認められた時にだけ自由がありえる(追記アリ)

風姿花伝の話は後回し。ごめんね>楽しみにしてくれていたヒト


なぜ僕が公務の執行を妨害する自由は たいせつだよに我慢がならなかったかを考えてみると、そもそもあの論考で言及されていたのは僕の理解する意味合いにおける「自由」の概念とは何もかかわりのにゃー醜悪な奇形的まがいものをもって「自由」を論じているつもりになっているのを見たからでしょうにゃ。自由がdisられているので腹が立ったんだよにゃ。さらにいえば、lever_buildingのカス理屈は地位に由来する責任もdisっている、つまり自由主義を否定しているにゃ。許しがたい。


しかも、ブクマコメを見るに、lever_buildingのエントリが自由のある側面を論じたものであると考えているお歴々までいるではにゃーか(馬鹿には見えにゃーヒトも多いにゃー)。ちょいびっくりにゃんぜ。


例えばid:CrowClaw は


話のフレームがずれている気がする。元記事は多分、法や社会の話などしてない(一見そう見えてしまうが)。

とブクマコメをしていますにゃ。
にゃるほど、「法や社会の話などしてない」のかもしれにゃーと読めるところはありますにゃ。しかし、公共の利益や他者危害禁止原則を認めないという旨の発言をしているのも事実にゃんね。このあたりは法や社会の話としかいいようがにゃーので、まずこのあたりを突っ込んでみたわけですにゃ。で、法や社会に関連した僕の突っ込みに対しては特に異論はにゃーようだ。
しかし、広義の法とか規範とか社会と無関係に自由を論じることってのは僕の能力では不可能でしてにゃー。


実に困っているにゃ。切々といくか。

1)必要悪としての統制

自由主義の観点から統制の必要性についてのおさらいからいってみますかにゃ。
まず僕は統制が大嫌いだにゃ。いろいろあって警官みるだけで反射的にムカっとくるクチですにゃ。だけどにゃー、統制とか権力とかが人民にとって単に害悪でしかにゃーのであれば、そんなもんはもうとっくに廃絶されているだろにゃ。僕らのご先祖はそんなボンクラではにゃーんだよ。
先日のエントリで、法的な統制には相互安全保障の意味合いがあると書きましたにゃ。自由主義の観点からいえば、各個人、特に弱者にとっての自由が実効性を持つものであるためには統制が必要悪ということになりますよにゃ。
ここでのポイントは

  • 弱者も含めた各個人の自由を実質的に担保するために統制が必要となる

という逆説ですにゃ。

2)公僕という存在

日本国憲法が自由民主主義を前提とする以上、統制とは各個人の自由を実質的に担保する必要においてのみ認められるということになりますにゃ。そして、公的なポストに就く者は、各人の自由を担保する目的においてのみ統制的な権限をふるうことを許されることになるわけにゃんね。
つまりここで、統制というものは権力者や公的地位にあるものをこそ拘束するものであるというのが自由主義のロジックということになりますにゃ。自由主義社会における権力者や公的地位に就くものには、各人の自由を担保するため以外の目的でその権限をふるうことは許可されにゃー。彼らに自由などにゃー。まさにそれは「公僕」なんだにゃ。
公職にあるものは、自らの行為が各人の自由を実質的に担保することを目的としているかどうかを考慮する義務があり、その目的にかなう行為なら為す義務があり、その目的に反するのならば為してはならにゃーわけだ。


もしも、死刑を実行することが本当に各人の自由を実質的に担保するために必要不可欠であるのなら、法務大臣に死刑執行を拒否する自由などにゃー。デモ隊に参加した民衆をボコ殴りにしたり車のガラスをぶちわって中にいるヒトを逮捕したりすることが、本当に各人の自由を実質的に担保するために必要不可欠であるのなら、警官にそうした行為を拒否する自由などにゃー。


つまり、死刑執行やデモ隊鎮圧が公職にあるものの義務であるか否か、死刑執行やデモ隊鎮圧が各人の自由を実質的に担保する目的に沿うか否か、ここが問題の焦点となるわけにゃんね。弱者の自由を実効的なものにするためには、職責が重くなるほどに自由はなくなっていくということだにゃ。法務大臣などという重責にあるものに、「自由」など認めてよいはずがにゃーだろう。法務大臣は、各人の自由を実質的に担保するために法行政を行う僕(しもべ)なのだにゃ。
おまわりや法務大臣に自由があったら、困るのは弱者だぜ。

