巫から夷陵まで数十の営を築き、っとあるが、その距離は200km以上にもなろう。均等に配置されたとしても、数kmもの間隔がある。果たしてそんな配置をするだろうか?
2012-04-28 23:38:57そもそも、巫から西陵までは巫峡と西陵峡が存在し、殆ど兵など置けない。「夷陵における劉備の長大な陣」というのが、そもそも幻想なのではないか?
2012-04-28 23:43:55@Jominian 昔、夷陵の想定布陣図を見た事あるけど、数十の陣営の内大半は前線の南北両岸に配置されてて、巫から夷陵は兵站線上に数カ所配置されてるような感じでしたよ。実際、そうなんじゃないんでしょうか。
2012-04-28 23:48:51@awawaasao2012 地形から考えた配置でしょうね。実際、巫から西陵までの長江沿いは絶壁が多く、戦力を多く置ける場所ではないです。
2012-04-29 00:01:56普通に考えれば、後方に置いた戦力は、新たに手に入れた巫から秭帰までの諸県城を鎮撫するためのものであろう。大きな戦力は割いていない。「七百里に渡って陣を築くなんてバカじゃねーの?」という曹丕の批判は、遥か彼方から実情も知らずにものを言っているだけだろう
2012-04-29 00:03:49@awawaasao2012 軍才と言うより、地形を知らないだけじゃないかと。後は、伝聞だけで判断しているので、実際どうなのかよく分かってなかったんだろうと
2012-04-29 00:20:37しかし分からないのは、「船を捨てた」という陸遜の言葉である。巫から夷陵まで長大な峡谷が存在している以上、船がなくては帰還もままならない。船を捨てるなんてことは常識的に考えてしない
2012-04-29 00:22:08@Jominian そこを根拠に劉備は用兵が下手と言われますよね。今の自分は劉備が戦上手と認識し始めましたが、逆になぜ戦上手なのにそういうことをやったのかとずっと疑問に思ってました。非常にすっきりしました。
2012-04-29 00:25:02船を捨てて陸に拠った、と言うが、劉備が船を捨てたのは、敗北を喫して、秭帰にて戦力を再集結してからだ。それまでは船を有している。
2012-04-29 00:29:11ではどういうことか?陸遜の言葉は、劉備が本当に船を捨てたのではなく、兵を全て陸に揚げ、船は係留するままにしておいたことを言っていたのだろう。
2012-04-29 00:30:56@Mar__sch 伝聞で曹丕が評価した内容を鵜呑みにしても、どうしようもないくらい不確実な内容になってしまいますね。自分で考えるのが一番という事でしょう
2012-04-29 00:32:07先主伝によれば、水軍を率いていたのは呉班と陳式である。陸遜伝にあるように、呉班は陸上で囮を行っており、陸遜と猇亭で接触した時には陸に上がっていた
2012-04-29 00:37:55なぜそうしたか、と問えば、北の人間である劉備と、南の人間である陸遜の戦略文化の違いが理由であろう。北の人間である劉備にとって、河川は、作戦線に沿えば良好な交通線に、横切れば障害になる地形、という認識しかなかったのだと思われる。水上で勝敗を決するなどという考えは端から無かった
2012-04-29 00:43:13劉備にとって河川は交通線であり、船は戦力を輸送する手段でしかない。だから、平地まで出てくれば、軍を陸に上げ、陸上にて勝敗決しようと考えるのは自然なことである。船を絶えず動かして、戦力をそれに割くなんてことはしないし、する頭も無い
2012-04-29 00:45:42北の人間と南の人間では、戦争における河川の重要度が違うんだ。じゃあ、赤壁における曹操と周瑜もそうなのだろうか。
2012-04-29 00:46:07陸遜は、劉備の陣営に攻撃をかけて敗北した後、「敵を破る術が分かった」と語ったとされるが、これもパッと見は不自然であろう。何が分かったのか書かれていないし、陸遜がどう攻撃したかも書かれてない。
2012-04-29 00:48:29陸遜は、劉備が戦力を展開している猇亭を抜け、後方の陣地へ攻撃を掛けたのだろう。恐らく、夷道と夷陵の間のどこかだ。成功こそしなかったものの、自軍に劉備軍の後方の陣地まで戦力を送り込む術があることを把握した陸遜は、そこに勝機を見出したのだろう。
2012-04-29 00:52:39