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気になる事件と考えごと

【タマム・シュッド事件】サマートン・マンと呼ばれた男

「タマム・シュッド」の切り抜き、謎の暗号などによってオーストラリア最大のミステリーとして世界的に知られた事件。非公式ながら2022年には身元不明とされていた「サマートン・マン」の実像が明らかとなった。

 

浜辺にて

1948年12月1日午前6時半、南オーストラリア州アデレード郊外グレネルグにあるサマートン・パークの海岸で身元不明の中年男性の死体が見つかった。

第一発見者は見習いの競馬騎手2人で、早朝トレーニングのためにひと気のない浜辺で馬を走らせている最中だった。浜辺と通りの間には長い距離にわたって防波堤が築かれていたが、男はその傍らで座ったまま寝てしまったかのように倒れていた。

防波堤のすぐ上には障害者保護施設が建っていたが、その男性を知る者はなく、すぐに警察に通報した。

 

男性は、身長180センチ、年の頃は40歳から45歳くらいと見え、瞳はグレー、髪色は赤みがかった鼠色で、こめかみ辺りにはやや白髪が混じっていた。

ヘビースモーカーらしく、耳の後ろにタバコを1本挟んでおり、コートの右の襟元にも吸いかけのタバコが落ちていた。地面に腰を下ろし、頭を防波堤に預け、伸ばした足を組んだ格好で、タバコを咥えながら眠りに落ち、そのまま意識を失ってしまったかのように横向きに倒れていた。

警察の到着時にはすでに死後硬直が始まっていた。遺体に目立った外傷はなく、周囲の砂の状況などを見てもだれかと争ったりしたような痕跡はない。身分証などを一切身につけておらず、身元不明の死亡者として扱われた。警察は自殺ではないかと考え、遺体を法医学機関に引き渡し、身元の割り出しが急がれた。

周辺地域で男性を知る人物は現れなかったが、発見前日の11月30日に同じ場所で腰掛けていた男性の姿が目撃されていた。午後7時ごろに浜辺を訪れたカップルは、男が右腕を上にぴんと伸ばして下ろす動作を見掛けたと言い、その時点では存命とみられた。

また夜の散歩を日課としていたジョン・ライオンズ氏とその妻は、昨夜7時半から8時頃に目にしたとき、男性がほとんど微動だにもせず同じ姿勢だったと話した。蚊などを追い払う素振りも全くない男性の様子に気づいて夫婦は不思議に思い、冗談めかして「死んでいるんじゃないか」などとも口にしていたが、酔っ払いか寝ているかだろうと思い、それ以上の詮索はしなかったという。

×が遺体の位置、右手が養護施設。[オーストラリア警察]

男性は、白いシャツに、赤青白のストライプ柄ネクタイ、茶色のニットのプルオーバー、グレーと茶色の仕立てのダブルブレストジャケットを身にまとい、茶色いズボン、靴下と靴を履いていた。

ストライプ柄は英国風と逆斜めの「アメリカ風」で、ジャケットには「羽根縫い」が用いられていたがオーストラリアには当時まだ羽根縫いできる機械が輸入されていなかったことから、これもアメリカ製ではないかと思われた。

ジャケットはしつらえが良く、ひげもきれいに剃られて紳士風のいでたちだったが、帽子が見当たらないのは当時としては珍しく思われた。靴も手入れが行き届き、長い距離をさまよい歩いてこの場所にたどり着いた行き倒れとは考えにくかった。衣服のタグはすべて外されており、流通経路ははっきりしなかった。

名前や身元を示す所持品はなかったが、ポケットの中から次のような遺留品が確認された。当初、警察では着衣や所持品から「彼はアメリカ兵ではないか」と推測された。

・アデレードから8キロ離れたヘンリービーチまでの2等鉄道切符(未使用)

・市内バスの切符(使用済)

・米国産のアルミ製櫛

・半分ほど空になった「ジューシーフルーツ」(アメリカ製チューインガム)の残り

・「アーミークラブ」(イギリスのタバコブランド)のケースには「ケンシタス」という別銘柄のタバコが7本

・「ブライアント&メイ」(イギリスのマッチ製造企業)の残り4分の1程度のマッチ

 