以上

  • 公職にあるものには、その責に応じて自由が制限されなければならない

と論証しましたにゃ。

3)強者の論理

ふたたび自由についてという反論をいただいておりますにゃ。lever_buildingは僕が誤読をしたといっているけれど、反論を読んで誤読などしてにゃーことが確信できたにゃ。
まず、「強者の論理」「他者の不在」という僕からの最重要論点に対して、ほとんど何も反論できてにゃーということを確認したいにゃ。
では、「自由は「みとめる」ものではない」などというウルトラ馬鹿理屈をひねりつぶしてみますにゃ。


胎児や新生児には全能感があると発達心理学においていわれますにゃ。完全に充足しきっていて、全てが満たされる者の全能感。ところが、すぐに乳児は自らが完全に無能力であり、他者によって生かされているということを知るのですにゃ。辛い現実にゃんね。ニンゲンにとって生長とはこの胎児の全能感を脱し、現実原則にしたがって生きられるようになることだとフロイトは説きますにゃ。
lever_buildingを中二といったことは確かに不適切でしたにゃ。彼は胎児〜新生児にゃんね。全能感がベースになっているようですからにゃ。


そんなに自分は自由だというのなら、器具に頼らずに空を飛んでごらん?
できにゃーよな? 物理法則とか生物学的限界とかいう制約があるからにゃ。


人を殺す自由があるだって?
手に入る武器をかき集めたとして、一万人殺す自由と殺さない自由があるのかい?
(ランボーなら一万人くらいいけるかもしれにゃーけど)
例え法や権力の制約がなくとも、抵抗する他者という制約があるからにゃ。


いまバカヅラして寝ているうちの三歳児に、僕を殺す自由と殺さない自由があるのかい?
脳性まひ患者に極真の黒帯を殺す自由と殺さない自由があるのかい?


チミの自由ってのは、弱者のせいぜい数人を殺す自由と殺さない自由のことでしかにゃーんだよ。強者ほど自由があり、弱者には自由がにゃー。強者の「殺さない自由」によって弱者が生かされているということになりますにゃ。
ああ、こんなゲロ臭え「自由」の用法は久しぶりにゃんぜ。
lever_buildingの今回と前回のエントリを誉めたり星をつけた奴をかたっぱしからidコールして問い詰めたいくらいの衝動にかられますにゃ。チミら、ダイジョブ?
せっかく「強者の理屈」「他者の不在」と指摘してあげたのに、胎児の全能感に基づいたゲロ臭え理屈を振り回すなよにゃー。現実に他者が存在するから、無制限の自由などありえない、ということは胎児〜新生児じゃなきゃわかるはずなんだにゃ。


では、何らかの仕事なりボランティアなりを通して他者と互恵的な行動をとろうとした場合はどうなるかにゃ?
僕の肉体的能力と武器購買力では数人殺す「自由」がせいぜいであり、千人単位を殺す「自由」など考えられにゃーが、仕事を通して数千〜数万のニンゲンと互恵的関係を築く「自由」は確実にありますにゃ。これはもちろん、互恵的関係が広く認められるからだにゃ。


なあ、lever_building。
チミより戦闘力の高い相手に対して、チミに殺す自由も殺さない自由もありはしにゃーのはわかるよにゃ?
強者を相手にした場合、相手が承認してくれた場合のみ、チミに何らかの行動の自由があるのはわかるにゃ?
チミのいう自由ってな、強者のみの自由、あるいは強者が認めた時のみ弱者に与えられる自由なんだにゃ。


これで、他者の承認によって自由は大きくなることが確認できましたにゃ。そして、ホッブズ的な自然状態においては、強者ほど自由が大きくなるということも、また確認できましたにゃ。
したがって、弱者に自由を保障するためには、最強の戦闘力をもった存在あるいは万人の承認を得た存在(両者は矛盾しないけど)が、自由の範囲を確認し保障することが有効な答えの少なくともひとつとなるわけですにゃ。


以上、

  • 「自由は「みとめる」ものではない」が胎児〜新生児の理屈であること
  • 自由とは他者の承認によって大きくなったり小さくなったりするということ
  • 弱者に自由を保障するためには、自由の範囲を確認して共有する必要があること

