いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ゲイラン・バル4児殺害事件

シンガポール史上、最も残虐で非人道的な事件とまで言われた少年少女の惨殺事件は40年以上経った現在も未解決のままである。

 

事件の発生

1979年1月6日の午前7時過ぎ、リー・メイ・イン(当時37歳)はいつものように公衆電話からゲイラン・バルの自宅マンションに電話を掛けた。

彼女と夫のタン・クエン・チャイ(当時36歳)は夫婦でミニスクールバスでの送迎事業を営んでおり、朝の出勤が早かった。夫妻は布団の中で夢見心地でいる4人の子どもたちにキスをして6時35分頃に家を出る。

7時過ぎに母からの目覚まし電話で飛び起きて、子どもたちだけで朝食や支度を済ませ、登校するというのが朝のルーティンだった。

 

長男タン・コック・ペン(10歳)

二男タン・コック・ヒン(8歳)

三男タン・コック・スン(6歳)

長女タン・チン・ニー(5歳)

やんちゃ盛りの男児3人はベンディマーロード小学校に、下の娘は人民教会幼稚園に通わせていた。

しかしこの日はいくら呼び出し音を鳴らし続けても、掛け直してみても応答がない。リーさんは不思議に思った。

心配になった母親は親しい近隣住民に電話を掛け、部屋に様子を見に行ってもらった。ノックしても中から応答はなく、近隣住民は「多分、早起きして学校に行ったんじゃないか」と伝えた。やむなくタン夫妻はひとまず朝の送迎の仕事に戻ることにした。

 

朝の送迎業務が一段落して、タン夫妻は午前10時前に自宅マンションに戻ってきた。タン一家の住居は周辺にも似たような公営マンション、アパートがいくつも立ち並ぶ58街区と呼ばれる団地の一画で、部屋は5階にあった。

玄関には子どもたちの靴が残されており、決して広くはない部屋に人の気配がしなかった。子どもたちの学校支度も残されたままになっていた。奇妙に思って浴室を覗いてみると、そこには変わり果てた4児の遺体が積み重なっていた。いつもの寝巻きのシャツと下着姿は鮮血に染められ、一目で死亡しているのが分かった。

法医チャチャン医師の報告によれば、4人ともにそれぞれ少なくとも20か所以上の刺し傷が認められた。

長男コック・ペンの右腕はほとんど切断されかけており、手には黒い頭髪が残っていたことから、他の子たちを守ろうとして犯人と格闘したことが想像された。末娘のチン・ニーは小さな枕を抱えたままで見つかり、顔を幾度も切り刻まれていた。

子どもたちは後頭部を割られ、背中を裂かれ、全身滅多刺しにされていた。遺体からは、子ども相手に容赦もない犯人の異常なほどの攻撃性が窺えた。

 

母親はその場で卒倒、父親は狂ったように泣き叫び、騒ぎを聞いて住人たちも駆けつけた。通報後、すぐに噂を聞きつけて現場マンションには何百人もの野次馬が詰めかけて人だかりをつくった。通報からおよそ1時間後、警察が現場に到着。野次馬の整理のために時間を要したのである。

現場に立ち会った刑事のダニエル・タン氏は「駆けつけたシンガポール警察刑事捜査局(CID)の捜査員たちはこれまでいくつもの現場を訪れていたが、今回ばかりはその惨状に目を覆い、言葉を失った」と、無惨極まりない状況を報道陣に伝えた。

幼子が殺害される事件もあるが、その大半は首絞めによる窒息か、刺殺であっても首や胸を最小限に突くだけで事足りる。この犯人のやりくちはあまりに執拗だった。

現場には不可解な点がいくつかあった。玄関のカギや窓が破壊された形跡もなく、侵入経路が明らかにならなかった。さらに浴室以外に血痕はほぼ見られず、侵入者の指紋や足紋といった証拠は検出されなかった。

凶器となった刃物は現場から持ち去られていたが、タンさん宅にあった肉切包丁か小型ナイフが用いられたと見られている。犯人は返り血を洗い流したらしく、台所の流しに血だまりが残っていた。包丁以外に盗品被害や物色された痕跡も確認されなかったという。

夫婦が出勤した6時35分から近隣住民が部屋を確認に訪れた7時10分頃までの30~40分間が犯行時刻と推定されるが、多くの家では朝食や出勤の前後で集合住宅のため人の出入りの多い時間帯と言える。物盗り目的などの「流し」の犯行とは考えにくかった。夫婦の出勤時刻を知る人物による計画的な犯行と推測された。

野次馬が詰めかけて騒然となった〔The Straits Times,14. Jan. 1979, via NewspaperSG〕

捜査員はマンション住民ら百数十名に聴き取りを行った。近隣住民のひとりで、住民たちから「おばあちゃん」と慕われるヤム・イン・ティンさん(68歳)は、普段朝からアパートの外に座って通学していく子どもたちの見送りを日課にしていた。犯人の目撃が期待されたが、その日の犯行時刻に限って洗髪していたため異変や不審人物に気付かなかったという。

ヤムおばあちゃんが現に洗髪していたのか否か、何も気づかなかっただけなのか、思い当たる節はあるが事件との係わりを避けたかったのかは分からない。

翌日の紙面には、呆然自失で「遠い目」をした父親と、泣きはらして力なく崩れる母親の姿があった。4人の子どもたちに非があったとは思われず、捜査員は夫婦に対する怨恨を動機とした犯行を予感したが、該当するような心当たりはないという。

近隣住民らは悲鳴や騒ぎには気づかなかったと言い、捜査本部内では複数犯や顔見知りによる犯行の可能性もあると見て情報収集の範囲を広げていった。団地周辺では放課後に遊び回る子どもたちの姿も見られなくなった。

 1月7日、タン家の子どもたちは、お気に入りの玩具など所持品の一部とともにチョアチューカン墓地に埋葬された。

 

疑惑と仮説

殺人事件のニュースが流れると、あるタクシー運転手が目撃者として名乗り出た。事件直後に近くで怪しい客を車に乗せた、と主張した。

事件の起きた6日の午前8時頃、運転手がカンガル通り沿いに車を停めていると、20代らしき風貌の男がよろめきながらタクシーに近づいてきた。左半身が血まみれで、ポケットにナイフを忍ばせていたという。乗車中に男が刃物を見せることはしなかったが、ラベンダー通りで降車する際に、ドアにぶつかって金属音がしたため察しがついたのだと運転手は説明する。

タクシー運転手の証言を基に人相書きが作成され、その後、何人かの容疑者たちへの面通しが行われた。タクシー運転手は、そのなかのひとり、タンさん一家が親しみを込めて「おじさん」と呼んでいた近隣住民のマレーシア人男性を指摘した。

「おじさん」は電話を借りるために毎日のようにタンさん一家の部屋を訪れていた人物で、子どもたちからも懐かれていたという。子どもたちとも顔見知りであれば、いつものように玄関から招き入れられても不思議はなく、騒がれずに事をなしえたかもしれないと考えられた。

しかし一度は逮捕されたが、2週間後、当局は証拠不十分により釈放を決めた。その後、「おじさん」はメディアの注目や衆目監視を逃れるように妹と58街区から退去したとされる。

 

 

事件から2週間後、旧正月の年賀状に紛れて、不審なカードがタンさん夫妻のマンションに届けられた。楽しく遊ぶ子どもたちのイラストの脇に「もう子どもは産めないよ、ははは」というメッセージが添えられていた。

送り主の欄には中国語で「殺人者」と書かれ、宛先には夫婦の実名ではなく「アー・チャイとアー・エン」という夫婦のニックネームが記されていた。

当時、シンガポールでは人口抑制政策が敷かれており、2人以上の子がある家庭では所得税控除が受けられず、夫婦は週7日働きづめの毎日を送っていた。夫婦にとって子どもたちは何物にも変え難い宝物であり、日々の活力源であった。第四子に待望の女児を出産した後、母親は卵管結紮手術、すなわち不妊治療を受けていた。

送り主がリーさんの手術のことまで知っていたとすれば、親戚やごく身近な人間関係に絞られる。だが手紙の主が4児殺害の真犯人とは限らない。周囲の人間への疑心暗鬼、自らのあらゆる過去の行動への反省の念がますますタン夫妻を疲弊させた。

旧正月カードから指紋鑑識が行われたが、技術的な問題で犯人にはつながらなかったとされる。 犯人が意識して指紋を残していなかったのか、単に該当する指紋データがなかったのか、部分的な指紋・掌紋しか得られず証拠能力が低かったためなのか、配達までにあまりに多数の指紋が付着していたのか等ははっきりしない。

 

夫婦は一年後のインタビューで、惨劇の舞台となったマンション5階、子どもたちとの思い出が詰まったその部屋を「虚無な四枚の壁」と表現した。

その部屋ではかつてのように子どもたちの笑い声や泣き声が響くことは二度とない。あの日の朝を境に、魂を奪われた寂しい夫婦が寝泊まりするだけの空っぽの容器に様変わりしてしまった。

タンさん夫妻はミニバス事業を売却し、揃って塩化ビニル素材の工場の仕事に就いた。毎日、元気な子どもたちを学校に送り迎えするミニバスの仕事は気に入っていたが、「(思い当たる節はないが)犯人が次に自分たちを狙うかもしれず、そうすると預かっている生徒らの命をも危険に晒すことになる」と懸念したのだという。

 

事件や犯人像について、いくつかの仮説が唱えられたが、両親はそれらの可能性をすべて否定した。

ひとつの仮説は、妻リーさんが「おじさん」と不倫関係にあったが離婚や駆け落ちを拒否したため、彼が逆恨みして子どもたちに手を掛けたというものである。

日本でも1993年に起きた日野OL不倫放火殺人などのように、あえて本人ではなくこどもを標的にすることで、夫婦に対して報復する手口とされることがある。その執拗な危害の加え方を見ても、生き残った夫婦に対する見せしめと捉えることができた。

別の説では、タンさん夫妻は学生らの送迎をするミニバス事業を転用して、麻薬の密輸に関与していたのではないかという噂も囁かれた。シンガポールは特に麻薬の密輸・売買への罰則が厳しいことで知られている。そうした裏稼業での失敗、あるいは金品の持ち逃げなどが犯罪組織に露呈して無惨な報復を受けたのではないかといったものだ。両親に手を下さなかったのはその返済のためではないか、という訳だ。

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またシンガポールで盛んな「宝くじ」の仮説も多くの支持を集めた。

タン一家は「4D」と呼ばれる特定の4つの番号を指定する簡易的な宝くじ(現在の日本でいう「ナンバーズ」)の共同購入を周囲の人間にもちかけ、ある人物がその誘いに手を挙げた。幸運にも宝くじの番号は的中し、高額当選を果たした。

しかし宝くじ参加者が宝くじ(ないし取り分)を受け取ろうとタン一家のもとを訪ねてみると、「購入するのを忘れていた」と追い返された。だが当選ナンバーの発表直後にタン一家は仕事用のミニバスを購入していたことが分かり、依頼者は当選くじをねこばばされたと確信する。当選金は使い込まれて残っておらず、話し合いでも埒があかないため、激怒して報復に及んだというものである。

依頼者には「おじさん」やリーさんの親戚が当てはまるバージョンなどがある。またその人物がギャング関係者で、タン夫妻は報復を恐れて警察にもその名を明かせないのではないか、といった複合説もある。

 

宝くじ仮説と近いもので、タン一家が「トンチン計画」に参加していたという仮説もある。トンチン計画とは、個々人がグループ共通の資金プールに金を出し合い、投資収益の取り分に基づいて配当を受け取る資金調達システムで、日本でいう「無尽」と呼ばれる相互扶助・共同出資の亜種である。

タン一家は大きな利潤を得るために子どもたちの名義でも出資していたが、共同出資者たちはそのやり方を嫌っており、自分たちの取り分を増やすために「口減らし」をしたとの説が唱えられた。

しかしタン夫妻は、自分たちはそのような計画には参加しておらず、浮気もせず、宝くじも購入したことがないと述べ、それらの仮説をことごとく否認した。当時の警察でも夫妻に対する怨恨説は当然考えられ、彼らに係わる金の動きには調査が及んだことと思われる。