病理学者ジョン・バートン・クレランド助教授の調査では、身体的特徴は「イギリス人風」と推認され、引き締まった体つきで、元の健康状態には全く問題がなかったとされる。指にヘビースモーカー特有の黄色いしみが見られたが、手が節くれだっていたり爪が欠けたり汚れていたりといった肉体労働者らしき特徴はなかった。

また足の親指と小指が内向きで隣の指と重なっており(トゥ・シューズやハイヒール、先のとがったブーツを履く人物の特徴とされる)、バレエダンサーのようにふくらはぎ上部が発達して筋肉が隆起している点が指摘された。

検視の結果、死亡推定時刻は12月1日午前2時ごろと推認された。最後の食事は3、4時間前に食べたパスティ(牛肉、じゃがいも、玉ねぎ等が入ったミートパイ。イギリス・コーンウォール地方の郷土料理)だった。

心筋梗塞などの兆候はなく、心肺機能に異常は見られなかった。脳や咽頭、胃や内臓には広範囲でうっ血が見られた。脾臓は通常の3倍もの大きさだったが、生まれつきのものか否かは判別つきかねた。

病理学者ドワイヤー博士は疾病や心臓ショックなどによる自然死ではなく、毒物による中毒死と見込んで、薬物検査を行ったが睡眠薬は検出されず、一般的な毒物検査でも陰性だった。

組織と血液のサンプルを検査した化学者ロバート・コーワン博士も「一般的な毒物反応はなく、毒物が死因だとすれば、非常に珍しい薬剤であろうと思われる。自殺や殺人の用途ではめったに使われないようなものではないか」と見解を述べた。

半年後に行われた死因審問(事件性の有無に関する裁判)においても、検視官は「依然として死者の身元は不明であり、死因は自然死ではない」とされ、毒物の特定はできていないもののグルコシドなどの摂取が疑われ、「事故死ではないことはほぼ確実である」と述べられ、自殺か他殺かに関しては判別がつきかねた。

浜辺での最終目撃からおよそ7時間前後で死亡したことになるが、遺体の周辺に嘔吐物や排泄物がなかったことから、非常に早期のうちに体外へ排出される毒物と仮定しての調査が続けられていた。

生理学・薬理学を専門とするセドリック・ヒックス教授は、当時、薬局でも手続きなしに入手可能だったジギリタス、ウアバインといった毒物を疑ったが、あまりに「きれいな遺体」に矛盾があり断定は避けられた。とにかく既存の毒物と一致する所見が確認できなかったのだ。

 

豪・英・米国の警察に彼と一致する指紋データはなかった。男性は16本の歯を失っており、歯型から歯科記録との照合も試みられたが該当する治療記録は見つからなかった。

オーストラリア警察では身元を特定するために遺体の写真を公開して広く情報を募ったが、彼を知る人物はなかなか現れなかった。12月10日には異例の措置として防腐処理が施され、頭部の石膏像を製作し、遺体は14日に埋葬された。

無縁墓地に葬られるのは忍びないとした地元有志らは名もなき男のために金を出し合い、墓石を設けて弔った。

[ photo by John Winterbotham ]

やがて「行方不明になっている知り合いの樵(きこり)かもしれない」「数年前に酒場で知り合った男じゃないかと思う」「刑期短縮を認めてくれるのなら彼のことを教えてやってもいい」といった「知人たち」が現れた。

最終的にはその数、延べ250件以上にもなったが、いずれも他人の空似や生存、明確な不一致が確認され、遺体の身元は70年以上に渡って特定できなかった。

通例であれば、大多数の人間は行き倒れの身元不明者に対してそれほど長い間執着を抱かない。しかし謎の中毒死、それも壮年期で整った身なりの男性ながら誰もその素性を知らないという不可思議さは年月を追うごとに大きな関心を集めるようになり、英米豪をはじめ世界中のメディアで取り上げられた。

理由や死因はよく分からないが彼は自分の履歴を完全に消し去り、その身なりとは対照的な、人生の困難を抱えて自死を迎えたのではないかと多くの人が想像した。

一方、夏場のサマートン・ビーチは観光客が行き交い、夜でも地元民らが通う開かれた場所で、先の現場写真の通り、遺体は遊歩道からビーチへ降りるスロープの脇で見つかっていた。目撃者のひとりオリーブ・ニールは「覚悟を決めた人間が死に場所として選ぶにはあまりに人通りが多すぎる」「ひっそりと死を迎うことを願う人間にはふさわしくない場所ではないか」と自殺説に疑問を投じた。

