意志に自由があるという信仰

みたび自由についてなる再反論をいただきましたにゃ。しかし、反論の呈をなしてにゃーのだが。


まず「意思*1の自由」についてにゃんが、脳内でどう考えようがそりゃ確かに自由ですね、という論点については前エントリ追記ですでに触れているんだけどにゃ。
脳内お花畑の自由はあるよにゃ。想像の中でなら快楽殺人も民族浄化もやり放題。
公務の執行を妨害する自由を語っていたエントリにつっこまれて、脳内お花畑の自由にまで後退せざるをえなかったのに、まだ誤読とかレイヤーが違うとか言えてしまう面の皮の厚さにまず乾杯。
さらに、脳内お花畑の自由をして、根源的な自由などという庇い方がなされる強靭な心臓にさらに乾杯。

他者の根源性

僕は最初からlever_buildingのいう自由には他者が不在であるといってきましたにゃ。強者の論理であるともいってきましたにゃ。何度でも確認する必要があるのだけれど、lever_buildingはこの論点に対して何の反論もできてにゃーんだな。そして、僕の読みを誤読だのレイヤーの違いだのといった戯れ言に逃げているわけにゃんな。
どうやら、驚くべきことにlever_buildingとその賛同者たちは、他者の話とは社会の話であると考えてしまっているのですにゃ。人間的本質とか根源とかいう話をしたいのなら、「わたし」と少なくとも同様に「他者」が本質的であり根源的であるという発想そのものがにゃー。自我は他者であるとか、他者は鏡であるとか、そういう発想をちっとはしてくれよにゃ。


個人と社会について考えるとき、個人が上位・根源におかれるという考えと社会が上位・根源におかれるという考えの両方がありますにゃ。そのどちらにリアリティを感じるかについては、有り体にいって趣味の問題としかいいようがにゃー。どちらが正しいと一義的に、あるいは事実として決定できるような問題ではにゃーんだな。ウェーバーのいう「神々の闘争」だにゃ。ニワトリが先かタマゴが先かという議論に決着がつくことはにゃーわけだ。
僕自身は個人を社会の上におくほうが好みではあるのだけれど、その前提を万民が共有すべきだとか、個人の自由意志を無根拠に根源におくとかいう傲慢な考え方はできにゃーですね。
しつこくいっておくけれど、僕は個人の上に国家や共同体を置く考え方を採用するつもりはまったくにゃー。しかし、共同体あるいは関係性なしに個人というものを考えることができにゃーという事実をいっているのだにゃ。アリストテレスが「人間はポリス的動物である」といい、マルクスが「人間とは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」といっている、彼らは人間存在の根源に他者がいるといっているのだにゃ。ところがlever_buildingとその賛同者の人間観には、その根源において他者が存在していにゃー。他者の話は社会とか法の話だという解釈しかできにゃー。だから胎児だといってるんだよ。


個人の自由意志が根源にあるという発想が実に偏ったものの見方であり、「根源」について他の感覚もありうるということについては別の機会に論証することを約束させていただきますにゃ。サルトルとユングを引っ張り出すことになるでしょうにゃ。世阿弥の話を片づけてからすぐにとりかかりますにゃー。
このエントリにおいては、lever_buildingとその賛同者の胎児の群れが自明だとしている「自由意志」が、実はちっとも自明でにゃーことを論証してみましょうにゃ。

自由意志は存在するのか

lever_buildingは事実として意思は自由だとかいっているのだけれど、事実のことをいいたいのなら自然科学の見解をちょっとひっぱってきましょうかにゃー。
科学と技術の諸相に所蔵されている決定論と自由意志をご参照くださいにゃ。著者の吉田伸夫は物理学畑出身で科学史や科学哲学の著作もあるプロですにゃ。引用するにゃ。


このように(因果法則との関係という)現実的な問題から目を背けながら、なお人間の〈自由〉を認める立場は、もはや鉄閣的な思索ではなく単なる信仰告白であり、宗教的な理念を喪失した現代にあっては、おいそれと受け入れる訳にはいかない。
Abstractより