〔『Inside Crime Scene』より〕

その後、タンさん夫妻は親としての生きがいを取り戻し、その空虚を埋めたいと行動に移した。養子縁組の道を模索して社会福祉局に登録をしたが、良縁には恵まれなかった。リーさんは不妊状態を解除して再びわが子を生み育てたいと前代未聞の再手術を要望したが、多くの医師は手術しても妊娠は難しいだろうと躊躇した。

だが夫妻の境遇を知って僅かな可能性に賭けようとT・H・リーン医師が協力を申し出た。1983年12月30日、35歳となったリーさんは3520グラムの元気な男児を出産した。もう会うことはないと思われていた奇跡の第五子誕生は家族を喜ばせ、人々はその幸運に祝福を送った。さらにその後、第六子として女の子も授かった。

 

現在地

2021年、シンガポールの中国語新聞『新民日報』紙が、70代になったリー・メイ・インに取材を行い、残念ながら夫タン・クエン・チャイは解決の日を迎えることができず、随分前に亡くなったことが報じられた。

リーさんは、「今は孫たちとの生活があり、もう過去について話すつもりはない」としつつ、事件の解決を望んでいるかと聞かれると、しばらく黙したまま頷き、「警察にお任せします」とだけ口にした。

また行方不明事件や未解決事件の相談・調査や啓発を行う非営利団体クライム・ライブラリー・シンガポール(CLS)は過去にタン一家の近隣住民だったとされる人物とアクセスし、これまで報じられてこなかった情報を得て警察に情報提供したこと、それを受けて捜査が再開される可能性を伝えた。

 

タン家と親しかったという近隣住民から得られた情報で当時の報道には事実誤認があるとして、次のことが公開されている。

・犯罪現場はレベル4ではなくレベル5である

・被害者の母親は「地元出身者」ではない

・彼女の名前はリー・メイ・インではなくリー・MCである

はたしてメディア側の誤報道だったのか、捜査当局の調べに誤りがあったのかは定かではない。

40年経った今だからこそ話せることもあるとして、CLSでは引き続き当時の近隣住民らに情報提供を呼び掛けている。

 

所感

国のちがいもあり、当時の捜査技術や犯罪現場の評価を知る術はないが、DNA鑑定など現代の科学捜査が投入されていれば、と思わずにはいられない事件である。

また事件発覚当時、タン夫妻は呆然自失、パニック状態に陥り、多くの近隣住民が部屋に駆けつけたらしく、捜査員が現場保全のために「現場からタンさんらを追い出す写真」も残されている。

おそらく警察が到着するまでに現場は10人以上の住民に汚染されており、指紋や頭髪が採取されても犯人性を担保できる状況にはなかったと考えられる。

現場となった団地マンションは解体され、新たな建物に生まれ変わっている。事件から30年、40年経って、被害者遺族との付き合いや周囲とのしがらみもなくなり、裏表なく喋れる「今だからこそ言える」情報というのもあるだろう。しかし40年経った今、新証言が出たとて、それを検証する術はあるのだろうか。人の記憶は移ろいやすく、新たな「仮説」を生み落とすだけにもなりかねない。

事件翌日の『Straits Times』紙では、近隣に住む二女性が早々に浮上して事情聴取を受けたほか、「血まみれの若いカップルを見た」との情報提供があったと報じられている。前者はすぐに嫌疑が晴れ、後者は申告者による作話と判明したとされる。おそらく二女性も何がしかのタレコミによって嫌疑をかけられたものと思われ、当初から情報の錯綜が想像される。

数百の人々が押し寄せるような状況で、人々は善意からか作為によってか、無益な、誤った情報をもたらし、結果的に捜査をかき乱す存在ともなった。今日でも本事件を推理する上で、「おじさん」は有力容疑者として度々取り沙汰される存在だ。

しかしタン一家と同じ58街区に暮らしていて、なぜ血染めの着衣でタクシーに乗る必要があるというのだろうか。実際に「おじさん」がタクシーに乗ったか否かも明らかにされてはいないが、現に彼が犯人であればひとまず自宅などで着替えることができたはずだ。常識的に考えれば、タクシー運転手が人違いをしたようにしか思えない。

狭山事件ではないが、地元住民からのよからぬ風評や不逞な外国人への差別意識などが「おじさん」を容疑者に陥れたのではないかという気がしてならない。上述の「血まみれの若いカップル」の作話もそうした「おじさん」と彼の妹を犯人視するために捏造されたと考えられる。

 

旧正月の「殺人者」からのカードについては、犯人によるものではなく手の込んだ悪戯に思えてならない。また「〇〇だから殺してやった」「〇〇の恨みだ」といった犯人のみが知りうる動機の告白などはなく、「もう子供は産めないよ」という嘲笑的な内容は非常に女性的な発言と捉えられる。

その点では、多産家庭を逆恨みした子が産めない女性といったプロファイリングも可能である。刃物による過剰攻撃も腕力に勝る男性犯ではなかったとすると腑に落ちる。だが単純計算で4人に対して20回、短時間で計80回もの滅多刺しが一般女性に可能だろうか。親であっても寝ていた4人を寝床から浴室に運び込むだけで一苦労であり、どのように制圧していたのか犯行状況は不鮮明のままだ。ひとりが浴室へ運び、別のひとりが殺害するといった複数犯を検討する余地も大いにある。

またリーさんの卵管結紮の事実を知らなくとも、「産んでもまた殺すから無駄だ」といったニュアンスで書かれた可能性もあるだろう。

 

犠牲者を冒涜するつもりはないが、動機として、犯人は両親への怨恨の逆恨みではなく、現に子どもたちに恨みがあった可能性はないだろうか。

また殺害は計画的に見える一方で、タン家にあった刃物が用いられたとすれば、犯人は凶器を持参していなかったと考えられ、その点では衝動的殺人も大いにありうる。そこでたとえば、親が子どものいじめの代理報復として殺害に至った状況は考えられないか。

10歳女児がいじめられ親激怒、同級生男児を果物ナイフで殺害|NEWSポストセブン

上のNEWSポストセブン記事では、中国『光明日報』から、浙江省温州市で起きた男の殺人事件を紹介している。10歳女児がいじめを受け、逆上した父親(36歳)が小学校まで押しかけ、娘の同級生男児をトイレまで追いかけて果物ナイフで刺殺したという事件である。

愛するわが子を傷つけられて黙っていられる親などいない。こどものケンカに親がしゃしゃり出るというのは古今東西を問わず見られることで、しばしば親の行き過ぎた行動(犯罪)を非難し、冷静な対応を求めるかたちで話は結ばれ、ときに教育問題として議論されることもある。記事では世論のひとつとして「かつての一人っ子政策のせいで、子どもを手離しに可愛がる風潮が広がっている。政府の悪政も大きな原因だ」とのコメントを取り上げている。

先述の通り、当時のシンガポールでは「ふたりっ子政策」ともいうべき出生率抑制政策が取られており、周囲では一人っ子や二人きょうだいが多いなか、四児を育てるタンさんのような夫婦は比較的珍しかった。4人全員で寄ってたかって…という訳ではないかもしれないが、きょうだいが遊び仲間のひとりと大喧嘩になったりして多勢に無勢、いじめに近い構図が生じていたかも分からない。

被害児童の親がタンさんの仕事のスケジュールを把握していたかまでは分からない。学校が始まる前、出勤前に親同士で話し合うつもりだったのか。しかし早出の夫妻はすでに不在だった。当の子どもに事情を直接聞いてみれば、「ぼくは悪くない」「やったのは向こうが先だ」など言い訳めいたことを言われ、その親は逆上して犯行に及んだのではないか。

事件の発覚は午前10時で、犯人には証拠隠滅の猶予があり、日中は家を空けていても言い訳がつく。親同士の付き合いが薄ければ、それほど強い疑いは向けられなかった可能性が高い。警察はこどもの交遊関係、その保護者についてどこまで調べただろうか。

事件の本格的な進展は、犯人の告白なしには難しいかもしれない。だが事件当時、30歳前後、タンさん夫妻と同年代の子育て世代だったとすれば、すでに高齢であり、長年の良心の呵責によって口を開くこともないとは言えない。

 

犠牲になった4人のご冥福をお祈りいたします。

 

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Geylang Bahru family murders (1979)

Unsolved 1979 Geylang Bahru Murders Case Is Revived After Family's Neighbour Provides New Info

熊野一族7人殺しと二つの猟銃事件について

1978・79・80年にそれぞれ起きた、男たちと猟銃に関する事件について。

 

熊野一族7人殺し

1980年(昭和55年)1月31日(木)午後、三重県熊野市二木島町のみかん農家池田一通(44歳)方で集まっていた親族7人が殺害され、3人が重軽傷を負う凄惨な事件が発生した。親族らを襲った池田は猟銃を手に自宅に籠城し、最終的に自ら命を絶った。

 

生き残った家族らの話によれば、男は数日前から心身に不調をきたしており、挙動不審や妄言が見られていた。二日前にも妻楠美さん(38歳)の実家へ突然訪れて、妙に塞ぎ込んだ様子を見せ、親類になだめられてようやく帰るという出来事があった。

 

熊野は大正末期に喧嘩が元で発砲沙汰となった事件が起きた程度で、凶悪事件とはほぼ無縁ともいえる土地柄だった。

1959年に三重県亀山市から和歌山県新宮市、さらに紀伊半島に沿うかたちで和歌山までを結ぶ国鉄紀勢本線が、1970年には三重県尾鷲市から和歌山県田辺市を結ぶ国道311号が開通した。だが熊野は近畿や中部の都市部とは隔絶された地理条件にあり、南紀の他の村々と同じく、漁業と林業を中心産業とした古くから続く暮らしぶりが劇的に変わることはなかった。

 

現場となった池田の自宅は紀勢本線・二木島駅から南東約1キロに位置した。眼下に熊野灘を臨む新田山の急勾配に建てられた8部屋ある平屋建てで、乗用車一台がやっとという狭路が家の前を通る。

下は付近のストリートビューだが、当時の建物はすでに取り壊されている。狭路はこの先すぐに行き止まりとなるが、道沿いには17戸が点在していた。

 

事件当日も池田は不調を訴え、農閑期に勤めていた石切り場の仕事を早く切り上げて、正午ごろに帰宅した。その様子を心配した母親とめさん(80歳)と楠美さんは、15時頃に「どうも様子が変だから」と親類たちを家に呼び集めた。報せを受けて近所に住む池田の弟夫婦や姉夫婦、市内で暮らす池田の妹らが駆けつけた。

16時半ごろには市内からかかりつけの内科医が呼ばれたが、池田は興奮状態で「体調は悪くない」と言い張って頑なに診察を拒んだ。医師は血圧測定ののち注射を試みようとするも断念せざるを得ず、精神安定剤と睡眠薬を家人に託して帰った。

このとき医師は、万が一に備えて数日前から猟銃の保管用ロッカーのカギを隠してあると池田の妻から聞かされていたという。猟銃は害獣駆除用に7年ほど前から所持を認められていたものである。

 

医師が帰ると池田も落ち着きを見せ、集まった親類たちは別室で寿司折りなどをつまんだ。その後、実弟の寿一さん(38歳)、義弟(実姉の夫の弟)にあたる岡本充さん(29歳)、二男忠くん(5歳)、三男正和くん(4歳)とともにテレビを見ながら過ごしていた。

午後5時頃になって、池田は「みんなにジュースでも買って来てくれ」と命じ、寿一さんと妹実子さん(41歳)、忠くん、正和くんがライトバンに乗って買い出しに出掛けていった。

するとその直後、池田は手斧で義弟の充さんに襲い掛かり、その後散弾銃を持ち出して親族を次々に殺害していった。保管用ロッカーのカギは隠されていたが、男は手斧でロッカーごと破壊していた。手斧は刃渡り8センチで「枝払い」に用いられる極小型のものだった。

池田は同居していた母親を玄関近くで手斧で斬殺、庭先に逃れようとした姉を散弾銃で射殺した。その後、買い出しに出ていた4人が戻ってきて、帰宅の合図に庭先で車のクラクションを2度鳴らした。それに対し、池田は運転席の弟を猟銃で射殺、助手席の妹と後部席の幼い実子ふたりを手斧で殴り殺した。