その見解に共感した人々は、やがてその素性を隠したのは彼自身ではなかったのではないか、と他殺説の検討を始める。

人々は彼を「Somerton man」と呼び、自殺か他殺かを議論し、その素性について兵士、難民、そして東西冷戦が表面化した時代を反映して「共産圏のスパイ」といった仮説が立てられた。「彼の知られざる人生」に想像力を刺激された作家や映画監督らは、作品世界に謎多き男の仮の姿を投影しさえした。

 

深まる謎

1949年の1月14日、アデレード・メトロの駅員が11月30日から預けられたままになっていた茶色いスーツケースを確認し、荷札がなく所有者が分からなかったため、警察に届けた。

旅行者のものらしく時期的にも符合したことから、警察ではサマートンの身元不明男性の遺体との関連が調べられた。スーツケースの内容物は概ね以下の通りで、衣類はきれいな状態できちんと保管されていた。

・赤色のチェック柄のガウン(7号)

・赤のフェルト地のスリッパ

・下着のパンツ4枚

・ハンカチ

・寝巻

・洗濯袋

・ひげ剃り用具

・裾に砂の入った薄茶色のズボン

・電気技師用のスクリュードライバー

・鋭利な小型テーブルナイフ

・先端を尖らせてあるハサミ

・製図などに使用する刷毛

・糸巻として使われた台紙

糸巻台紙の出元を追跡していくと、オーストラリア国内で流通していない特殊なものと分かり、イギリス「バブアー社」製のワックスコーティングされたオレンジ色の特殊な糸が巻かれていたものと判明する。これがサマートン・マンのズボンの補修に使われていた糸と合致し、スーツケースは彼の荷物であることが確実視された。

スーツケースに入っていたネクタイには「T. Keane」、洗濯袋に「Keane」、ベストには「e」が抜けた「Kean」の記名があった。当然、該当する名前の人物の安否やその家族が調査され、行方不明となっているT. Keane氏も存在したもののサマートン・マンとは明確に不一致だった。

衣類の何点かにクリーニング店のものとみられる数字の記載された管理用タグが付いており全国で情報提供を呼び掛けたが、店の特定さえできなかった。

すでにスーツケースの所有者はほぼサマートン・マンと断定されたが、その後も該当する行方不明者情報がないことから、「T. Keane」の記名は故意に残されていた、仮の名前なのではないかという疑いも浮上した。

男は本当の名前や過去をしっかりと消し去り、身元に結びつかない、かりそめの名前だけをそのまま残していったのではないかと推測された。

半年後に製作されたサマートン・マンのデスマスク

 

その名を偽名だと捉えれば、彼がいくつもの名前を使い分けた諜報部員や特殊任務の軍人だとする推理もあながち突飛な発想とは思えなかった。任務を失敗した軍人が不名誉を苦に、あるいは敵の捕虜になることを避けるために自死することは当然考えられる。

また未知の毒薬という死亡原因は、同時代の日本で起きた「帝銀事件」を彷彿とさせる。特殊機関によって極秘裏に生み出された毒薬の存在を予感させ、敵陣営に「自殺を装って」謀殺された可能性をも感じさせた。

 

第二次世界大戦後の混乱期が依然として続いており、ドイツやイタリアなどには東側諸国から連行されて帰れなくなった難民たちがキャンプをつくっていた。1948年はオーストラリアが難民の受け入れを開始した時期でもあった。

英語を解さない難民たちが押し寄せ、急ごしらえで増員された難民機構の職員や移民選考チームには外国語が堪能でない者も含まれた。大量の手続きが急ピッチで処理されるなか、難民たちは英国人風の発音やスペルに差し替えられて本来とは別の名前で登録される事例も少なくなかったという。

またサマートン・マン捜査の範囲は、オーストラリア、イギリス、アメリカと広範囲にわたったが、概ね英語圏にかぎられ、東側諸国での調査は不可能だった。

イギリス人渡航者だったにしても、物資の乏しい時期に人から古着を譲り受けた可能性はあるだろう。戦勝国であっても元兵士ら個々人の戦争体験によっては精神に深いダメージを受け、社会復帰に困難をもたらすなど暗い影を落とした。中には事業の失敗や犯罪歴などから「過去の名前」や出自を捨てて別天地で新たな人生を始めようとする者もいたはずだ。故郷を離れ、大量の荷物を背負いヤミ市の商人として各地を渡り歩く人々が大勢いた時代でもあった。