前章で見たように,現在の科学的知見に基づけば,一般的な用語法での<決定論>と見なされる《因果的決定論》――すなわち,ある時刻での状態が初期条件として与えられれば、それ以降の時間発展は一意的に定まるとする主張―― の妥当性こそ疑わしいものの,未来(および過去)にどのような事態が生起するかは「事実として」決まっているという《事実的決定論》が成り立っている公算が大きい。この見解が正しいとすれば,「人間には(物理的保存則を破らない範囲で)意志の力によって未来を選び取る能力がある」という意味での<自由>は,原理的にあり得ないことになる。
第II章 自由意志の幻想 より


リンク先の記述について、僕にはその妥当性を十分に評価する能力はありませんにゃ。だから単純にこれが正しいのだというつもりはにゃーんだけど、人間には意志の自由があるのだというのは自明でもなんでもにゃーことの一例にはなっているでしょうにゃ(個にゃん的には、人間が意志の自由を感じるのは情報処理のありかたに拠っているという議論は特にオモチロかった。我ながら部分的で粗っぽい紹介をしているのが筆者吉田に申し訳にゃーところですにゃ。この手のことに興味のある方には是非リンク先を読んでいただきたい)。


自由意志の存在というのは、キリスト教神学における重要な問題であったため*2、西洋哲学における一大トピックといえますにゃ。wikipedia:自由意志、wikipedia:決定論あたりを読んでくれれば、自由意志VS決定論も「神々の闘争」のひとつであることはわかるでしょうにゃ。


自由意志などないと主張しているわけではにゃーぞ。
あるかどうかは決着のついた話ではにゃーといっているのだにゃ。
あるかどうかはわかんにゃーっていってんの。
神様がいると考えるのはもちろん信仰にゃんが、神が存在しにゃーという論証が不可能な以上、無神論も実は信仰の一形態であると考えられますにゃ。自由意志があると考えるのも信仰なら、ないと断ずるのも信仰にゃんね。幸福の科学信者にとって、エル・カンターレは根源なのだろうけれど、僕にとっては根源ではにゃー。
意志の自由は事実だって? 根源だって?
はいはい、「意志の自由教」の信者にとっては事実であり根源だろうにゃ。


いっとくけど、僕は宗教を否定はしにゃーよ。いいじゃん、「意志の自由教」。それが信仰であることを自覚するのならば、とても素敵な立場ではにゃーか。証明されざる非合理的な信念に賭けるのはカコイイ! ただし、教団外のものにとっては、それは自明でも事実でも根源でもにゃーことだけは理解しておいてくれよにゃ。
lever_buildingとその賛同者諸君には信仰者の自覚がにゃーんだろ? 他者不在の人間観を有しているうえに、信仰者としての自覚がにゃーものだから、二重の意味で他者がそこにはいにゃーのだよ。

人間は自由である、と見なす

ニンゲンが自由かどうかは、結局は神々の闘争であり、わからにゃーといいましたにゃ。しかし、わからにゃーでは困るという向きがあるのは承知しておりますにゃー。困るのは「意志の自由教」の教団員ばかりではにゃーだろう。
これって、いわゆる「人間の尊厳」にかかわってきちゃいますもんにゃー。
価値の領域においては、事実がどうであろうが「みなす」「そういうことにしておく」という伝家の宝刀がございますにゃ。あるいは、「ニンゲンは根源的に自由だということにしておくことの現実的な利益」というプラグマティックな考え方でもいいですにゃ。

  • 「ニンゲンは根源的に自由な存在である」ということにしておこう

はい、賛成。そういうことにしておきましょうにゃ。
「そういうことにしておく」、は他者の存在を前提としていますにゃ。

最後に

ニンゲンには意志の自由が事実としてある、というのは信仰というか、イデオロギーというか、そういうものであることは述べましたにゃ。
ところが、前々エントリで言及したロールズの画期的な点はなんだったかというと、自由民主主義の理念は単なるイデオロギーといえにゃーことを論証する思考実験「無知のヴェール」を行ったことなのですにゃ。また、ロールズの思考実験から導かれた正義の原理は、進化心理学・進化ゲーム理論とも相性がよいのではにゃーかとやぶにらみしておりますにゃ。

*1:一般に「意思」というと法令用語になってしまうにゃ。哲学とか心理学では「意志」を使うほうがいいのではにゃーだろうか。もともとどちらもwillの訳語らしいし

*2:自由意志の問題はあまりにもキリスト教的なため、自由意志をふりまわすのは西欧中心主義の一変種であるとみなすことも可能。サルトルがレヴィ=ストロースにフルボッコにされた論点のひとつ