頭部を負傷したが逃げのびた義弟の充さんは隣家の鉄工所に助けを求めた。駆けつけた田川半七郎さんは家の前で池田が猟銃を支度する姿を目の当たりにした。田川さんの長男は池田が猟銃を調整している隙を見て、足元の手斧を奪って逃げ、すかさず路傍に投げ捨てた。

池田は軽トラックに乗り込もうとした義兄に約50センチの至近距離から発砲して射殺。まだ近くにいた田川半七郎さんに対しても遠巻きから5、6発発砲し、右太ももに軽傷を負わせた。田川さんによれば、池田は口論したり叫んだりしていた訳でもなく終始無言のまま行動していたという。

午後5時27分に田川さんの妻から熊野消防署へ通報。ケガ人が複数いるとして救急を求めた。午後6時過ぎ、騒ぎに気付いた住民が後から警察に通報した。池田が酔って猟銃を手に暴れてケガ人が多数出ている、人質を取って自宅に立てこもったと知らせた。

6時20分頃に救急隊が到着したが銃撃の危険から敷地内に立ち入ることができず、茂みに身を隠して状況を見守った。38分頃、熊野署から警官隊8名が到着。池田はしばらく落ち着きなく外の様子を窺っていたが、やがて部屋の奥に身を潜めた。

警官隊は近隣と県警に応援部隊を要請。邸に接近して人質解放を求めて壁越しに説得を開始するが、池田からの応答はなく、屋内の生存者や武装状況が把握できないことから迂闊に飛び込むことができずにいた。

しかし6時50分に猟銃の射撃音が、やがて7時3分にも室内から2発の銃声が響き渡り、以後、屋敷一帯は静けさに包まれた。5分後に警官隊は突入を決行するが、池田は子ども部屋で腹部と頭部に散弾を撃ち込み、すでに息絶えていた。

玄関先の車内に1人、軽トラックの荷台に1人、庭先と玄関に1人ずつ。わずか1時間ばかりで池田本人と合わせて8名もの命が奪われたことになる。妻楠美さんは頭や胸に打撲や切り傷を負い、一時は意識不明の重体に陥り、回復までに全治2か月を要する重傷だった。

2月初旬に被害者たちの葬儀が営まれ、入院中だった長男はショックと失意の中、けなげにも喪主を務めた。

 

事件の背景

事件は戦後の大量殺人としては帝銀事件の12名に次ぐ大惨劇であり、当初「家族ら7人次々射殺/3人けが、本人自殺」と新聞でも大きく報じられた。しかし今日では他の事件や大量殺人犯に比べて詳しい内容はあまり語られなくなっている。当時としても片田舎で起きた事件だったため、取材が少なかったのであろうか。

当初、通報者は警察に「酒に酔って暴れている」と話したが、池田に飲酒習慣はなく、司法解剖でも本人からアルコール反応は検出されなかった。近隣住民の目にも男はとても素面の、正常な状態とは思えなかったということであろう。

その日、診察に訪れていた医師は、「妙にニヤニヤと笑いを浮かべていた」「日頃大人しい人が診察や注射に拒否反応を示したり、妙な笑みを浮かべるのは精神分裂病の症状だと思った。月曜(2月4日)まで様子を見てから正式に精神科の診察を受けさせようと考えた」と事件後に振り返っている。

だが犯人は過去に精神科への通院歴などもない中、報道側が自主規制を敷いたというのだろうか。

 

池田一通は二木島町の生まれだったが、その生家は数百メートル西に位置していたとされる。高校に進むも成績は悪く、遅刻癖もたたり、やがて中退。その後は家の農業手伝いや養豚、農林の仕事に携わっていた。

20歳の頃、熊野市内で言いがかりによる傷害事件を起こして2万円の罰金刑を受けていた。その後もトラック運転手をしていた折、和歌山県新宮市で暴力行為、建造物等破損容疑で逮捕され、執行猶予付きで懲役10か月の有罪判決を受けた前科があった。

1959年7月に紀勢本線が開通し、地元にも二木島駅が開業する。町の発展も期待されていた矢先だったが、2か月後には伊勢湾台風が上陸して周囲の家々を数多く破壊した。このとき池田の生家も被災して、山際の集落で暮らしていた義兄を頼って現場となった山海の狭路へと移り住んできたため、同地の住民と深い結びつきはなかった。

事件の10年ほど前に父親を亡くして地元に戻ったが、かつての素行不良は落ち着き、家長として目立ったトラブルもなく過ごしていた。むしろ近隣住民からは大人しい性格だとみなされており、消防団の班長や保育所役員、交通安全協会委員など地域の仕事も務めていた。

山や稲田、ミカン畑を有する土地持ちで、地元ではその暮らしぶりは「中の上」とされる裕福な家とされていた。

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目下の悩みの種と言えそうなのは、家族の健康問題であろうか。中学生の長男(15歳)は腎臓病のために三重県津市の国立療養所に入院しており、79年12月には二男が肺炎を患っていた。また池田本人は土木仕事の手伝いとして石割職人をしていたが、削岩機の長期使用によって白蝋病(*)を患って、事件より2年前に労災認定を受けていた。

(*血行不良により指が白くなることに由来する病名で、機械振動によって引き起こされる血管性運動神経障害とされ、振動病とも呼ばれる。チェーンソーや刈払い機などの機械使用、そのほかレーサー等が発病しやすい。)

池田は療養のための休業手当として月に20数万円を支給されていたが、実際には現場作業にも相変わらず従事しており、およそ一年余にわたって給料との二重取り状態を続けていた。だが79年夏には症状の進行を訴え、外科にも通院していた。

79年12月に熊野労働基準監督署は市内の石切事業所に帳簿類の提出を求めた。これは一般的な労働監査のひとつに過ぎなかったが、知人によれば、池田は「労災の不正受給を疑われているから、そのための調査ではないか」と思い込んで、二重取りが明るみに出ることを恐れていた様子だったという。

近隣住民は「物腰柔らかいやさしい人」と言い、休日には子どもたちを連れて堤防へ釣りに出掛ける姿も見られていた。一緒に働いた土木関係者は「仕事はまじめだが小心な面がある」「こだわりやすい神経質な面があった」と話した。

 

後年、セゾン・グループから映画製作の後押しを得た監督・柳町光男は『十九歳の地図』(1979)でもタッグを組んだ芥川賞作家中上健次にオリジナルシナリオを依頼。紀州にルーツを持つ中上は本件発生時に熊野市内の新鹿町で暮らしていたこともあり、事件をモチーフとして『火まつり』の脚本を執筆した。

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シナリオでは、辺鄙な田舎の閉塞感やムラ社会における人間関係、一家皆殺しという男の暴発を描いてはいるが、そこに至る動機については緻密に言語化しようとはしなかった。

事件はあまりにも壮絶極まりない出来事だったが、明確な殺意に比して、その動機は常人には理解しがたいものだったことも語り継がれていない理由のひとつと言えようか。

 

田宮二郎の最期

本事件から近い時期に「猟銃」による象徴的な出来事が起きている。

1978年12月28日には、映画、ドラマ、番組司会者などで知られた人気俳優田宮二郎が猟銃で自殺を遂げた。

田宮二郎の妻“没後38年目の初激白”(1)「命を絶った理由とは?」 | アサ芸プラス

田宮二郎は60年代に勝新太郎との共演作が話題となり、端正なルックスも相まって「大映」の看板スターとなったが、68年に主演格ながらも四番手扱いの序列とされたことに猛反発し、大映社長の長田雅一と衝突。長田は田宮との専属契約を打ち切った上、他社へも映画出演させないように通達した。つまり業界から「干され」たのである。

窮地に立たされた田宮であったが、舞台や地方回りなど仕事を選ばずこなし、やがてTVの『クイズタイムショック』や音楽番組などの司会業に活路を見出していく。TV業界で揺るぎない人気を博すると、政財界へと交友を広げ、マンションやゴルフ場経営などビジネスの多角化を目論むようになっていった。

国際情報社 撮影者不明 - 国際情報社『映画情報』第28巻4月号(1963)より, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

司会業と並行してTBSで立て続けにドラマに出演したが、俳優として満足のいく仕事にはなかなか巡り合うことはできず、制作陣への介入や現場との衝突も増えていたという。共演女優との不倫スキャンダルにも苛まれ、ストレスは蓄積されていった。

かつてはオシドリ夫婦と呼ばれ、真面目で几帳面、それでいて他人に無理強いしない人格者だった田宮は家族にも当たるようになった。食卓を囲んでも「料理の味が分からない」「うらやましい、自分はそんな風に笑えない」と泣き出すことさえあり、家族の目にも変調は明らかだった。過労が重なり「躁うつ病」の診断を受けたが、完治不能とされる心の病を彼は受け入れることができなかった。

自信過剰な躁状態のときは、ウラン採掘権やM資金など有象無象の詐欺にも投資を続けた。77年には主演・製作を務めた日英合作映画が不発に終わり、多額の負債を抱え込んだ。現場との軋轢の中で板挟みになったマネージャーが顔面麻痺になるなど、これ以上の仕事の継続は不可能だった。

金策に行き詰まると公私の支えとなっていた幸子夫人をも敵視するようになり、彼女も身の危険を感じて一時は距離を置いたという。夫の快癒を信じ、俳優田宮二郎の名誉を守るためにも一定のブランクが必要と考え、夫人は断腸の思いでTBSドラマや司会番組にも降板を願い出て、長期療養させる段取りを進めていた。

しかし夫人も与り知らぬところで田宮とフジテレビが『白い巨塔』の完全ドラマ化の企画を進めており、すでに原作者山崎豊子の了承を得て、田宮の療養計画は流れてしまう。『白い巨塔』は過去のラジオドラマ版、映画版で好評を博した田宮のライフワークとも言える作品のひとつだったが、それまで物語中盤までしか描かれなかった「財前五郎」の生涯を演じ切りたいという役者魂から心血を注いだ。

一方、撮影現場で田宮は「妻に毒を盛られた」「実際に手術させてほしい」などと荒唐無稽な発言で共演者たちを困惑させた。集中力が続かず台詞覚えも困難を極めたが、夫人は夫の熱意を汲んで相手役となって付き添った。

全31話、約8か月に及ぶ長期撮影の期間に、躁も鬱もピークを越え、間には失踪騒ぎまで起こしていた。11月にクランクアップし、12月26日に最終話の試写を見終えた。放映も残すところあと2話で完結するというところで、田宮は自ら命を絶った。

12月28日の昼近く、田宮が「お腹が空いた」というので付き人が洋食屋に昼飯を頼みに出掛けて戻ると、自室で布団を被り、クレー射撃用の散弾銃で顎から頭部を撃って意識を失っていたという。享年43。尚、顎から上に目掛けて放たれた弾丸は頭部を突き抜けてから飛散したため頭部がはじけ飛ぶことはなかったとされる。

訃報の話題性も重なって最終話は31.4%を記録し、テレビドラマ史でも不朽の名作として今なお語り継がれ、リメイクが繰り返されている。

妻・幸子さんは密葬を終えた後の会見で夫の最期を「哲学的な死を遂げたのだと思います」と述べ、後年のインタビューでは「『白い巨塔』をやっていなければあのような最期にならなかったと思います。ボクシングに例えるならとっくにタオルを投げ込んでいるのに、それでも12ラウンドまで戦いきった。そして今でも名作として観ていただけているのであれば、遺族としては大きな慰めとなります」と語っている。

田宮の遺書には、妻子への万感の愛情が綴られ、家族のためと思うばかりにがむしゃらに働き続けてきたことへの後悔もにじませていたとされる。

 

三菱銀行北畠支店猟銃立てこもり事件

1979年1月26日には大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店を舞台にして猟銃を持った男の立てこもり事件が発生し、テレビ各局が中継して大きな注目を集めた。犯人は梅川昭美(あきよし)(30歳)で、借金の返済に行き詰まっての犯行を主張した。