警察に寄せられた「彼を知っているかもしれない」という情報提供のうち100件近くはそうした「彷徨える人々」を探す家族らによる問い合わせだったという。サマートン・マンに「戦地から戻らない恋人・夫・息子」の面影を見る女性たちの声もあった。当局は軍の記録局や運転免許局、労働組合、下宿や無線局、彼女たちの心当たりの各方面にも調査・確認を行って、逐一返事を出した。

はたしてサマートン・マンではなかった彼らは一体どこへ消えてしまったのか。ある者は捕虜とされ、ある者は戦地で落命し、ある者は地元に戻らず新たな人生を踏み出す選択をしたのだろうか。

新たな家族や恋人と別天地で生活する者もあれば、あるいは怪我や後遺症により図らずも過去を失った人たちもあったであろう。今日の日本人には実感が湧きづらいが、サマートン・マンの物語は戦時下を生きた人々の人生と深くリンクするものがあった。

 

タマム・シュッド

彼を一層謎めいた存在にしたのは、半年後に発見された小さな紙片だった。

死因審問が続いていた時期、法医学者が遺体が履いていたズボンの寸法を確認しようとしたところ、裏ポケットの中に丁寧に折り畳まれた紙片を見つける。紙は四方を手で千切ったもののようで、片面に「タマム・シュッド」とだけ印字されていた。

ペルシア語の「終わり」「終わった」という意味で、調べを進めると11-12世紀イスラム圏を代表する哲学者オマル・ハイヤームによる四行詩作品集『ルバイヤート』の一節と判明する。

本を切り抜いたものとすれば、出版社やその版の時期によってフォントが異なる。物によっては裏面にも印字されている版も出ていた。警察が一般公開して「お手持ちの『ルバイヤート』のご確認を」と版の特定に協力してくれるように呼び掛けると、地元のビジネスマンである匿名男性から一冊の本がもたらされた。

1941年にニュージーランドの出版社が発行したイギリス詩人エドワード・フィッツジェラルドによる英訳本『The Rubaiyat』で、最後のページの一部が手で切り抜かれていた。驚くことに提出された本はサマートン・マンが破いた現物だった。

その匿名男性は、遺体発見と同時期にグレネルグの通りに無施錠で車を止めていた折、何者かによって後部座席に置かれていたものだと主張した。顕微鏡による断面検査で、たしかに「タマム・シュッド」の紙片はその本から破り取られたものと証明された。

「タマム・シュッド」は本の最終項に記されていた(オリジナルは紛失された)

男性が提出した『ルバイヤート』の裏表紙には、手書きで大文字アルファベットが5行、計50文字が書き添えられていた。打消し線や誤字に見えるものもあるが、英語や外国語でもなく、何らかの暗号が意図されたものとみられた。

サマートン・マンの年代から逆算すれば従軍経験があったと推測され、軍事暗号も調査されたものの既存の記法に一致するものはなかった。捜査機関は元より、アマチュアの暗号マニアたちも解読に励んだが、文字パターンが少なすぎることで法則性が解析しきれず、その意味するところは明らかにならなかった。

Australian police. File originally uploaded on English Wikipedia in January 11, 2009 by Bletchley - Police scan of the handwritten code., パブリック・ドメイン, リンクによる

1859年に『ルバイヤート』を翻訳して英語圏に広めたフィッツジェラルドの解釈によれば、オマル・ハイヤームの基本哲学は唯物主義に近く、イスラム圏で隆盛を誇っていたスーフィー教徒(イスラム教神秘主義)らに批判的な「宗教的懐疑主義」と特徴づけられるという。

ハイヤームは「第二のアリストテレス」とも呼ばれる大知識人イブン・スィーナーの正統な後継者とも目されていたが、スーフィー派勢力の増長、彼らとの対立に伴って排斥され、不遇をかこった。周囲からの宗教的偏見を避けるため、詩には自身の名を冠さなかったため、死後に編纂された『ルバイヤート』には本人による真作と子弟らによる贋作が混在すると考えられている。

