テロリズムへの長期的対策として

tido2005-07-09

イギリスがチェチェン独立派幹部の亡命などを受け入れてきたことを皮肉って、ロンドンのテロに際してプーチン大統領が言った「世界の結束がテロに対してあまりにも少なかったことを示した」というコメントは「われわれはテロに屈しない」みたいな「台詞」よりよっぽど示唆に富む。アメリカでの同時多発テロ以降、世界の趨勢の流れはそのトラウマを克服するどころか、強大な抑圧を推し進め、根本的な原因の隠蔽というか過剰な防衛反応(つまりは、積極的な攻撃だ)に走っていった。
テロリズムは情念の連鎖によって起こるものだと、ロシアのナロードニキたちは昔から身をもって体現したし、新右翼だった鈴木邦男も著作で述べていた。情念は虐げられれば虐げられるほど加速していくのは、70年代の日本映画を観るまでもなく明らかだろう。
アメリカは直接のテロリズムを受けたのだし、宗教的な対立もある。また、世界一の大国としての自負もあるのかもしれない。けれど、日本はどうだろう。漠然と加担しているに過ぎないのではないか。政府がアメリカの腰巾着となってはいるが、世界の弱者を抑圧することに加担したくない人もかなり多いはずだ。しかし、そういった意志は反映されない。国内の経済活動や北朝鮮の問題が目の前を遮っているからだ。根本的な問題を隠蔽している。ニートの増加はこの不信感を曖昧に示しているんじゃないか?
不安の扇動とセットになって一時的な自己啓発が溢れかえっている社会に一歩足を踏み入れると、このサイクルに呑み込まれ、目先のことしか見えない「近視眼」にされてしまう。長期的なこと(世界の結束)をちゃんと考えようとすることはできず、そういった純粋な感情の部分は「純愛モノ」と共に消費され、感情もまたこのサイクルに組み込まれてしまうのである。
冒頭に挙げたプーチンの言葉はさすがと思わせる。ロシアは昔から東西のキリスト教の対立を内包し、思想上の二元論的な克服を目指してテロリズム、そして革命が繰り返された場所である。思想上では、直接的テロリズムとして発露されなくとも、その醸成につながる萌芽はあらゆるところに確認できる。トルストイ主義の過激さもある意味危険だろうし、ロシア思想的な根深い対立を精神的に調停しようとしたドストエフスキーは私生活の上でそれを実践できるはずもなく、ツルゲーネフなどを人格的に激しく攻撃しているし、小説の上で、その問題を克服しようとするには、発狂・自殺・殺人など多大なストレスを伴わなければならなかった。
夢見る革命家たちなどもっての他。純化された思想が暴走し始めると、それ自体、正統性を与えられたテロリズムとなる。
最もロシアで偉大な在野の思想家フョードロフはこういった問題に自覚的だった。彼はキリストそのもののような生活をしていた。図書館の司書としてあらゆる人の相談に乗り、貰った給料はすべて貧しい人に振舞い、ろくな寝床ももたず固い台の上で短い睡眠をとるだけで、独自の研究を進め、多くの人の尊敬を集めたフョードロフ。彼の弟子はその思想を出版することなどを薦めるが、自分の名前が世に出ることを望まず、親交のあったドストエフスキーやソロヴィヨフなどによって間接的に世に訴えてもらい、友愛的思想を実現させようとした彼は、次のような趣旨のことを書き残していた。もともとトルストイとも親交のあったフョードロフはよく議論を交わしていたのだが、自分勝手に誤った理解してしまうトルストイを議論で打ち負かそうとしてしまう自分の心の傲慢さに気づいて、議論の後にはいつも屍が残る、というようなことを書いていた。
フョードロフはあらゆる観念というものが目の前の個人より優先されてしまうことを当たり前のように問題視していた。だからこそ、文字通りの意味であらゆる死者を復活させようとすることを目論んだ*1。あらゆる人をないがしろにしてはいけない。フョードロフはキリスト教思想を自分なりに読み替えたのだった。
現代のテロリズムの根底にも「ないがしろにされた人たちの情念」が宿っている。たとえばアメリカやイギリスが「結束」と言う時、むしろはじかれている者の方が意識されてしまう。そこからはじかれたくないためか、日本は尻尾を振ってついていく。

 スコットランドのグレンイーグルズで開かれていた主要国首脳会議を狙ったことは確かだが、その議題の一つが「なぜ、アフリカ救済なのか」とアラブ諸国は思っていたに違いない。アラブ社会は軍事力で「民主化」しようとし、アフリカ諸国はお金で「救済」しようとする「先進国」の論理に対して根深い不審が見え隠れする。アフガニスタン、イラクではたくさんの人々が今も死に続け、それは遺族だけでなく、アラブ全体の人々に強い憎しみを増幅させている。(朝日ニュースターメルマガ「森啓次郎のニュースターとエッセイ vol.163」より)

根本的なテロ対策は一部の先進国の結束ではなく「世界の結束」によってもたらされるだろう。ニートや北朝鮮の問題さえはじいている日本政府や社会やメディアには、有効な対応のひとつもできないに違いない。弱さゆえに偏向した結束を志向するよりも、まずは個人が積極的に孤立することの方が大切ではないだろうか。

*1:カルト思想のようだが、科学的な見識などをふまえてかなり現実的なものとして当時は主張されていたようだ。信奉者もたくさんいた。革命期にもこのような思想をもった人たちがいた。