三菱銀行 猟銃・人質事件|ニュース|NHKアーカイブス

銀行の閉店間際となる午後3時前に黒スーツにハット帽、サングラスに白マスクといういでたちの男が窓口に現れ、ニッサンミクロ上下二連銃を天井に向けて連射し、金をリュックに詰めるように指示した。男は非常電話で通報しようとしていた行員男性を容赦なく射殺。その場から逃げ出せた客が住吉警察に通報した。駆けつけた警官らが投降の説得を試みようとしたが、警部補と巡査の2名が射殺された。

男は客12名行員31名を人質に取り、シャッターを閉じて立てこもりを開始した。親子連れや妊婦、高齢者といった客たちや負傷者の解放を認めていく一方で、「金を出さんかったお前の責任や」と支店長を射殺する容赦ない凶暴性、行員に別の行員の耳を切り落とさせるといった残虐性を併せ持っていた。

梅川は行員たちに命じてバリケードをつくらせ、服を脱がせて自分の周囲に配置させて警察からの射撃を防ぐ「肉の盾」を築かせた。ステーキやロ-ストビーフ、ビールやワインを要求しながら42時間近い籠城を繰り広げた。人質に毒見までさせる周到さで、人質用の食料として届けられたカップラーメンについて「栄養がない」と文句をつけて、栄養剤やサンドイッチなどが追加された。

ラジオニュースで「ウメカワテルミ」と呼ばれたことに腹を立てて発砲し、「テルミやない!アキヨシ言うんや!」と捜査本部に言い放った。深夜になって、行員に借金返済の手立てを考えさせるようなことをし、人質の行員にサラ金まで密かに返済に走らせ、戻ってきたら別の人質を釈放するという交換条件を出した。行員が500万円程の返済を終えて戻ってくると梅川は満足した。

27日には投降を呼びかけるために母親らが招かれたが、梅川は電話での会話を拒絶。「母上のたのみですからゆるしてあげてください。早くだしてあげてください 母上のたのみです」といった手紙が差し入れられ、女子行員が代読したものの人質を解放するまでには至らなかった。

だが梅川は「おふくろはそんな字しかかけへんのや」「おれにはおふくろしかおらんのや。子どもの頃から一緒に苦労したんや。おふくろは大好きや、一緒に暮らしたいんや」とこぼし、本来はもっと早く銀行を襲うつもりだったこと、猟銃で脅せばすぐに金を出すと思っていたことなど、後悔を口にしていたという。午後6時過ぎにローストビーフとワインが差し入れられると「これが最後の晩餐や」と漏らした。

警察では前夜に一時脱け出した行員らとの内通によって、行内の人質たちの状況や梅川の行動の細かな癖まで聴き取り、突入の隙となる好機を探っていた。27日の深夜には梅川は人質に自分の服を着せて、弾を抜いた猟銃を持たせ、自身は人質に紛れ込んで「人質解放」を偽って現場から脱出する偽装工作まで画策していたという。

遺体から腐臭が漂い始め、人質となった行員たちが搬出してほしいと懇願。梅川もそれを認め、捜査員が搬送に当たった。薄氷の上に立たされている行員たちの気力・体力はもはや限界が近づいていたが、それは梅川にとっても同じことだった。

28日朝、強行突入が指示された。SATの前進である警備部第二機動隊「零中隊」の7名は死角から行内カウンターに接近して射撃の機会を窺っていた。

梅川は零中隊の動きに気づかず朝刊を読み始め、手から猟銃を離した。女子行員に茶を汲むように命じると、周囲に人質がいない状態が生じた。それに気づいた内通の行員が合図を送り、午前8時41分、バリケードの隙間を縫って零中隊がカウンター内に突入。「伏せろ!」の号令とともに8発が発射され、うち3発が梅川の頭と首と胸に命中する。

男は床に転倒して身柄を確保され、すぐに大阪警察病院へと搬送された。銃弾摘出などの手術を受けたが、右頸部の銃創が致命傷となり午後5時43分に死亡が確認された。

梅川の母親は、自分だけは最後まであの子の見方でいてやりたかったと涙した。彼女は梅川のことを「テルミ、テルちゃん」と呼んでいたという。

チロル帽をかぶった梅川

 

梅川照美は1948年3月、広島県大竹市生まれ。父親は繊維工場の配管工として勤めていたが、梅川が8歳の頃に椎間板ヘルニア、リューマチの悪化で退職。女癖が悪く、頼母子講(*)にのめり込んでヤミ金融に借財をつくり、評判のよくない人物だったとされる。

(*頼母子講・無尽…掛け金を払い、一口ごとに抽選・入札・談合(競り)などを通じて物品や金銭を与えるギャンブル性の高い金融形態。鎌倉時代以降に寺社寄進、講における労働共助などの互助的金融のひとつとして広まったものだが、近世以降は物品購入の積み立てや貯蓄目的、賭博要素の強い「富籤(とみくじ)」などに多様化した。戦前は法人を通じて盛んに行われ、利殖を目的とする金融商品となったが銀行の拡大で縮小した)

10歳の頃、両親は離婚し、梅川は父親に引き取られて引っ越すも、すぐに母親の元に舞い戻った。母親は独身寮の炊事婦で、長女を亡くして高齢で授かった子だったこともあり、貧しいながらも梅川を甘やかして育てた。梅川は母親にも暴力を振るう粗暴な少年となり、高校をすぐに退学。

63年、大竹市内で土建業者に勤め始めたがバイク窃盗などで辞めることとなり、直後に社長の家に盗みに入った。社長の義妹(21歳)を殴打して滅多刺しにし、現金、通帳、株券などを奪った。1週間後、梅川は15歳にして強盗殺人容疑で逮捕された。

無惨な犯行様態、「他の奴らはぬくぬくと暮らしているのに、なんで俺だけが貧乏で苦しまないといけないのか」と語る悔悛の情のなさなどから梅川は中等少年院に送られた。少年院の技官は「このような資質の少年を社会に放任することは極めて危険」と指摘されており、反社会性の強さは矯正困難な「病的人格」で「累犯の可能性が極めて高い」とまで記録しており、その危険性はすでに認識されていた。

しかし僅か1年半で仮退院すると、大阪でバーテンや飲み代の取立人などの職に就いた。67年に父親が亡くなったとき、葬儀に顔を出すことはなかった。その後も非行や借金生活に溺れていくのだが、立てこもり事件までの14年間は警察沙汰を起こしていなかった。

事件後、自宅からは大藪晴彦のハードボイルド小説、フロイトやニーチェの思想書、ヒトラー、ムッソリーニの伝記など600冊の本が見つかった。ボディビルで体を鍛え、73年には猟銃を購入する等、アウトローの美学を模索するような自分磨きを惜しまなかったと言われている。

周囲には30歳を前に「おふくろを心配させたらあかん年齢や」とぼやき、77年2月には友人に5000万円必要だと言い、銀行強盗を持ち掛けていた。

78年2月、勤め先のクラブが閉店となり、失業する。母親への仕送りもできず、セールス販売の職にありつくがうまくいかなかった。事件前には数の子を手土産に2年ぶりに母親の許を訪れ、羽振りよく見せて親孝行のまねごとをした。事件直前には理髪店でアフロパーマをかけ、一張羅を羽織ると目当ての銀行へと盗難車を走らせた。

 

所感

3つの事件について、田宮は元より、男たちは自分で自分を追い詰め、自決に近い最期を遂げたという印象を強く受ける。さらに動機について思いめぐらせば、根底には家父長制や当時の男性ジェンダー(性的役割)に強く囚われた・追い詰められた男たちの挫折を感じずにはおれない。

その人生や置かれた社会的立場や評価は三者三様であり、自死や犯行を称揚するものではないが、犯人の立場からしてその最期にどんな意味や価値を見出そうとしたのかを検討して結びとしたい。

 

田宮二郎には、テレビタレントとしての地位を得て以降も役者への強いこだわりがあった。それが彼自身を苦しめ、人生の終わりを早めたのは間違いない。元をたどれば、映画界を放逐されたのもそのプライドが衝突を招いたことにあった。映画界からの追放という危機的状況を経験したことで、田宮は政治力の必要性と投資欲に憑りつかれることとなった。

個人の資質とともに、有名人の取り巻きとして有象無象が近づいてきやすいことも災いした。個人プロダクションでは映画制作会社や大手芸能事務所のようなセキュリティはなく、相談役となる弁護士やマネージャー、出納管理の手薄さが、男を容易に無謀な投機へと走らせてしまった。

充実をえない仕事への不満、再起をかけた映画製作での失敗、周囲からの評価が田宮の混乱に拍車をかけた。銀幕のニュースターとして将来を嘱望されていた自分、おしどり夫婦として広く好感を得たかつての自分、人々が思い描く田宮二郎という偶像によって、男は首を絞めつけられていった。

自分の人格を失い、自分のしでかした言動を疑い、後悔に喘いだ男は最期のその時まで役者であり続けようとした。自分に戻れば家族を苦しめ、周囲を不安にさせてしまう。田宮はプライドの塊ともいうべき孤高の天才外科医財前五郎を自身に重ね、「治療不能の末期がん」による非業の死という結末はまさしく自分の物語の結末と受け止めたにちがいない。田宮は役者人生に命を捧げる殉死を選んだのだ。

 

梅川照美が読書やボディビルに傾倒したのは、彼の思い描くダンディズムとして文武両道的なものが目指されただけでなく、学のない母親や体を壊した父親に起因するコンプレックスを本や筋肉によって克服しようとしたのかもしれない。その企ての甲斐もあってか、少年院を出てからは同じ過ちを繰り返さんと何度となく芽生えたであろう殺意を押し殺して10年余を凌いだ。

一方、女と家族を築くことはならず、仕事も実らず、残ったのは多額の借金だけとなった。きれいな身になって、一人前の男となって母親を迎えに行くのはおそらく彼の長年の悲願であったはずだ。しかしかつて憎んだ父親よりも惨めな自分のありように落胆し、再び男は誤った道へ足を踏み出した。彼の中でそれは無謀な賭けではなく実現可能と思われたが、想定外の1、2分というごく短時間で数名の警官が駆けつけてきた。すでにこのときバッドエンドは見えていたはずだ。

無謀な要求や無慈悲な犯行が報じられ、四方を警察に包囲された立てこもり映像を見た人々は、自暴自棄な犯人のでたらめな犯罪に見えたにちがいない。現代であれば、不特定多数を巻き込む拡大自殺や「無敵の人」に一括りとされていたかもしれない。

だが男の目的は母親とのささやかな幸福、せめてもの親孝行にあった。男は白旗を挙げるをよしとせず、殺しても死なない小説の主人公のように悪あがきを続けることを選択した。恥の多い男の人生は、82年の映画『TATOO〈刺青〉あり』のモチーフともなった。

 

池田一通の呪縛は熊野の地であった。男の人間性を知る手立てはあまりないが、学業は芳しくなく、そのまま家を継いでも良さそうなところ、故郷を離れてトラックドライバーなどをしていたことからも田舎への恨みや都会に対する人並みの憧れはあったと考えられる。故郷に戻ったのは池田34歳の頃で、すでに所帯もあり、果てない夢を追い求める青年時代という訳でもなかった。

何が男を狂わせていったのか。まず息子たちが腎臓病、肺炎を患い、自身も白蝋病に罹ったことは、まるで「呪い」さながらに感じられたのではなかろうか。さらに言えば、自分を故郷に帰らせるきっかけとなった父親の逝去に因縁めいたものを感じたのではないか。池田も梅川同様に「親不孝」をして故郷を離れたくちである。先祖や故郷に対するいくばくかの後ろめたさはそうした不穏な想像を引き寄せる。

しかし土地を憎んでも病気は快癒されないし、亡き父親を恨んでみてもわだかまりが晴れることはない。職場や地域の会合で暴れたとて他人を巻き添えにするのも筋違いに思われる。長男が入院中で一家心中が物理的に難しい一方、呪われた「血」に対する憎しみは地元に残る一族の者へと向かっていったのではないか。

故郷に縛り付けられることを宿命づけられた池田の思惑は、その血を絶やすか、この土地に居られなくすることこそが本望だったように思われる。

 