13世紀の学者の言及により、ハイヤームの自作とほぼ特定されている2首には「誰も本当のことは語らぬ どこから来て どこに去るかを」「何人も創造主の意図は分からぬ」といったその懐疑的性格が如実に表れている。信仰への注意深い思惟、人間存在の儚さ、(人生への)宗教的絶望といった『ルバイヤート』の詩に通底する世界観は、サマートン・マンの自殺説をより補強することにもなった。

 

事実、過去にも『ルバイヤート』を手に自殺に至った事例もあった。

1945年6月3日にはシドニーのアシュトン・パークでジョセフ・ソール・ハイム・マーシャル(ジョージ・マーシャル)の腐乱死体が見つかった際、左手にはバルビイツール酸の粉末、胸に『ルバイヤート』が発見されていた。

マーシャルは「ああ、我々が費やすであろうものを最大限に活用しよう、我々もまた塵の中に落ちてしまう前に。塵は塵の中に、そして塵の下に横たわる、酒もなく、歌もなく、歌手もなく、そして終わりもなく。」という詩に印を付けていたという。

彼の兄弟は後にシンガポールの首相ともなった優秀な人物だったが、ジョージ・マーシャル本人は7歳で頭部外傷が元で精神病院への入院を余儀なくされており、過去にも二度の未遂があったため、自殺と判断された。

サマートン・マン研究家の一部は、ジョージ・マーシャルもまた謀殺されたひとりだと主張したが、彼の『ルバイヤート』はロンドンを拠点とするメシューエン社の第7版で、両人の死に共通項は決して多くはない。

はたしてサマートン・マンには彼の来歴を語る家族さえ現れない。そこまで周到に自分の過去を丸ごと消しきれるものなのだろうか。

 

匿名男性の車から見つかった『ルバイヤート』には暗号のほかにも数字が記されており、電話帳から一致する電話番号が見つかっていた。

サマートン・マンの発見現場から400メートルほどの、モーズリー通りに暮らす元看護士女性ジェシカ・ジョー・トムソン(当時27歳)の家の番号だった。

彼女はサマートン・マンとは面識がないと証言し、警察の調べに非協力的な態度を取ったとされる。しかしトムソンをサマートン・マンの胸像の前に連れて行くと、卒倒しかねないほど激しい動揺を示し、二度と直視しようとはしなかった。

彼女は好奇や嫌がらせをおそれており、メディアでは「ジェスティン」という仮名でその証言がいくつか紹介されたのみだった。彼女もまた『ルバイヤート』を精読していること、戦中にシドニーで在勤の折にある陸軍中尉に『ルバイヤート』を贈っていたこと、事件当時、近隣で彼女について尋ね歩く男性がいたらしいことが報じられた。

「ジェスティン」は決定的な重要証人とも思われたが、49年7月27日に地元紙が当の陸軍中尉が存命であることを報じ、「陸軍中尉説」は早々に打ち消された。陸軍中尉は取材に対して、サマートン・マンとは面識がないこと、女性から贈られたルバイヤートは現在も所持しており暗号や切り抜きのあった版とは異なることなどを話した。

元看護士「ジェスティン」はそれ以上の取り調べを拒絶し、メディアの目を避けるようにほどなく転居した。突破口かに思われた『ルバイヤート』も身元の解明にはつながらず、却って大きな謎だけを残したのである。

 

その後、数十年に渡って数多の仮説が繰り広げられ世界中の人々の想像力を刺激したが、いずれも決定的な裏付けに欠け、謎の男はオーストラリアの歴史の一ページとして語られる存在になっていった。

 

挑戦者たち

半世紀のときを越え、アデレード大学で物理学・電子工学などを研究するデレク・アボット教授は偶々目にした雑誌でこの事件に出会い、サマートン・マンの人生に強い興味と深い悲しみを覚えた。

中でも彼は元看護士「ジェスティン」の話に引っかかりを感じ、ネット上の事件マニアらの助力を得ながら、かつてサマートンの現場近くで暮らしていたというジェシカ・ジョー・トムソンの存在にたどり着いた。

