大谷吉継が秀吉の機嫌を損ねて謹慎中に石田三成が、吉継がかねてから見たがってた神屋宗湛の茶道具を、吉継を励ますため見れるように取り計らったという話の記された『宗湛日記』、あれも偽書の可能性があるのか…。じゃあホントに同時代の記録に三成と吉継の友情話って皆無じゃないかw;
2012-07-28 10:04:04@1059kanri おはようございます。まあ、でも大谷さんも事実上五奉行にいた時もありますし、「同僚として」仲がいいっていう推測は立たなくはないんですけどね、一応は。
2012-07-28 10:08:26@shoko_multi おはようございます!それはもちろん推測できるんですが、友情という面は同時代には認識されていなかったのでしょうね。
2012-07-28 10:13:37教養といえば、武士というのは公の場で有職故実などの高い教養を求められたが、一方で分国法である『長宗我部元親百箇条』には、「偉い人の前では大声で私語はしない。音を立てて鼻もかまない!」なんて校則並のことが堂々と法律として書かれているわけで、何時の世も人間社会は一様ではないですねw
2012-07-28 10:32:40戦国大名だって、一番の仕事は安堵と訴訟でしたしね。要は権利関係の揉め事が起こらないようにするための権利確定と、権利関係の揉め事の処理 @1059kanri
2012-07-28 12:05:18織田信長を決断や豪腕政治のモデル、とする言説はよく見られますが、信長はその決断・豪腕を発揮できるようにするため気の遠くなるような調整と、条件と環境の整備をした上で行使している、という部分はなかなか認識されませんねw
2012-07-28 12:07:52下準備を怠ると御家騒動で家ごと崩壊 RT @1059kanri: 織田信長を決断や豪腕政治のモデル、とする言説はよく見られますが、信長はその決断・豪腕を発揮できるようにするため気の遠くなるような調整と、条件と環境の整備をした上で行使している、という部分はなかなか認識されませんねw
2012-07-28 12:09:29@sweets_street @1059kanri 戦国時代の分国法も、訴訟や利害調整に関する取り決めがかなり多かった気がします☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
2012-07-28 12:11:06@edochicken @sweets_street というか、そこが大名権力の本質ですからねw公正な裁判を出来ると認識されないと、あっという間に公権力として認められなくなります。
2012-07-28 12:12:51そういうのって、秀吉と光秀の仕事だったことにされてる印象がある。 RT @1059kanri: 織田信長を決断や豪腕政治のモデル、とする言説はよく見られますが、信長はその決断・豪腕を発揮できるようにするため気の遠くなるような調整と、条件と環境の整備をした上で行使している、…
2012-07-28 12:13:50@yamashita99 実際には信長自信で調整していますね(だから一種の独裁権力を保持できたのですが)、信長は本当に我慢強い大将です。
2012-07-28 12:16:16@1059kanri 信長の書状って言うとたいがい右筆が書いてますが、右筆軍団が優秀だったからこその信長の天下取りだったんでしょうな。そんな優秀な連中、どうやって育成したんだか見当がつきませんが。
2012-07-28 12:55:36吉継の西軍参戦が欲に塗れた理由に! RT @1059kanri: 大谷吉継が秀吉の機嫌を損ねて謹慎中に石田三成が、吉継がかねてから見たがってた神屋宗湛の茶道具を、吉継を励ますため見れるように取り計らったという話の記された『宗湛日記』、あれも偽書の可能性があるのか…。じゃあホントに
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