1970年代後半から80年代初頭にかけては、家庭内暴力や非行少年などが表面化して物議を醸した時期であった。70年前後で学生運動の季節が事実上終結し、彼らが就職して核家族を築くようになるのが80年前後と見ることができる。旧態依然としたイエ制度への反発、男たちが背負わされた企業戦士や一家の大黒柱といった役割に対する鬱憤、その一方で新たな価値観やライフスタイルを生み出せない時代でもあった。

銃社会と呼ばれるほど拳銃が普及していないことが第一の前提条件にはなるが、本稿で取り上げた猟銃事件の背景には、根強い男性的規範に縛られてもがき苦しんだ男たちのそれぞれの苦悩が透けて見える気がしてくる。

三崎商店主一家3人殺害事件

あまりにも不利な状況証拠が揃いながらも、40年近く無実を訴えて獄死した元死刑囚。有罪の決定的証拠とされたのは生還した少年の証言だった。

 

襲撃と生還

1971年(昭和46年)12月21日深夜、神奈川県三浦市三崎町で岸本商店を営む岸本繁さん(53歳)と妻喜代子さん(49歳)、大津高校2年生の二女M子さん(17歳)の一家3人が刺殺される事件が起きた。

繁さんは1階事務所で喉を一文字にかき切られ、喜代子さんは入浴中に刃物で左胸などを滅多刺しにされて血まみれで死んでいた。夫妻はほぼ即死とみられ、M子さんも階段付近で右胸を刺され、出血多量が元で搬送先の病院でまもなく死亡した。

危険を察して2階窓から飛び降りた三崎中学校2年生の二男Mくん(当時14歳)だけが在宅していた家族で唯一難を逃れ、向かいの食堂に助けを求めて駆け込んだ。

Mくんは、父親の旧知とみられる来客に襲われたことを捜査員に説明した。神奈川県警は殺人事件と断定し、三崎署に捜査本部を設置して犯人の割り出しを急いだ。

 

岸本商店は三崎港に出入りする船舶向けに食料などの販売・積み込みなどを手広く行っており、繁さんは長男に任せている別店舗に出向いていた。店の戸締りを終え、Mさんは1階の事務所で新聞を読みながら父親の帰りを待っていたのだという。

午後11時過ぎ、施錠されていなかった勝手口のシャッターが開き、見知らぬ男が訪ねてきた。Mくんに見覚えはなく、相手は名前や要件を告げずに黙って事務所のソファに腰掛けた。少年は母と姉のいる2階に上がろうとしたが、男はそれを引き止め「お父さんやお母さんは元気か」などと世間話を始め、旧知の間柄であることを伝えた。

10分ほどして岸本さんが集金を終えて帰宅し、男を見るや「珍しい人が来てるな」と談話を始めたので、Mくんは2階に上がって布団に入った。

その後、ドスンと人が倒れるような音と、母親の「助けて」という悲鳴が響き、慌てて姉と階段から階下の様子を窺うと、先ほどの客人の男が手に血のついた刃物をもっている姿が見えた。

姉弟が「人殺し」と叫ぶと、男はものすごい勢いで2階に駆け上がってきた。命の危険を感じたMくんは咄嗟に窓から路地に飛び降りて難を逃れたが、M子さんは逃げ遅れて右胸を一突きされた後、自力で路上へと這い出し、その後、Mくんに抱えられて向かいの食堂に担ぎ込まれた。

食堂にいた人たちが商店に駆けつけると、その場にいた男性は犯人が逃走した旨を伝えたという。しかし警察が到着した頃にはその男性は姿を消しており、よもやその男こそが真犯人だったのではないかという疑惑が強まっていった。

 

死刑

男は中年で身長は160センチメートルぐらい、ベージュかクリーム色系のジャンパー姿でゴム長靴を履いていた。現場に残された下足痕からゴム靴のサイズは25.5~26センチと分かった。凶器は残されていなかったが、使用されたのは刃渡り20センチ程度の包丁とみられた。

犯行後は勝手口の前に停めていたグレー色のコロナマークⅡとみられるセダン車で走り去るのを近隣住民が見ており、「4375」の車番を元に緊急手配がかけられた。県内に同ナンバーの登録車両は65台確認されたが所有者に犯人らしき人物は浮上しなかった。

一方、聞き取り捜査の結果、事件前の午後8時から10時近くまで向かいの食堂で同じ男が酒を飲んでいたことが分かった。土地鑑があり、岸本さん夫妻と旧知の顔見知りと見て追っていたが、地元の漁港関係者らの心当たりから、かつて三崎で鮮魚店を営んでいたが8年ほど前に離れたという人物が捜査線上に浮上する。

男は横浜市金沢区で寿司店、藤沢市で二軒の鮮魚店を経営する荒井政男(当時44歳)。三崎で魚売りや鮮魚店を始める前はマグロ漁船のコックや甲板員をやっており、漁船を下りてからも岸本さんとは付き合いがあったとされる。

荒井の写真を事件の目撃者らに見せると「ほぼ間違いない」ことが分かり、現場に残されていた清涼飲料の空き瓶や食堂から検出した指紋が荒井のものと一致した。車両はコロナマークⅡでナンバーは「横浜5む4379」で目撃証言と酷似していた。

県警は荒井の動向を追い、26日、横須賀市久比里の娘の知人宅に立ち寄ったところを張り込み中の捜査員が訪れ、任意同行を求めた。その際、パトカーから路上に飛び出したところを車にはねられ、頭を8針縫う全治2週間のケガを負った。

手当てを受けて三崎署に移された荒井は、店が経営不振に陥り、借金を申し込みにきたが断れたうえ岸本さんに侮辱されたため、カッとなって殺害に及んだ旨を自供したとされる。

 

捜査段階で荒井は被害者の冥福を祈るなど悔悛を示していたとされ、そうした新聞報道を鵜呑みにすれば、男の犯行は疑うべくもなく思われた。しかし72年2月に開始された一審公判から否認に転じ、以後一貫して無罪を主張した。

35回の審理を重ね、1976年9月に横浜地裁横須賀支部(秦不二雄裁判長)は死刑判決を下した。二審では虚偽自白による冤罪の疑惑によって翌77年から84年までの長期審理となったが、東京高裁(小野慶二裁判長)は「犯行を否認しているが、現場の遺留足跡などから、自白を待つまでもなく被告の犯人性は明らか」などとして控訴を棄却。

1990年10月16日、最高裁(坂上壽夫裁判長)は上告を棄却し、死刑判決が確定した。

荒井は無罪を訴えて1991年より再審請求が係属中であったが、長く糖尿病や高血圧を患っていた。2009年(平成21年)9月、敗血症により東京拘置所で病死した。享年82。

同年、長女が代理となって死後再審を請求。弁護側は血痕認定に誤りがあるとして新たにDNA型鑑定を証拠とするも、2011年8月23日、横浜地裁横須賀支部(忠鉢孝史裁判長)は第二次再審請求を棄却した。

2023年1月17日、遺族は第三次となる再審請求を行っているが、再審開始への道筋は依然はっきりとは見えていない。

以下では、荒井元死刑囚の主張、死刑判決の根拠、弁護側が冤罪の証拠として再審請求で挙げている争点を見ていきたい。

 

家出少女の父親

石川出身の荒井は、13歳で金沢市の織物問屋に丁稚奉公に出されて以来、職を転々としながら一大漁港として賑わう三崎の地へと流れ着いた。漁師の手伝い仕事で信用を得ると、船を下りてからも魚の行商人を皮切りに鮮魚店を営むようになった。36歳で横浜にも出店し、都市部のショッピングセンターなどへと店舗を拡大した。

だが37歳で自動車事故に遭い、足に後遺症が残り、身体障害第2種4級の認定を受けた。荒井は足を引きずりながら仕入れ業務を続けてはいたがそれまでのような事業の拡大は困難となり、将来的に家族経営でやっていけると見込んで寿司店に改装するなどして借金ばかりが膨らんだ。寿司店は盛況であったが、家賃の滞納で鮮魚店は一部テナントを引き払うことを余儀なくされた。

60年代末から70年代初頭は新左翼運動、学生運動が最盛期となり、大学生のみならず旧制中学であった各地の伝統校・進学校・付属高校などでも服装自由化運動、教育課程の見直し運動が活発化し、バリケード封鎖などのセクト化が全国規模で派生していった。

高校に入学した荒井の娘も学園紛争に巻き込まれ、授業に出なくなり家にも帰らなくなった(活動家としてゲバルト武装化していたのか、活動家男性に振り回されていたのか、紛争に乗じて思想なき非行に走ったのかなどははっきりしない)。荒井は川崎、横須賀などを探し回って運よく娘を見つけて連れ帰ることもあったが、娘の放浪癖は改善せず、高校を退学した。

娘の心配で仕事に身が入らず、店の経営は妻や店員に任せきりになり、果てには店員が店の金を横領するなど悪いことが重なり、業績は傾いていった。

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荒井によれば、事件当夜も横須賀方面で家出娘を探し回るうちに日が暮れてしまい、休息のために勝手知ったる三崎へと足を伸ばしたという。

旧知の岸本商店に立ち寄って、喜代子さんから瓶入り「ファンタ」を貰ってその場でごちそうになり、その足で向かいの食堂に入って焼き肉を食べ、ウイスキーを飲んで9時頃まで過ごした。店の前で嘔吐し、路傍で寝込んでいると、悲鳴が聞こえて岸本商店から男が飛び出していくのを見た。

心配になって、事務所を覗き見ると喉を切られて倒れている繁さんを目にした。商店を出ると、外にいたMくんが「つかまえて」と叫び、食堂から駆けつけた人たちに取り囲まれたので「犯人は逃げた」と釈明した。だが下手に関わって犯人扱いされてはまずいと思い、車でその場から走り去ったという。真犯人と入れ替わりでタイミング悪く現場に居合わせたため、犯人に誤解されてしまったというのが荒井の主張であった。

さらに悪いことに、荒井は22日未明になって横浜市内の知人宅を訪れ、「帰りが遅いと妻が心配するから」という理由で「午後10時頃からこちらに来ている」と自宅に電話するように頼んでいた。捜査機関からすれば当然アリバイ工作と受け取られた。だが荒井によれば、深夜でなければ不在がちな知人に取引の話があって立ち寄ったのだと言い、日頃から心配性な妻を思って連絡してもらっただけだとされる。

旧知の岸本さんの不幸を目の当たりにした荒井は、いつ何が起こるか分からない不安感と家族の先々を思い、22日の朝、5000万円の生命保険に加入した。しかし、逮捕直後に路上に飛び出した行動が自殺未遂と捉えられ、裁判では刑罰を免れて家族に保険金を残そうとした行為ではなかったかと追及を受けた。金策に苦労している折に急な保険契約というのは不可解に聞こえる。

過去に娘の仲間に取り囲まれて暴行を受けた経験から、以来、護身用に繰り小刀(彫刻用の小刀)を携行しており、警察から凶器ではないかと疑いを向けられたが、刃渡り13.8センチメートルの小型のもので傷痕と合わないばかりか血痕も検出されなかった。

逮捕前の23日に郷里・石川に戻って実弟から100万円を借り受け、25日に横浜へと戻り、再び娘探しに追われていたという。

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しかし、捜査員は経営難で金策に苦労しているとの調べがついていたことから、岸本商店に借金の申し入れに行ったのであろうと見当付け、次のような筋立てを組み立てていった。

以前、頼みに訪れた際に100万円を用立てしてくれるとの話がついていたが、歳末になっていざ訪れてみると岸本さんから「1万、2万なら」とあしらわれ、懇願すると「乞食のような真似をするな」と言われ、「話が違う」と諍いになった。

風呂場からも喜代子さんの「だめだめ」という声が聞こえ、「ええくそ」と思って繁さんを刺し、喜代子さんが声をあげたので慌てて胸を刺し、さらに2階からも叫び声がして、転がり落ちるようにしてきたM子さんに小刀が当たった。

車で逃走し、藤沢市辻堂にある鮮魚店のひとつへ出向き、着替えて団地の焼却炉で服や靴、小刀を一緒に燃やして証拠を隠滅したと推定。その後、知人宅に立ち寄ってアリバイ工作を依頼したというのが検察側の見立てであった。