警察の調べに対して彼女は「既婚者」と話していた。少なくとも1950年代には夫や子どもとの生活が確認できたが、事件当時の夫婦関係がどうにも不確かだった。陸軍中尉の方を調べると、戦中には(別の女性と)既婚者だったことが分かり、二人は不倫関係だった疑いが浮上する。

アボット教授は、おそらく事件当時のジョー・トムソンはまだ結婚を控えていた段階で、陸軍中尉ら過去の異性関係を詮索されたくない状況にあったのではないかとの見方を強め、サマートン・マンも彼女の元交際相手のひとりだったのではないかという仮説に行きついた。

しかし教授がその考えに至る2年前の、2007年にジョー・トムソンは亡くなっていた。

 

元アデレード殺人課刑事で在野のサマートン・マン研究家となったジェリー・フェルタス氏の調査では、事件が大々的に報道されるたびにトムソンは勤めを休んだり、転居していたとされる。

彼もアボット教授からその仮説に至るまでの一部始終、ネット探偵たちとのやりとり、暗号解読のために学生たちをサンプルとして行った行動科学的実験の話やDNA解析のための試料がほしいといった願望を聞かされた。

これまで不屈の精神で数多の難事件に立ち向かってきた昔気質の刑事は、人々の記憶が薄れての「風化」の壁によってコールドケースが生じてしまうことに幾度も苦汁を味わってきた。また事件の当事者や遺族らの心情というものを肌感覚として熟知しており、アボット教授が提案する「墓の掘り起こし」などは死者や家族に対する冒とくにも感じられた。

フェルタス氏からすればアボット教授は刑事事件に関して門外漢であったし、その知的パズルに挑むような態度にも嫌悪感を禁じえなかった。だが両者の事件に対するアプローチのギャップはその職業的世界観のちがいに帰結するといえるだろう。

刑事たちは現場に何度も足を運び、人々に嫌な顔をされながらも聞き込みをくりかえし、砂浜に埋もれた落とし物を執念深く探すような捜査を義とする。一方、科学者たちは技術的進歩や新たな仮説に基づく再検証によって、これまで見えなかった部分に光を当て、新たな事実が可視化される展望を抱いていた。

2009年3月、アボット教授ら専門家たちは科学技術とその叡智によって、豪州最大の謎「サマートン・マン」解明のための研究プロジェクトを立ち上げ、詳しいDNA型検査のために遺体の掘り起こしを提言して大きな注目を集めた。

だが当時の司法長官は、人々の好奇心や科学的関心に基づく掘り起こしを認めることはできないとしてこの要請を却下した。

 

研究チームの専門家たちはオーストラリア有数の知能であるとともに、奇人とも言える執着心の持ち主ばかりだった。

解剖学を専門とするマチェイ・ヘネバーグ教授は、1940年代のサマートン・マンの検視報告書の原本が紛失していると分かると、残されていた「石膏像」をもとに男性の特徴を再分析し、耳の上のくぼみ(耳介)が下部のくぼみ(耳窩)よりも大きいことを指摘した。

これは白人の1~2%にみられる珍しい特徴だった。また歯科の専門家に鑑定を依頼して、糸切り歯に遺伝性の発育特性があることを突きとめた。これも一般にみられる割合は2%で稀な特徴と言えた。

アボット教授はジョー・トムソンに執着していたが、2010年6月、彼女の長男ロビンの写真を入手し、サマートン・マンの特徴と比較してみたところ、耳元や糸切り歯の特徴がはっきりと一致した。

理論上、遺伝的つながりのない二人が両方の特徴をもつ確率は1千万から2千万分の1と推計されている。逆説的に見れば、ロビンはサマートン・マンと生物学的なつながりがあることが現実味を帯びてきた。

つまりロビンはジョー・トムソンとサマートン・マンとの間にできた子どもであり、彼女はフィアンセにその「不義の妊娠」を悟られまいとしていたのではないかと考えられた。

ジョー・トムソンと長男ロビン

 

ジョー・トムソンは1921年にシドニーで生まれジェシカ・ハークネスと名付けられた(本稿ではジョー・トムソン表記で統一する)。幼少期や彼女の両親についてはあまり語ることがなかったのか詳細を知る者はない。

