電信(電気信号による通信)の歴史は意外と古くて、1746年にフランスの物理学者ジャン=アントワーヌ=ノレ(Jean-Antoine Nollet)によって最初の実験に成功している。 pic.twitter.com/CleuOBXQEp
2016-09-23 22:30:55その後、1800年代には各国で電信技術の実験が行われ(中略)、1838年に有名なサミュエル・モールス大先生が登場する。トトト、トトトト、トト、ツー(SHIT)のアレである。ちなみにぼくは無線技士の資格を持っているので電信くらいはお茶の子さいさいだったりする。
2016-09-23 22:35:26当然ではあるけれど、電信の歴史は有線通信からはじまった。それから120年後の1894年にイタリア人発明家、グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)の手によって無線通信の実験に成功する。日露戦争開戦わずか10年前の出来事である。
2016-09-23 22:43:22ちなみにこのマルコーニ、学校教育はほとんど受けていない。独学で実験を行い無線通信を商業ベースに乗せてしまった。その功績を称えて1909年にはなんとノーベル物理学賞を受賞しちゃったほどのMr.サクセスくんなのだ。
2016-09-23 22:44:49有線通信の歴史に話をもどそう。陸上通信(基地局、アンテナ、ケーブル)にはそれほど手間もかからず、すぐに通信網が張り巡らされたのだが、大陸どうしの通信には限界があった。伝書鳩を使っていたのだ(ウソ)。そんなある日、英国からブレット兄弟(爆走兄弟レッツ&ゴーとは無関係)が登場する。
2016-09-23 22:50:291850年、ブレット兄弟はドーバー海峡に世界初の海底ケーブルを敷設する。ただ不幸なことに、海藻とまちがえた欲張りな漁師がケーブルを刈り取ったため、わずか一日にして通信は途絶えてしまった。それでも不屈の兄弟はふたたび敷設して、翌年からはイギリス=フランス間の通信を担った。
2016-09-23 22:53:45ブレット兄弟の成功からわずか数年のあいだに海底ケーブルは大ブームとなり、それまで通信を担っていた郵船(蒸気船による郵便配達)は廃れてゆく。やがて大西洋横断電信ケーブルが完成するなど、江戸時代の終わりにはすでに、現在の光ファイバーケーブル通信網の理論的ひな形が出来上がっていたのだ。
2016-09-23 22:57:51ちなみに、日本に海底ケーブルが接続され本格的な大陸間通信網が産声を上げたのは1871年のことであった。デンマークのGreat Northern Telegraph(日本名:大北電信)はまず長崎ー上海間を敷設して、2ヶ月後には長崎ーウラジオストク間を海底ケーブルで結んでいる。
2016-09-23 23:02:49この年の秋に大久保利通ら主要閣僚が欧米視察団として海を渡るのだが、日本の電信には大きな欠陥があった。大久保がニューヨークから送った通信は数時間後に長崎まで到達していたのだが、長崎から東京までの通信手段がなかったのだ。結局、飛脚や早馬でちょうど3日ほどかけて東京に連絡をとっている。
2016-09-23 23:07:22これはアカンと思った日本政府は長崎ー東京間の電信(つまり外国から東京へのホットライン)を急務と認識しながら、大北通信が提案した瀬戸内海経由の海底ケーブル(長崎ー東京間)敷設にはブレーキをかけている。なぜか。大北通信(デンマーク)の背後に帝政ロシアの影を見出していたからなのだ。
2016-09-23 23:11:41当時のヨーロッパは大国のほとんどが姻戚関係にあった。当時の帝政ロシアではアレクサンドル二世の治世下にあったのだが、皇太子ニコライ(長男)が22歳で早世したため、デンマーク王室から嫁にくる予定だったマリー・ダウマーが急遽スライド登板、弟の皇太子アレクサンドル三世の妻になっている。