かつての仕事仲間から石川に行く際に少額の旅費を借りており、返済に来た折には自殺を匂わせる発言もあったとされる。事実とすれば、事件関与の有無までは分からないが、逮捕前から保険金目的の自殺を構想していた可能性は高い。

 

再審の争点

検察側は最終的な凶器を「持参していた魚切包丁」としたが発見されず、被害者の出血量から見ても相当量の返り血を浴びたものと考えられたが、血染めの犯行着衣も出てこなかった。先に記した通り、検察側はつじつま合わせのように証拠の不在を「証拠隠滅」というかたちで犯行を組み立てている。

逃走に使用したとされる車両にも血痕の付着がないという不可思議な状況であり、物証がほとんど何もない中、自白頼りでの立件とも言えた。

その分、直接犯人と対峙した二男Mくんの証言が重要となるのだが、弁護側は少年の供述には一貫性がなく、逮捕前に荒井の外見を確認させられた少年は「よく分からない」と証言していた。弁護側は、曖昧な目撃証言と状況証拠に基づく見込み捜査だとして立証の突き崩しを狙った。

しかし秦裁判長は判決の中で、Mくんの証言は極めて信憑性が高いと判断し、一方、犯行の手口は残虐極まりなく、公判における被告人の供述は「弁解のための弁解」であって反省の余地は見られないとして死刑を言い渡した。

 

犯行を疑わせる数少ない物証のひとつに、荒井の車のトランクにあった大工道具の布袋に付着した血痕があった。公判で荒井は横浜駅でケガをした際に付いた自分の血液だと主張したが、当時の「MN式」血液鑑定により被害者の繁さんの血液と一致。一審判決では「100%の確度がないにせよ、有罪を疑わせる有力な物証」と認定された。

「MN式」鑑定では古い血痕の正確な判定は困難だとする専門家の意見をもって、弁護団は第1次再審請求でDNA型鑑定による判別を求めていた。第2次再審請求の即時抗告審で東京高裁はミトコンドリアDNA型鑑定を認め、弁護側は神奈川歯科大学・山田良広教授に依頼し、被害者の型とは不一致であるとの結果が提出された。

道具袋の血痕は、足利事件における体液のような「決定的な物証」とは言い難いものの、属人的ではない客観証拠が崩れたことになる。

だが東京高裁は、血痕について判決内容では証拠価値がそれほど高いと見なしていないとし、「仮に血痕が被害者のものでないとしても、判決の事実認定に合理的な疑いは生じない」とした。特別抗告でも再審開始は認められなかった。

青木孝弁護士は、「確定判決で唯一の客観証拠だった血痕が事件と無関係と分かった。結果が変わらないのはおかしい」と話し、第三次再審請求でも新証拠として被害者の血痕が検出されなかった事実を要件のひとつに加えた。

 

また「ファンタ」の空き瓶には荒井のものとみられる指紋が付着していたが、瓶は風呂場の焚口付近に置かれていた。一方、殺害現場となった事務所では多数の指紋が残されてはいたが、荒井の指紋は検出されなかった。

自白調書では衝動的な殺人として記されているが、ファンタを飲み終えた荒井は怒りに打ち震えながらも手袋でも装着したのだろうか。むしろ荒井の無実の訴えにあるように、ファンタを貰って喜代子さんに空き瓶を返し、店内には立ち入らなかったようにも思える。

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また現場には血だまりを踏んでできたゴム長靴の下足痕が見つかったが、サイズ25.5~26センチメートルとされ、荒井が普段着用していたものは27センチメートルで差があった。当人よりも一回り小さい下足痕であったにもかかわらず嫌疑を免れなかったのであり、かの狭山事件のサイズ違いの地下足袋とよく似た構図が窺える。

足に障害のあった荒井が1センチきついサイズを無理に履いていたとは思えず、真犯人か、あるいは現場に駆けつけた野次馬や救急隊のものと見る方が自然ではないか。

東京大学医学部・古沢清吉講師の鑑定によれば、荒井の両脚は曲がったまま固定され、一定の確度以上に曲げられないことが指摘されている。これは検察側の横浜市大による鑑定でも同様の見解であった。右足が左足より短くなっており、ガニ股歩きになるのだが、検出された足跡は正常な歩行能力を持った人間のもので被告人とは一致しないと見られている。

またMくんの証言では、犯人が下からものすごい勢いで駆け上がってきたので、慄いて窓に向かい、路地に飛び降りたとされている。一方、荒井の自白調書では、数段上がろうとしたが、上から転げ落ちてきた格好のM子さんを刺し、2階までは上がりきらずに表に出たとされている。平地でも足を引きずる荒井が咄嗟に階段を駆け上がれたとは俄かに信じがたい。

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またMくんの証言では、男が雑談中にタバコを吸っていたとしており、現場写真にもそれらしき吸い殻が写っていたが、現物は警察が押収して行方不明となっている。アメリカ司法などと違い、証拠品が公共財として公開されない日本では、捜査機関による証拠隠しが公正な裁判や再審の動きを阻んでいるとの見方がある。

不適切な管理により誤って廃棄されてしまったのか、適切な手続きを経て処分されたものか、外的なトラブルが生じて紛失されてしまったのか、意図的な証拠隠しが行われているのかは捜査機関しか関知しえない独善的な仕組みが築かれている。国家権力とはそういうものだと言われてしまえばそれまでだが、こうした不公正な法的抜け道が存続するかぎり、証拠開示を拒否する検察はときに真犯人の片棒を担いでいるかのようにさえ見えてしまう。

 

所感

目撃証言、それも犯人と直接対峙した人間の言葉は大きい。一方で、わずか14歳で両親身内を失った立場で、周囲から何もプレッシャーを受けずに証言できたかは大いに疑問がある。

警察が少年を誘導尋問に掛けたとまでは言わないが、周囲の大人は彼の行く末を案じて「何があっても〇〇と答えるように」「警察の言うとおりにするんだよ」などと「善意」から良からぬ口添えをしても不思議はない。

親しくもない大人、どこにでも居そうな作業着姿の中年男が訪ねてきても、「よく覚えていない」方が自然ではないか、と思うが被害者ともいうべきMくんを責めることは誰にもできない。

荒井が無実かどうか、筆者の中でその心証は定まらない。家庭崩壊や事業の失敗で破れかぶれになって事件を起こしたようにも思われるし、そうした人間に証拠隠滅や生命保険加入といった理性的と取れる行動が可能だったのかは疑わしくもある。

事故の後遺症、事業の負債、家族関係でも問題を抱えていた。娘を探し回って途方に暮れ、吐くほど深酒するなど、夜になって長く暮らした三崎に訪れたこと自体がそもそも入水を図って訪れていたのではないかとさえ勘繰ってしまう。

唐突な生命保険への加入や、生まれ故郷に舞い戻って実弟に頭を下げて金策に労するなどを見れば、彼の胸中には自暴自棄や希死念慮とともに残される家族への思いとの葛藤があったこと、精神的窮地に立たされていたことはほぼ疑いようもない。

だが仮に殺害が事実であったならば、男は40年近くも争い続けることができたであろうか。

はたして車内に血痕がないことなど犯行可能性を減する証拠もあるなか、疑う余地のない立証がなされたのか、目撃証言という不確実性を孕みながらも「反証不可能」な証拠に依存した死刑判決が認められるべきなのかは議論の必要があるように思う。

 

被害者のご冥福とご家族の心の安寧をお祈りいたします。

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三崎事件の荒井政男さんが獄死 | 袴田巖さんの再審を求める会のブログ - 楽天ブログ

三崎事件3度目の再審請求 弁護側「血痕は事件と無関係」:東京新聞 TOKYO Web

湯河原女性殺人放火事件

有力な目撃情報があり、監視カメラにもその姿が捉えられていたが検挙につながらないまま早10年が経とうとしている。犯人の不可解な足どり、執拗なやりくち、その動機は一体何だったのか。

 

神奈川県警では、事件直後にJR湯河原駅に現れた不審な人物の防犯カメラ映像を公開して情報を求めている(下のリンク。人物については後述)。

風貌、歩き方、荷物や特徴的な動きなどを確認いただき、よく似た人物を知っている等お気づきのことがあれば、神奈川県警察小田原署 捜査本部 0465-32-0110(代表)までご一報されたい。

www.police.pref.kanagawa.jp

 

事件の発生

2015年(平成27年)4月21日(火)午前6時頃、神奈川県足柄下郡湯河原町宮下の木造平屋民家で火災が発生し、「窓から煙が出ている」と近隣住民が119番通報した。30分程で火は消し止められたが、約50平米の建物は全焼。焼け跡からは一人暮らしの住人女性平井美江さん(66歳)とみられる他殺体が発見された。

 

遺体はニットの長袖の上着にスパッツ姿で、着衣の乱れはなかった。

寝室のベッドに仰向けに横たわり、頭まで布団をかぶせられた状態で、額の右側には包丁が柄の部分まで深く突き刺さっていた。頭部や顔面に傷が集中しており人相が分からないほどで、首より下に傷がないこと等から寝込みを襲われた可能性があると考えられた。

玄関や窓のカギは全て施錠されていた。火元は隣の居間と見られ、遺体のあった寝室はそれほど焼けていなかった。居間では油分が検出され、ストーブやポリタンクがあったことから灯油をまいてから火を点けた可能性が見込まれている。また焼け跡から見つかった平井さんのポーチには現金が残されており、犯行は金銭目的ではない可能性も考えられた。

 

平井さんには軽度の知的障害があり、10年以上前から町内の障害者向けの作業所に通っていた。作業所の車で朝・夕の送迎を受けており、20日も朝から元気な様子で働き、午後3時半頃に帰宅していた。

近年は足が弱り、車いすや杖を使って生活しており一人で出歩くことはなかった。交友関係は広くないが明るい性格で料理上手だった。作業所の仲間を家に招いたり、近隣住民からお裾分けをもらうなど人付き合いに長けていた。人を元気づけるような朗らかな人柄で、他人から恨みを買うようなことは決してないという。

過去に平井さんからトラブルの相談などはなく、警察では殺人放火事件と断定して小田原署に捜査本部を設置した。

www.youtube.com

平井さんの自宅は、JR湯河原駅から駅前駐車場を挟んで200メートルほどの細い路地にあった。

過去のストリートビュー(下)で見ると、焦げ茶色の棟が寝室、ドアを挟んでベージュ色の棟が台所・居間となっている。建物の裏手(画面右手)は茂みになっており、その向こうに東海道本線の線路が通っている。勝手口はなく、掃き出し窓があった。

また路地を挟んで家の向かい側は、パチンコ店の裏手に当たり、店の駐車場と換金所が目の前にあった。パチンコ店の防犯カメラには、推定死亡時刻直後、平井さん宅の玄関から出てきて駅方面へと立ち去る人物が映り込んでいた(後述)。ただちに映像解析に掛けられたが不鮮明で人定には至らなかった。

 

湯河原と聞くと伊豆半島の付け根に位置する温泉地がイメージされるが、駅周辺に温浴・宿泊施設はそれほど多くない。高級旅館などが立ち並ぶ温泉街は、東海道本線よりも西に位置する千歳川の中上流部となる。

平井さん宅のあった駅の南側や、東の沿岸部にかけて広い住宅街が形成されている。尚、平井さんは長年両親や姉と一緒に同じ家で生活してきたという。

 

司法解剖の結果、死因は頭がい骨骨折に伴う脳挫滅。死亡推定時刻は午前5時頃とされた。顔や頭部には鈍器による殴打痕、刃物による10数か所の傷があったが、腕に防御創などはみられなかった。煙を吸い込んだ形跡がなく、犯人は殺害後に火を放ったと推認された。

凶器の刃物は平井さんの自宅にあったものとみられ、遺体近くに「フライパンが落ちていた」とも伝えられている。犯人の指紋は検出されず、消火活動で荒れてしまった影響もあってか、現場から犯人につながる物証は得られなかった。

 

