大東亜戦争末期の食糧事情と継戦能力
- hirataitaisho
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※フラグが過ぎるので最初に載っける
わが國はいつの世にも瑞穂の國に變りはない 食料自給は我國の根幹をなしてゐる 南方に依存するやうな心の緩みが食料增産をさまたげては御先祖様に申譯ない twitpic.com/cdfxq6
2016-10-08 23:43:23ところが昭和20年に至ると、マジで天候不良による凶作が末期戦に重なったらしい。そこへシーレーンの遮断による肥料不足、空襲や燃料不足による流通の停止(かろうじて満州や朝鮮半島から食糧を調達しても陸上輸送能力が不足し陸揚げ地で停滞)、徴兵による働き手不足…… twitter.com/YS_GPCR/status…
2016-10-12 12:00:52戦時中はモノがなくてひもじかったという話は有名だが、その主因は燃料の不足による流通の停止であるということは意外なほど知られてない。戦争に凶作が重なったとでも思っているのか。だからこんなバカな発言が政治家からすらも出る
2016-10-11 14:21:33太平洋戦争、意外と自然環境の影響を受けていたらしく、当時は太陽の黒点活動が活発だったことで地球の電離層が不安定になり、低緯度地方で戦う日米両軍の多用した短波通信に悪影響を及ぼしたという話がある。あと戦争末期に日本列島を連続して襲った巨大地震も、農業生産や軍用機生産にダメージを……
2016-10-12 12:21:12鳥取地震(とっとりじしん)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)9月10日17時36分54秒に発生した地震。震源が極めて浅く、鳥取市で震度6、遠く瀬戸内海沿岸の岡山市でも震度5を記録した。
昭和東南海地震(しょうわとうなんかいじしん)は、1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分から、紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20km (北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)M7.9のプレート境界型巨大地震。
当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国アメリカに漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。翌8日が真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された。
三河地震(みかわじしん)は、1945年1月13日午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震である。
震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者1,180人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸とされる。
く昭和東南海地震で軍用機の生産拠点を潰されて、せっかくの新鋭機もロクに生産できず……なんてのはさすがに大日本帝国、運がなかったとしか言いようがない。
2016-10-12 12:26:54逆に戦争継続が困難となり早期決着に至った可能性も?もはや手遅れの段階だしね。ちなみに5月に亡くなった爺ちゃん曰くこの地震でせっかく合成した秋水用ヒドラジンが瓶から全部零れちゃったとか
2016-10-12 13:23:19戦争末期の凶作、 ●天候不順 ●肥料不足(シーレーン破壊による化学肥料の輸入途絶) ●耕作用の馬不足(軍馬として供出させられた) ●労働力不足(男手は徴兵され女子供病人で農耕せざるを得ず) ざっとこれだけの要因が思いつく
2016-10-12 12:51:45最末期は内地の軍人も腹空かしてて、体力の消耗を防ぐためあまり動くな的な訓示が各基地で出ていた、という目を疑うような話をtogetterで読んだ記憶があるのだが…… twitter.com/nysalor/status…
2016-10-12 13:25:41昭和20年は記録的な凶作だったけども、その影響が出たのは戦後で、大戦末期の食糧事情の悪化は燃料事情と、南方航路が途絶したことによるはず。さらに戦争が続けば釜山との航路も途絶したので、凶作と合わせて数千万の餓死者が出たと思われる。本土決戦する前に腹減って死にます twitter.com/y_arim/status/…
2016-10-12 13:01:38たぶんコレだわ>【艦これ】カロリー管理【史実】 / 坂崎ふれでぃ さんのイラスト nico.ms/im3855430 twitter.com/y_arim/status/…
2016-10-12 15:57:36@y_arim 議事堂の庭まで芋畑にして食糧増産を図ってますね。機雷封鎖でシーレーンのみならず内航船の運航すら満足にできなくなっていたので・・・
2016-10-12 14:23:40飢餓作戦(きがさくせん、Operation Starvation)または餓死作戦は、太平洋戦争末期にアメリカ軍が行った日本周辺の機雷封鎖作戦の作戦名である。
この作戦はアメリカ海軍が立案し、主にアメリカ陸軍航空軍の航空機によって実行された。
日本の内海航路や朝鮮半島航路に壊滅的打撃を与え、戦後も海上自衛隊の戦術思想や日本の海運に影響を残した。
昭和20年は記録的な凶作だったけども、その影響が出たのは戦後で、大戦末期の食糧事情の悪化は燃料事情と、南方航路が途絶したことによるはず。さらに戦争が続けば釜山との航路も途絶したので、凶作と合わせて数千万の餓死者が出たと思われる。本土決戦する前に腹減って死にます twitter.com/y_arim/status/…
2016-10-12 13:01:38深刻なのは塩の不足で国内の製塩工場は軒並みやられていた。家畜用と工業用の塩が足りず更に翌21年は人間用の塩が不足すると見られていた。即ち死。
2016-10-12 13:25:56ですね。他に字面に出難いのですが 『塩の不足(供給不均衡)』も 昭和19年後半の信州では 「塩が貴重品になりつつあった」と 伺っています、体力低下や疾病率にも影響 @y_arim 昭和20年に至ると、マジで天候不良による凶作が末期戦に重なったらしい。 そこへシーレーンの遮断
2016-10-12 13:54:56左様です。 当時の経験者様に依ると 信州では塩の不足から体力低下 疾病率の上昇などが体感されていた と承っております。 @dogu_fm 深刻なのは塩の不足で国内の製塩工場は軒並みやられていた。 家畜用と工業用の塩が足りず 更に翌21年は人間用の塩が不足 @y_arim
2016-10-12 14:03:06戦争指導の基本大綱によると「今後国民の食生活は(略)生理的必要最小限の塩分を漸く摂取し得る程度のなるを覚悟せざるべからず」=「生きるぎりっぎりの塩しかなくなるで」
2016-10-12 15:06:29