自動車セールスをしていたプロスパー・トムソンと交際し、1947年に長男ロビンを出産した。だがプロスパーは前の妻と離婚したばかりで、当時のオーストラリアでは法的「冷却期間」が過ぎるまで再婚は認められていなかった。翌48年になって法的に結婚し、彼女は二児を育てながら看護師として働いた。

車好きの夫と文学や芸術の愛好家だったジョーがどのように惹かれあっていたのかは分からないが、95年にプロスパーが亡くなるまで夫婦関係は続いていた。

アボット教授は、ジョー・トムスンや家族のバックグラウンドを調査する中で、長男ロビンは幼い頃からダンスレッスンに通っており、最終的にオーストラリアバレエ団の一員になっていたことを突きとめた。

当然サマートン・マンに見られたふくらはぎの筋肉の発達、爪先の特徴との関連が脳裏をよぎった。しかし当のロビン・トムソンも2009年に他界しており、彼の妹ケイトに接見と協力を仰いだが受け容れられなかった。

 

諦めきれないアボット教授は、故ロビン・トムソンの元妻で同じくバレエダンサーをしていたローマ・イーガンに手紙を書き、「サマートン・マンに心当たりはないか」と打診した。

彼女は「サマートン・マンは元夫ロビンに似ている」と返信し、元義母にあたるジョー・トムソンについて、謎めいたところのある人物で薬理学にも傾倒していたと明かした。

アボット教授は、彼女の娘(ジョー・トムソンの孫)レイチェル・イーガンとブリスベンのレストランで会食しながら話し合うことになった。これまでの生い立ちや家族のこと、自身のパーソナリティ、サマートン・マンに関する考えなどを語り合った。

一般の人々にとってサマートン・マンは一種の物語やミステリーに過ぎなかったが、レイチェル・イーガンは「ひょっとすると自分の祖父なのではないか」という強い当事者意識を帯びていた。

たとえそうでなかったとしても、彼の子や孫、親類たちが自分の家族を探しているかもしれない、と彼女は語った。そして彼を「サマートン・マン」のままにしておくのは無慈悲なことで、どんな人生を送ってきたにせよ本来の名前で葬られるべきだ、という考えで二人は合意した。

二度目の面会が行われたとき、アボット教授はレイチェルにプロポーズし、4か月後に結婚した。夫婦はサマートン・マンによって運命的に引き寄せられたが、人々は「DNAを得るために口説いた」と茶化した。もちろん二人ともお互いの愛情を理解しており、それから5年の間に3人の子を授かっている。

 

サマートン・マンの法医学的VR復顔図 [Daniel Voshart]

2015年、解析チームはサマートン・マンの石膏像の内部に残存していた僅かな毛髪からミトコンドリアDNA型の解析を行おうとしたが、当時の防腐処理によるたんぱく質の分解が通常より進んでおり、鑑定に必要充分な量が検出できなかった。

しかし専門家チームはより状態のよい骨や歯さえ入手されればこの状況が打開できると考えていた。

2017年7月、マルコム・ターンブル首相は内務省と関連省庁の統合を発表し、内務大臣が移民・国境管理・国家安全保障・法執行・緊急事態管理などを担当する改革を行った。12月20日、ピーター・ダットン氏が内務大臣に就任した。

長らく労働党(ALP)系から内務大臣が抜擢されていた流れがここで大きく転換したこと、イーガン家やそのほかのサマートン・マンとの家族関係が疑われる人々、行方不明者を家族にもつ人々の要請、オンライン署名などといった世論の後押しはこの数年の間に大きくなっていた。

 

同じく17年12月、アデレード大学の研究チームは石膏像から「DNA抽出に適した成長段階にある」毛髪を採取することに成功し、再び解析に着手した。

翌18年2月、サマートン・マンの毛髪サンプルからミトコンドリアDNAの高解像度分析を行い、男性とジョー・トムソンが「ハプログループH4a1a1a」に属していることを発見した。ハプログループHは西アジア発祥でユーラシア大陸の東西に広く分布されるが、「ハプログループH4a1a1a」に限ればヨーロッパ人では1%にしか存在しない型だという。

2020年にはカナダの復顔イラストレーターであるダニエル・ボシャートが遺体写真やデスマスク、研究チームが得た法医学的情報を反映して、上掲の生き生きとしたサマートン・マンを復顔図としてよみがえらせた。