4月30日、DNA型鑑定の結果、遺体の身元が平井さん本人と特定された。

平井さんには離れて暮らす姉がおり、弁護士を通じて「最初は自分(平井さん)の粗相で火事を起こしてなくなったのかと思いました。それが事件に巻き込まれて亡くなったのだと知り、彼女がどういう気持ちで最期を迎えたのかと思うと可哀そうな気持ちでいっぱいです」とコメントを発表している。

捜査関係者は「あまりに凄惨な手口。強盗目的でないのなら、足が不自由な平井さんをなぜそこまでして殺害したのか」と話す。平井さん宅は平屋建てで周囲の家よりも狭小に見え、強盗が目を付けるような家には似つかわしくないように思われた。

執拗な犯行は怨恨を思わせるものだが、周囲の人間関係からもそれといった相手は浮上せず、なぜ彼女が、この家が狙われたのかはっきりしなかった。

事件は長期化し、遺族は1年後に「愛する妹と思い出の家を奪われ、悔しくて寂しくてたまりません」とコメントを発表して、捜査の進展を願った。


い

もうひとつの事件

平井さん宅の火災発生よりおよそ6時間前、南に約350メートル離れた湯河原町土肥の3階建て集合住宅で、押し込みに入った見知らぬ男に住人男性(61歳)が襲われる傷害事件が起きていた。

犯人の男は長さ50~60センチの水道管のような細い鉄パイプで二度殴りかかり、何も取らずに逃走した。住人男性は30針以上を縫う重傷を負った。

警察では傷害などの容疑で男の行方を追うとともに、両事件に関連があるのではないかとして調べを進めた。

 

住人男性によれば、仕事を終えて21日午前0時前後に帰宅しようとしたところ、アパート近くの電柱に身を潜めるようにしている男を見掛け、一瞬目が合って「変な奴だな」と感じた。そのまま2階の自室に入り、無施錠のまま部屋で座っていると、先ほど路上で見掛けた男が急に押し入ってきたという。

「あんたを殺す」

犯人は身長170センチくらい、痩せ型体型。パーカーのフードをすっぽり被って紐を縛っており、口元をタオル(「手ぬぐい」とも)で覆い隠して目だけ出した状態。下は黒っぽいジーパンのようなズボン。鉄パイプを手にし、手袋代わりなのか、両手に靴下をはめていた。

男性は見知らぬ男の襲撃に驚き、「どこの者だ」と尋ねると犯人は「地元の者だ」と答えた。「いちいち通報しないから、帰れ」と説得しようとしたが、それに応じず、犯人は一方的に自分の話や持論を語り始めたという。

「両親は俺を生んですぐに捨てた(親に棄てられた)」

「ガキの頃からシャブ(覚醒剤)を打ってきたんだ」(※「売っていた」の可能性はないだろうか)

「仲間に入らないか」

「金を持っている汚い人間が世の中に多くて嫌だ」

「持ってるやつから奪えばいい」

といった発言があったと言い、二人のやりとりは約10分ほど続いた。

犯人は部屋を見まわして住人男性に同情したのか「あんたから盗るものはないな。でもあんたを殺さないといけない」などと、どういう訳か殺意を曲げなかった。

公園の西には湯河原交番があった。赤い丸は血痕の位置。青白マークは平井さん宅。

 

やがて「カギはどこだ」と言われて、住人男性が床のカバンに手を入れた瞬間、後頭部を思い切り殴りつけられた。犯人を抑え込もうとして5分程度揉み合いになり、さらに前頭部も鉄パイプで殴られたという。

男性は出血で目が利かなくなると、辛くも部屋を逃げ出して、階段を下り、右方向に走って助けを求めた。続いて犯人も下りてきたが、住人男性と逆方向に出て、すぐに右折していったという。

その後の捜索で、現場となった集合住宅から200~300メートル西にある「桜木公園」で凶器の鉄パイプが発見された。

住人男性は「何の目的で侵入してきたかも分からず、殺されるかと思った」と険しい表情で語った。犯人が酒に酔っていたり、違法薬物をやっているようには見えなかったと言い、「20代だろうと思う。外国人じゃない」と述べている。アクセントや訛りの特徴、鉄パイプ以外の所持品などの情報は伝えられていない。

平井さん宅の事件の話を聞いて、「あいつ、やりやがった」と瞬時に同一犯と確信したという。

 

また住人男性への取材記事で「犯人は駅方向に行った」という内容が伝えられているが、犯人が湯河原駅まで真っ直ぐ向かったものとは考えにくい点に留意が必要である。

犯人が住宅の左手に出て、すぐに右折したのを住人男性は目にしたことから「駅方向」という表現になったと考えられる。だが近くの公園で鉄パイプが捨てられていたことから、犯人はそのまま駅へと北進せず、すぐに左折して公園方向に向かったと推測される(上のマップの青点線ルート)。

住人男性との揉みあいによって犯人はかなりの返り血を浴びていたはずで、鉄パイプを捨てるために公園に行ったというより、水道で血糊を洗い落としたかったのではないかと筆者は感じた。

一方で、公園の100メートル先には「湯河原交番」があった。交番と現場の間の公園で犯人は長らく潜伏していることは不可能だったと考えるのが自然である。現場に出動していく署員の動きを確認してか、あるいは隙を掻いくぐって移動したものと推測できる。被害者男性が語った「犯人の発言」の全てが事実とは俄かには信じがたいが、公園や交番の位置関係を把握していたとも考えられ、土地鑑を有した犯人像が浮かび上がる。

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男性襲撃の通報を受けて、21日未明には小田原署が緊急配備を敷き、逃走犯への警戒態勢のなかで、早朝に平井さん宅の火災が起きたことになる。小田原署は湯河原駅からおよそ20キロメートル離れており、車でおよそ30分を要する。通報のタイムラグなどを考えれば応援が駆けつけたのは午前1時近くになってのことと推測される。

人口2万5千人余りの小さな町で一夜のうちに立て続けの凶行が発生したことから、周辺住民たちも「次の事件が起きないか心配だ」として恐怖に包まれ、直後のゴールデンウィークの観光客減少にもつながったとされる。

両事件が同一犯による犯行とすれば、男性襲撃のあった午前0時から平井さん殺害までの午前5時までのブランクについてはどう判断するべきだろうか。犯人は警察が警戒中の町をさまよいながら350メートル先の小さな家に狙いを定めたというのだろうか。鉄パイプで強打し、男性が外に助けを求めに行ったことを知りながら、なぜ犯人は遠くへ逃げのびようとせず、第2の犯行へと向かったのか。

 

防犯カメラと目撃情報

平井さん宅の前では火災発生より前に不審な人物の目撃があった。

近隣住民が午前5時10~15分頃、普段しない足音に気づいて注意を向けると不審な男が駅の方に向かっていったという。男の服装は「スーツか黒っぽい上下」で、こちらを振り返ったときにほくそ笑んでいたように見えたと話している。

「振り返った時にほくそ笑んでた」不審な人物を目撃した住民「普段しない足音が駅の方に…」湯河原殺人放火発生から9年【モクゲキ!】|FNNプライムオンライン

 

一方、消火活動中にもほくそ笑みながら現場から立ち去る男の目撃情報もある。消火作業は概ね6時~6時半の間である。服装は上下グレーのウインドブレーカーだったと言い、年齢は「30代前後」とされている。

放火犯の特徴として、素知らぬ顔で現場に舞い戻り、その被害の大きさや消火活動の騒ぎを見物することを好む性質はよく知られている。犯人は施錠して一度平井さん宅を離れ、騒ぎが大きくなるのを見計らって現場に戻ってきたのであろうか。

人間の心理として極度に緊張すると顔がこわばってしまい、ほくそ笑んでいるように見えることもあるかもしれないが、早朝の1時間ほどの間にほくそ笑む男が現場で立て続けに見られているのも不可思議な話である。

 

先述した通り、平井さん宅の向かいのパチンコ店に設置された防犯カメラが、死亡推定時刻近くに玄関から出ていく不審者の姿を捉えていた。正確な撮影時刻は公表されていないが、初期報道では「午前5時すぎ」「午前5時ごろ」とする記事もある。

人物の画像は小さく不鮮明だったとされる。横浜での観測にはなるが、4月21日の日の出時刻は5時2分。平井さん宅のある裏通りはまだ薄暗かったと推測されるが、犯人は空が白む頃合いを見計らっていたのであろうか。

 

そして湯河原駅でもパチンコ店と同一とみられる人物が構内の防犯カメラに捉えられており、事件の1年後になって動画が公開された。

県警では「容疑者」とまでは断定しておらず、現段階では事件の事情を知る人物とみて行方を追っている。一見すると、くせ毛頭の20歳代男性のような印象を受けるが、性別についても伏せられている。

公開されているのは、①切符を改札口に通して通過していく姿、②上りエスカレーターに乗る姿、③上りエスカレーターからホームに出てくる姿の三か所の映像である。

人物は上下とも黒系の服装で、白マスクで顔が隠れている。黒リュックを背負い、左手にチェック柄(白・水色系)の紙袋の荷物を持っている。返り血は見て取れず、荷物の多さから見ても衣服を着替えている可能性が考えられる。一部には、ウィッグ(かつら)の使用を疑う声などもあるが、映像の荒さからはっきりとは断定できない。

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こちらも撮影時刻は公表されていないが、公式には午前4時40分~6時頃のものとされている。始発時刻から火災発生までの間というぼやかした表現である。

だが事件5日後の産経新聞では「午前5時すぎ」と報じており、「東海道線は午前5時台までは小田原や横浜方面の上り電車しか走っておらず、5時45分発の東京方面、宇都宮駅(栃木県)行き電車に乗った可能性が高いと見られている」と報じている。

参考までに、JR湯河原駅の上り線(小田原・横浜・東京方面)は始発が4時40分で以降およそ15~20分おきに停車し、終電は23時13分。下り線(熱海・伊東・沼津方面)の始発は6時9分で、こちらもおよそ15~20分間隔で、終電は0時36分となっている。

これが確度の高い情報だとすれば、公開されていない湯河原駅のホームのカメラで「乗車する姿」が捉えられていたか、別の駅のホームのカメラに乗車中の姿が映り込んでいて逆算して電車時刻が割り出された可能性がある。しかし降車駅の情報は公開されておらず、移動途中で見失われたものと思われる。

 

過去エントリ、東京葛飾区に住む18歳の女学生が大学の帰りにいなくなり音信不通となった事件では、当初は自発的失踪扱いされていた。だが家族・友人らの要請で警察が行動追跡を行うと、キャンパスのあった文京区湯島からなぜか100キロメートル近く離れた茨城県の鹿島神宮駅まで電車で移動していたことが判明して謎を読んだ。

このときは電子マネーSuicaの利用履歴、各駅の監視カメラを辿って追跡する「リレー方式」と呼ばれる捜査手法が採られた。女学生は鹿島神宮駅からさらにタクシーで隣の神栖市へと移動していたこと、ゲーム内のチャット機能を通じて見知らぬ相手とも連絡を取り合っていたこと等から犯人の男が浮上した。

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21日早朝の状況を総合して考えると、午前5時過ぎに平井さん宅を出る姿がパチンコ店裏の防犯カメラに映り込み、近隣住民に目撃されてほくそ笑み、駅構内のカメラで再び捉えられたというのがスムーズな流れだ(消火作業中にほくそ笑んでいた男はどうしてもタイムラインに当てはまらない)。

しかし煙が上がって119番通報に至るのは午前6時である。この小一時間のギャップをどう説明するか。

死亡推定時刻は、司法解剖による所見のほか、現場検証や目撃情報、防犯カメラ映像などを踏まえた上で推認される。警察は午前5時ごろに家を出ていく玄関の映像を元にして殺害された時刻と推認したのであろう。

単に火を点けてから40~50分後に燃え広がったのかもしれないが、灯油を撒いた状態でそのような時間差が生じうるものだろうか。豊明母子殺害事件のように、犯人は時限着火装置のような仕組みを駆使したのだろうか。

 

また事件直後から男性襲撃との関連性は一度も否定されたことはなく、被害者男性も駅構内の映像を確認したものと考えられ、映っていた人物を犯人と認めた(少なくとも否定はしなかった)とみてよいだろう。

