だがしかし、そうした人びとの行動の根底に、もっと深い人間の欲求、
2013-02-20 13:36:11『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(3) あるいは生物的本能とさえ言い得るほどの強い欲求が横たわっているのを、見落としてはなるまい。それは汚染されていない原世界に戻りたいという欲求である。たとえ恐るべき原子炉災害が起ころうとも、長い間の生活習慣や食習慣を守って
2013-02-20 13:37:36『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(4) 変えようとしないのは、あたかも世界を昔通りに戻したいとの切実な願いを込めた、呪術のようにさえ見えるのだった。
2013-02-20 13:38:57『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(5) 「世界は昔のままであり、何事もなかったのだ。私たちの周りにはなんの危険もない」と信じ、自己暗示をかける。そしてまさにそのことによって、自分自身と子どもたちを限りなく汚染していくという、どうしようもないパラドックス。
2013-02-20 13:40:01『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(6) 破滅的な状況のただ中に身を置きながら、なおかつそれを信じまいとする力は、もはや理性の説得を超えたところにある何かだとしか、考えようがない。
2013-02-20 13:42:04『チェルノブイリの雲の下で』p241より引用(7) 残念なのは、このような心理の動きが、原発を推進し続ける側によってどこまでも利用されることである。
2013-02-20 13:42:50『チェルノブイリの雲の下で』は絶版ですが各地の図書館にあります。近くになくても県内の図書館の相互貸し出しシステムを利用して取り寄せることが出来ます。延岡にあったはずなんだけど無くなってるので、廃棄されたかもしれない。利用があれば廃棄されないので、ぜひ図書館で借りましょう。
2013-02-20 13:48:27放射能汚染は、生物が暮らす根本を揺るがす。だから、どこでそれが起こっても同じ反応が起こる。
2013-02-21 09:22:08宮崎←栃木←神奈川←三重←北海道。母語:北海道弁。第二方言:三重弁(ヒアリングは完璧)。最近は栃木弁を聞いても、最初感じた違和感をまったく感じなくなったのですが、夫の転勤先の宮崎に最近引越し、再び違う方言の中に。これもまたすぐ慣れるのでしょう。