これらの論証ができましたにゃ。

4)強者へのお願い

僕の提示したロジックは強者に義務を課すものであることは先ほど述べた通りですにゃ。
しかし
lever_buildingのロジックって、結局のところ法務大臣とか警官に対する「お願い」以上のものではにゃーよな。「する自由もしない自由もあるから、良心にしたがってください」でしかにゃーもの。ニンゲンを信頼するってのはスバラシイことにゃんが、権力者を信頼するのはアホ丸出しにゃんぜ。奴隷の理屈だにゃ。
これでアナキズムやキョクサをきどるっては、ヘソでマグマが沸騰しちゃうよにゃー。


そのうえ、この「お願いロジック」って人治を志向することになるよにゃ。
クチを開けば弱者弱者と申し訳にゃーが、人治がどれだけ弱者にキツイかわかっているかにゃ? 人治ってのは、声のデケエ奴が得する統治だにゃ。
権力側に情報を開示させ、監視し、自由民主主義の主旨にのっとってその義務を遂行するよう公僕に求めるのがとりあえずの有効解ではにゃーだろうか。

5)おわりに

もっと引っ張り出したい論点はいろいろありますにゃ。

しかしこのあたりの話はひとつひとつがでかすぎるのでとりあえずはパスだにゃ。


「他者が私を殺さない自由を選択している」のはね、基本的に相互承認によるものだにゃ。権力による抑圧を介在させずに、いかに対等で自由な相互承認システムをつくることができるかがアナキズムの眼目となるだろうにゃ。
早いところ胎児〜新生児の段階から脱しなさい>lever_buildingと賛同者諸君



ああ、切々と罵倒しちまった・・・

追記 7/10 14:37

Kazu'Sの戯言Blog(新館) それは奴隷の自由であって人間の求める自由とは異なるものというトラバをいただきましたにゃ。


空飛んでみろとか、子供に人を殺させてみろとか、そういうことじゃない。空を飛ぼうと思惟しそのために行動すること。子供でも大人を殺そうと考えたり行動したりすること。それが自由なんです。


脳内妄想の自由と自滅の自由があるということにゃんね。わかります。
というか、「思想・良心の自由」というのは自由権のコア中のコア、現実的にいかなる権力も規制のできにゃー自由ですにゃ。そんなことは前提として承知してるにゃ。脳内妄想の自由ですか、はい、ありますね、アタリマエですね、というしかにゃー。
だがな、脳内妄想の自由は自由の本質などではにゃーぞ。


それとさ、「行動をおこす」自由というのは、元エントリでいう「殺す自由と殺さない自由」とはまるで異なるものにゃんぜ。


また、思想・良心の自由は公務においては制限されなければならにゃーことは僕のエントリで述べたとおり。裁判官が判決をするにあたって従わなければならにゃー自由とは、個人の信条ではなく、憲法の趣旨にのっとることを意味しているわけだにゃ。


僕の言っているのは実効性をもった自由、現実的な自由のことだにゃ。
脳内妄想の自由万歳のお花畑胎児の発言は、現実的な自由に対して何ら実効性をもたにゃーのだと批判しているのよ。
脳内妄想の自由とちがって、現実の自由は他者との関係性の中にしか存在しえにゃーんだ。だから脳内妄想の自由など本質にはなりえにゃー。


id:REVのブクマコメントに


能力は内在し、自由は社会が設定するニャ。権利もニャ。公務を妨害する能力を有するし、公権力はそれを阻止しようとするし、でも、社会がその行動について「自由」であり「権利」であると認めるかは別ニャ。

とありますにゃ。


lever_buildingは過去記事において能力の内在を否定的に捉え、関係性を称揚していますにゃ。それはとりあえずいいでしょうにゃ。
ところが彼は今回、自由の内在性を語りたかったのだけれど、語ったのは能力の内在性でしかなかったのですにゃ。彼の元エントリでは、「自由」を「能力」と変換したほうがすっきり意味の通る記述が多くあるんだにゃー。
語っているのが能力だから、他者が存在しにゃーし、強者の論理にしかならにゃーわけだ。lever_buildingは自由について語ってなどなかったのですにゃ。


ニンゲンは自由なのではなく、自由になる生き物なのだにゃ。
すべての価値あるものは、与えられたものではにゃーのだ。