2016-09-23 23:18:08んで、なんやかんやありまして日本は長崎ー横浜間の海底ケーブル敷設を長らくお断りし続けてきたのであります。送信網が陸上ではなく海底経由で敷設されたのはなぜかと言うと、たんに用地買収やら設備投資などカネの問題なんだけど、当然ながら海のほうが安かったのだ。
2016-09-23 23:23:54当時の日本政府はいまより賢かったので「露助に通信の秘密を握られるよりも、カネはかかっても独自の通信網を持ったほうがマシやな」と考えたわけ。結局、1873年にはむりやり地上通信網を完成させて大北通信の提案は廃案に追い込みました。よかったね。
2016-09-23 23:25:54さて、日清戦争(1894~1895)を経ていよいよ露助の脅威が増してきました。ここで大活躍するのが日本陸軍の至宝、児玉源太郎少将(当時)でした。児玉は英国と手を結び、ケーブル敷設船(沖縄丸)とケーブルを秘密裏に購入します。やがて、九州ー台湾経由で欧米と通信網を結んだわけです。
2016-09-23 23:30:43日清戦争から日露戦争までのわずか10年のあいだに、児玉は「児玉ケーブル」という通信網を日本ー台湾ーインドーアフリカーヨーロッパ間に広げたわけです。実際には日台間でケーブルを敷設して、もとも大陸通信網にあった本回線と接続しただけなんだけどね。
2016-09-23 23:33:35こうした準備期間のあいだに日英同盟(1902年)を結び、児玉ケーブルは赤線と結ばれます。赤線(All Red Route)は遊郭ではなく赤道航路のことで、英国王室御用達の王国郵船(蒸気船)にルーツを遡ります。とにかく英国と結託して通信網を張り巡らせたわけ。児玉さんすげぇよ。
2016-09-23 23:36:34ちなみに、海底ケーブル敷設船「沖縄丸」は名前を変えて「富士丸」と偽って、かの激戦地203高地を西方に頂く旅順港まで秘密の通信ラインを敷設している。つまり、日露戦争当時にはもう立派な通信手段が確保されていたわけなのだ。
2016-09-23 23:39:42そしてこれは周知の事実なんだけど、朝鮮半島や南シナ海には光ファイバー網が張り巡らされている。現代の児玉ラインとでも呼ぶべきもので、中国の原潜や北朝鮮の水没船(潜水艦とも呼べない代物)が出港した時点で補足、必要な情報を自衛隊と米軍で共有している。
2016-09-23 23:41:26日露戦争当時には立派な情報網が完成していたということ。通信の歴史は浅くて意外と深いのだ。バルチック艦隊の航路はあらかじめイギリス諜報部の秘密通信で日本側に送られてきていたりもする。イギリスの執拗な嫌がらせには石炭や水の補給への干渉もあって、バルチック艦隊は当初より不利だったのさ。
2016-09-23 23:46:09ちなみに、日本海海戦(1905年)におけるバルチック艦隊の発見に際しては、国産無線機(三六式無線機)が通信に使用されていた。中継を必要とした精度の低いものではあったけれど、ぶじ信濃丸ー三笠を結び、バルチック艦隊の発見を伝えることに成功している。
2016-09-23 23:55:24余談ながら、バルチック艦隊の発見は一般人(漁民)によっても行われている。「久松五勇士」で検索すると詳しい記述があるけれど、バルチック艦隊の航路は有線で逐一報告されており、信濃丸による探索後は無線で三笠に伝えられていた。五人の命がけの航海は徒労だったのだ。かわいそうに。
2016-09-23 23:59:40映画「日本海海戦」にも久松五勇士は出てくる。ぼくは長いこと松山英太郎だと勘違いしてたんだけど、弟の松山政路のほうが漁民を演じていたらしい。
2016-09-24 00:02:48松山英太郎なんて、若い人には通用せんだろうな。昔そういう俳優がいたのだ。うちの死んだ爺さま(スケベ)に顔が似ていたのだ。松山英太郎は残念なことに爺さまより早く死んだ。爺さまは彼の三年後に死んだ。しかしながら、今思えば笹野高史のほうが爺さまにはそっくりである。 pic.twitter.com/vbtf2RCNUA
2016-09-24 00:09:17