ドルゴンは翌一六四四年、明朝に出兵した。明朝征伐と記す史料もあるものの、その成算があったわけではあるまい。(中略)清朝全体の命運をかえるなど、誰も思っていなかったに違いない。(P.8)
2020-07-18 16:42:12明朝政府は「流賊」が北京に迫ると、その呉三桂を首都にもどしたが、間にあわなかった。呉三桂のもとに北京陥落の報がとどいたのは、途上の長城南方の灤州である。(P..9)
2020-07-18 16:46:07山海関には、ドルゴン率いる清軍が迫っていた。(P.10) 迫ってないんではないかしら…このころ、南モンゴル経由で古北口あたりから北京突くつもりやったやん…。
2020-07-18 16:49:29うーん…ドルゴンが明朝侵攻したのは、錦州から寧遠の守備兵が消えたという報告があったからで、北京で何やら異変があったらしいと推測、洪承疇はこの期に流賊から北京を奪取するように進言、山海関はどんな強兵がいても北京を占領してしまえば無力化できるからと避けてるんだが…
2020-07-18 16:56:31寧遠から引き揚げた呉三桂は、北京に行く途中、灤州で北京陥落の報を聞いて山海関まで引き返し、李自成と対峙するべく清朝に救援を要請しに使者を送ったところ、南モンゴルにいたドルゴンの部隊と遭遇して明朝滅亡の滅亡を使者は告げたので、ドルゴンは急遽進路を変更して遼西回廊を西に進軍。
2020-07-18 17:00:00李自成が数十万の兵を率いて山海関に攻撃を仕掛ける中、清軍は呉三桂からの矢のような催促を受けて、昼夜ぶっ続けで進軍。ついでに一片石関から長城を抜けて山海関の反対側から攻撃しようとしてた部隊と真夜中に戦闘して鎧袖一触で撃退。
2020-07-18 17:03:03翌朝、早朝に山海関に到着。呉三桂の投降を受けて一時休憩。昼過ぎごろ視界を遮るような砂嵐の中布陣。呉三桂を左翼に追いやりつつ、砂嵐が止むと同時に突撃。余裕ぶっこいていた李自成軍は一撃で崩壊。夕方過ぎには追撃戦が終了という感じなので、岡本センセの捕えとかなり違う気がするんやけど…。
2020-07-18 17:06:46まぁ、歓喜嶺が出てこなかっただけマシか…(明季北略に出てくる架空の地名で、ここまで呉三桂が出張ってきてドルゴンに投稿したことになってる。なので、この地名出てきたらまともに史料読んでない記事だということがわかる
2020-07-18 17:10:22中々入関に関する真っ当な記事が書籍ベースで出てこないんだが…。《昭顕世子瀋陽日記》はともかく《清実録》なんて今ではネットで検索できるのになんでなんや…(PDFで影印まで確認できる
2020-07-18 17:17:02呉三桂、李自成の進軍は知ってたけど、清軍が北京目指してたことまでは知らんかったと思うけどなぁ…。挟撃に悩んだりせんやろ。むしろ、状況的に見て、錦州あたりで使者をドルゴンの進軍ルートに案内したと思われるアイドゥリの方がよほど凄くない?って話だと思うけど。
2020-07-18 17:22:11うーん…目先はちょっと変わってたけど、根本的には変わってないからやっぱダメですな。でも、巻末の参考文献はかなり充実してるなぁ…。
2020-07-18 17:25:38清軍が真に恐ろしいのは、なんの根拠もなく李自成軍と一戦交えれば、一撃で決着がつくと信じて疑わず、日に夜を継いで走り回った後、本当に一撃で決着付けちゃうところなんですわ…。しかも、急に進軍ルート変えてるから補給ルートなんてそもそも確保してないから、ろくに飯も食べてない。
2020-07-18 17:34:46山海関で勝利したあと、呉三桂軍を辮髪にしたあと再雇用して北京に進軍。補給部隊に先行してるので全く補給がない中一週間くらい行軍。途中の都市では投降を受けても野営してひもじい思いしながら北京に到着。期待してた金銀財宝は李自成が持ち出した後という…
2020-07-18 17:37:29@manju1635 概説書で入関の経緯をきちんと紹介してもらえればありがたいんですが…なんで半端に説明かわってるのかが…w
2020-07-18 17:42:36さっき書いた清初の入関にしても、人生訓として活用できることは何もないし、やっぱ運がいい時は何やっても裏目に出ることはないとか、どうでもいい感想しかわかないもんな…
2020-07-18 20:26:58『「中国」の形成』で鄭氏勢力の話になってきたけど、またワシには納得のいかん論法が…。倭寇の末裔たる鄭氏勢力が清朝と敵対したのは、代が変わったから敵も変わっただけで、明朝との対立構造は変わらない…としてるけど、明朝の海禁政策と清朝の遷界令では目的がまるで違うんでは…
2020-07-18 22:21:16そもそも、鄭芝龍に従って鄭成功が清朝に降ってれば、そのまま海防任せて三藩まで行かなくても、そこそこの勢力保ったんと違うんかなあ…
2020-07-18 22:23:17@sengnadow どちらも大目的は海賊勢力への治安対策ですからそこは同一視していいのでは?明朝は海禁が国是扱いになっていったのでそういう点では確かに大違いですけど
2020-07-18 22:25:38うーん…明朝と王直初めとする倭寇勢力の対立と、清朝と鄭氏勢力の対立は見た目は海上勢力と陸上の定刻との対立だけど、内容まるで違うんでないの?王直と鄭氏勢力の目的は全く同じで、それを弾圧した明朝と清朝の目的は全く同じだったの?
2020-07-18 22:26:54@keityusi 明朝は交易自体を政府の統治下に置きたがって結果的に倭寇が沿海部の治安を乱したけど、鄭氏勢力は明の復興を唱えてイデオロギー的に対立したわけで、そこ一緒にしていいの?っていう違和感はあるんですが、鄭氏勢力は治安対策で済まされるレベルの武装集団なんすかね…。
2020-07-18 22:29:41まぁ、清朝が交易の独占を目論んで鄭氏勢力を排除しようとして、それに反発して台湾に寄ったとかならそういう解釈になるんでしょうが…ちょっと思いつきで書きすぎなんではないかな…
2020-07-18 22:31:36@sengnadow 交易の統制は後付で、当初は猖獗を極めていた倭寇への治安(国防?)対策が主眼でしたね。倭寇と海商が不可分の存在だったのでそれが交易の制限になるのは一体の措置ではあったのですが…。鄭氏勢力はイデオロギーもって戦争してましたけど個人的には治安レベルな認識ですね(これは感覚です)
2020-07-18 22:35:56