人々はサマートン・マンは伝説の存在などではなく、かつては私たちと同じように恋人や家族をもち、現に生活を営んでいたのだと再認識させられたに違いない。机上の謎解きゲームではなく、彼の帰りを待つ人たちが今このときも実在することに気づかされたのだ。

そしてDNA型鑑定技術の進歩もあり、オーストラリア犯罪捜査データベース等にも120万件以上のDNAプロファイルが蓄えられていた。アメリカではDNA情報から遺伝履歴をたどる系統学調査が普及してきており、DNA解析・調査研究機関と捜査機関とが連携して実際に身元不明人の捜索や個人の特定に役立てられている。

2021年5月、南オーストラリア警察はウエストテラス墓地でかつて市民たちが設えた墓石の下からサマートン・マンの遺骨が掘り出し、改良されたDNA型鑑定などによる解析を行うこととした。

 

しかしアデレード大学の研究チームは遺骨の鑑定に携わることは許されず、豪科警研はミトコンドリアDNAからどのようにして個人の特定に結びつけるかに頭を悩ませ、アメリカの法医系図学者コリーン・フィッツパトリックに協力を求めた。

フィッツパトリック博士はユタに拠点を置くAncestry. comにアクセスして分析を依頼した。同社は世界128か国、2500万人を超えるユーザーネットワークを持つ個人向けDNA検査サービスの先駆的存在である。

サマートン・マンの毛髪から200万個のDNAマーカーが確認され、4000人もの登録者との部分一致が判明し、その中からスチュアート・ウェッブ氏が絞り込まれた。

スチュアート・ウェッブ氏は祖父チャールズについて詳しく聞かれ、いくつかの古い家族写真などにその姿を見つけることができたが、彼の死亡年や1947年以降の行方を知る者はなかった。さらに家系図ではチャールズ・ウェッブの甥に「ジョン・ラッセル・キーン」も存在しており、ネクタイなどは彼から譲り受けたものと考えられた。

アボット教授は、今度はチャールズ・ウェッブの母方の親戚にあたる人物を探し出してDNA型の分析をさせてもらい、チャールズがよその血縁からの養子などではなかったことなどを確認した。

 

チャールズ・ウェッブはビクトリア州スプリングベールにあるパン屋の家に6人兄弟のひとりとして生まれ育った。家業のパン屋が閉業された後、彼は電気機器の製造業者のトレーニングを受けていたと考えられている。

1941年、彼は薬剤師兼リウマチ療法士だったドロシー・ロバートソンと結婚。夫婦でサウスヤラのブロンビーストリートにあるアパートに引っ越した。妻までいたチャールズ・ウェッブがアデレードに行った後、なぜ他の家族は彼を探していなかったのかという疑問は残る。

だが妻ドロシーは彼が戻らないことを理由として1951年に離婚を申請し、不在のチャールズに告知するため、新聞にもその旨の記事を掲示していた。

離婚調停の中で妻ドロシーは、夫チャールズのことを暴力的で威圧的で気分屋、「特に友人はおらず」夜7時には就寝してしまうことが多いと評している。さらに彼女は「夫は多くの詩を書き、そのほとんどは死を題材にしたもので、彼の最大の望みである」とチャールズの希死念慮をはっきりと把握していた。

そして、そのとき彼はすでに「サマートン・マン」としてアデレードの地で永い眠りについていたのである。

いつからかははっきりしないがチャールズとドロシーの夫婦関係はすでに長いこと破綻の危機を迎えていた。彼は家にほとんど戻らなくなり、おそらく連絡も途絶えがちだった。失敗と修復を何度となく繰り返し、疲れ果てていたのかもしれない。

だがチャールズは自分と同じく詩を愛するジョー・トムソンと出会った。47年に彼が家を出た時点で、彼女と人生をやり直そうという考えが念頭にあったのかも分からない。

しかし彼女は、お腹にチャールズの赤ん坊を宿しながらも再会を拒んだ。運命の女性から拒絶されたことがチャールズに最後の決断をさせた。彼女の家からわずか400メートルの、人通りの多い海辺で、彼は自分の過去と決別したのだ。謎めいた彼の死因は「失恋」という言葉でしか言い表すことができない。

 

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アイルランドでもサマートン・マンと同じく謎めいた死を迎えた男がいる。よろしければご一読ください。

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