通例、警察では先入見を与えて情報提供の幅を狭めないために、不審人物の似顔絵や不審車両の情報を出すことを躊躇する(多くの長期未解決事件で「情報公開の遅れ」が指摘される)。

一年での映像公開は他の事件に比べると比較的早いアクションであり、目撃者情報やパチンコ店裏の防犯カメラ映像の人物とみて相違ない、支障がないということの裏返しとなる。つまり両事件の犯人は公開映像の人物と見てほぼ間違いない(少なくとも捜査機関はそのように考えている)ということであろう。

 

公開映像の人物の挙動について、筆者は特段異様さや不自然さを感じなかった。何もない所でけつまづいたり、ポケットに手を入れっぱなしで移動している人も大して珍しくはない。そうした点は各人でご確認いただくとして、映像ではっきりと指摘できる不審点は、こども料金の切符を購入していることである。

人物が改札口を通過する際、切符を入れると画面手前に見える白いランプが点灯する。これは大人料金の半額のこども切符を使用した目印で、通常は改札係が通過時に利用者を確認しているが、このときは係員が不在だったのか、特に注意を受けることもなく通過している。

警察でも紙切符を回収しようとしたと思うが、はたして降車駅の確認ができず見つけられなかったのか、回収したが指紋採取にはつながらなかったのか、指紋も押さえているが情報を伏せているのだろうか。

通常の逃走犯であればなるべく目立たない行動を取るように思われるが、人物はなぜあえてこども料金で乗車しようとしたのか。見た目には明らかに「中学生以上」で、おとな料金の範疇に見える。

考えられる理由として、平井さん宅で金を得るつもりがポーチの金が見つけられず、やむなく手持ちの金で買えるこども料金の切符を購入したこと。いわゆる「キセル乗車」で降車時も強引に突破しようと考えていたのか、あるいは最寄り駅の定期などを持っており、とにかく乗車ゲートさえ抜けてしまえばよいという考えだったのか。

別の角度から考えると、この人物は日頃からおとな料金で切符を買うことがなかった可能性があり、たとえば50%割引(こども料金)が適用される障害者なのではないかという見方ある。

JRでは身体障害者、知的障害者の第一種・第二種手帳を持っている人は(介護者も含めて)50%割引を受けられる制度がある。また児童養護施設や更生施設など社会福祉施設の入所者にも適用される。

障害者割引制度のご案内:JR東日本

JR等運賃の割引|東京の福祉オールガイド|福ナビ

JRの指定を受けた施設の入所者が、JR及びその連絡社線を利用する場合に5割引となります。

  1. 保護施設(救護施設、医療保護施設、更生施設、宿所提供施設)
  2. 児童福祉施設(児童相談所の一時保護所、児童養護施設、児童自立支援施設、障害児入所施設)

 

捜査本部では発生から1か月で現場周辺1800人以上から聞き込みし、被害者の関係者ら337人から事情を聞いて回った。交通機関やコンビニエンスストアなど77か所の防犯カメラの映像を確認したが、さらなる追跡や不審人物の特定には至っていない。

 

検討

何の目的で侵入してきたのか分からない、得も言われぬ殺意を持った男が立て続けに事件を起こした。「流し」による犯行の可能性が高く、その動機は怨恨でもなければ金銭でもなく、殺人行為そのものを目的とした「通り魔殺人」に近いものではなかったか。

思い出される事件としては、自転車で友人宅に向かっていた男子学生が通りで刃物を持った男に襲われた京都精華大生通り魔事件の犯人像とイメージが重なる。複数の目撃者によれば、犯人は自転車で移動しており、目の焦点があっておらず「あほ、ボケ」などと因縁をつけていたという。

近郊に暮らす、奇行が目立つタイプの若い犯人のように思われるが、こちらの事件も該当者は見つからないまま15年余が経過してしまった。

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相違点として、精華大事件の犯人は刃物を携行していたが、本件の犯人は1軒目では現地調達とみられる鉄パイプ、平井さん宅では家にあったとみられる刃物、フライパンを凶器としており、強い殺意の割に計画性がやけに低いように思われる。おそらく指紋をおそれてのことと考えられるが、手に靴下をはめるなど、周到さとともに稚拙さも目に付く。

以下では、通り魔的犯人による同一犯との見立てと憶測で、犯人の行動を描いてみたい。

 

第一事件後

事件前の4月20日は午後から雨が降り出し、21日未明ごろまで断続的に降り続いた。犯人は、男性を襲撃した第1事件後も遠方に移動していないことや駅構内に現れた点から見ても、バイクや自動車などはなく電車で湯河原を訪れていた。

第1事件の正確な時刻は不明だがすでに終電がないと思っていたか、血糊が付いた着衣のまま駅に立ち入るのはまずいと考えたのであろう。公園には雨宿りできそうな屋根付き遊具はなく、トイレにずっと籠っていても人が来たら逃げ場がない。

目と鼻の先には交番と第1事件の集合住宅があり、見る見るうちに騒ぎは大きくなっていく。そのまま公園にも留まっていられないと感じた犯人は少しでも駅の近くへと移動を開始した。移動は小田原署から応援のパトカーが駆けつける1時よりも前だったのではないか。

 

殺害

平井さんは朝から夕方まで作業所通いがあるため、普段それほど夜更かしではなかったはずだ。1時過ぎともなれば就寝中だったにちがいない。また施設関係者によれば、日頃からドアの施錠を怠ることはなく、平井さんから呼び出されて家まで訪問した際、ノックをしてもすぐに開けようとはせずに「だあれ?」と相手を確認する用心深い面があったという。

もちろんこの日に限って、玄関や窓が無施錠だった可能性は排除できない。逃走中の犯人はおそらく始発まで安全に待機していられる避難場所を求め、表通りから裏通りをさまよっていた。そんななか、戸外に車も置かれていない小さな平屋建ての家屋を見つける。「年寄が単身で住んでいそうだ。それならば制圧できる」と考えたのではないか(あるいは事務所や倉庫など住人がいない建物と誤認したかもしれない)。

犯人は侵入可能な場所を見つけたか、あるいは家の周りで物色しているうち、中の住人から「だあれ?」と尋ねられ、咄嗟に「終電を逃して、金もなくて…少し雨宿りをさせてほしい」などと口走ったかもしれない。

困った相手を放ってはおけなかった平井さんは、知らない相手ではあったが中に通してしまったのではないか。見れば女性は足が悪く、犯人はすぐに凶行に及ぶのを躊躇した。彼女は「タオルがあそこにあるから使っていいよ」「着替えないと風邪をひくよ」などと世話を焼いたとも考えられる。

男は警戒させないように表面上は感謝を示してしばらくやりとりをして過ごした。やがて「横になっていてください」「始発で帰りますから」などと取り繕いながら女性を布団の中に留めた。やがて女性が再び寝入ったのを確認すると、おもむろに台所で凶器になりそうなものを物色した。

 

逃走

犯人は痩せ型体型で、都合よく平井さんはふくよかな体格だったこともあり、彼女の衣服をどうにか着ることができた。駅構内の防犯カメラ映像で、ズボンのすそが妙にすぼまっているように見えたり、ポケットに手を入れっぱなしにしていたのは、丈やウエストのサイズが合わなかったためではないか。

朝5時頃を目途に部屋を出ると、発覚を遅らせるために窓と玄関を施錠した。その姿がパチンコ店裏手の防犯カメラに映り込んでいた。

犯人は駅へ向かったが、まだ上り線しか通っていないこと、下り線の発車まで小一時間の猶予があることに気が付いた。駅から現場まで徒歩2~3分であり、再び現場に戻って証拠隠滅のために火を放つことを思い立ったのではないかと考えている。

 

人物像

犯人は第1事件の男性に「親に棄てられた」旨の話を一方的に語っていた。「棄てられた」のが事実か否かははっきりしないが、おそらく住人男性から「あんた家族はどうしてるの?」「コロシなんかしたら家族が悲しむよ」などといった言葉に反応して出た発言と推測される。

突発的にそうした虚言が出るとは思えず、少なからず犯人にはそうした親から見放された感情があった、あるいはどこかの養護施設か少年院等更生施設に入所経験があり、施設を出されて生活苦に陥っていたなどの境遇も想像される。身をやつして実際にプッシャーの手伝いをさせられたりしていたことがあったかもしれない。

さらに「金持ちから奪えばいい」というような反社会的な発想からも生活困窮者の性格の歪みが感じられる。「ガキの頃から覚醒剤を打ってきた」のではなく「売ってきた」人物だと仮定するならば、売り上げに手をつけて組織を逃げ回る逃走者といった線はないだろうか。そうした表社会とのつながりに乏しい人物であれば容易に情報が出てこないことも理解できる。

また前述のように、こども料金での乗車と障害者とを結びつける見方も捨てがたい。自暴自棄とも思えるような不可解な犯行様態、「殺さなければならない」という自己完結的な殺意など、知的障害の影響と捉えると首肯できる。「知的障害者は犯罪者予備軍だ」といった主張ではないのは無論のことである。

「殺さなければならない」という切迫した殺意が、強迫神経症や精神疾患の妄想などの影響によるものとすれば、額に包丁を突き立てるという行為も「成し遂げた」「敵を倒した」といった達成感の表れと捉えることもできる。この事件は、若者が起こす「人を殺してみたかった」経験殺人や残虐行為に快楽を感じる猟奇殺人ではない。

しかし当時20~30歳代とみられた犯人がそれほどの凶暴性をひた隠しにしながら事件後10年間もおとなしく過ごせるものだろうか。希死念慮につながる線は見えづらく、適切な治療や保護を受けられなければまたどこかで暴発している可能性は大いにありうる。別の地域、別の犯罪で収監されているのではないかというのが筆者の考えである。

 

殺される謂れのない理不尽極まりないこの事件を未解決のまま忘れてしまってよいはずがない。捜査の進展を願い、犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

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湯河原殺人放火 駅のカメラに不審な男、遺体の包丁に指紋なし - 産経ニュース

湯河原・女性殺害放火1年 有力な手掛かりなく | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞

GWの温泉街に異様な緊張感 湯河原放火殺人の犯人像を追う (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK

日立ネイリスト女性変死事件について

結婚を間近に控え、パートナーとの念願だった店を開業させた当日に起きた女性変死事件。警察は自殺として捜査を終えたが、女性の家族らはその決着に異議を唱えた。

 

事件の発生

2007年(平成19年)5月24日(木)午後9時20分頃、茨城県日立市鹿島町で美容室「サムシングブルー」を経営する鈴木文武さん(当時39歳)が隣家敷地内で倒れている女性を発見して119番通報した。

女性は鈴木さんの婚約者で、つめの手入れをするネイリストをしていた阿部香織さん(当時29歳)。その後、搬送先の病院で死亡が確認された。

 

現場となった店舗兼住宅はJR日立駅の西約1kmの込み入った商業区域にあり、建物1階が店舗、2階が住居というつくりで、当時は68歳の鈴木さんの母親と3人暮らしだった。周辺はバーなどの飲食店も多く、夜間でも人通りは多少あったと考えられる。

鈴木さんと阿部さんは市内で友人たちを招いて結婚パーティーを催したほか、2月に新婚旅行を兼ねてタイ・プーケットで挙式を済ませており、一週間後の6月2日に婚姻届けを提出しに行く予定だった。

 

また5月24日は美容室のリニューアル・オープン当日で、店舗前には祝いの花輪が並んでいた。二人にとって念願だった美容室とネイルサロンを併設させた業態に切り替えるつもりだった。美容室のスペースはその日から営業を再開していたが、香織さんが担当するネイルサロンの開業は間に合わず、終日準備に追われていたという。

午後6時頃に友人2人の来客があり、鈴木さんと香織さんは揃って2階の居間で談笑。その後、鈴木さんは6時45分頃に1階の店舗に降りていった。午後7時10分頃、香織さんは客人を見送りに降り、再び2階へと戻っていった。生前の彼女が目撃されたのはこのときが最後である。

その後、悲鳴などは聞かれなかったが、午後7時半頃(「8時頃」とも)に1階でミーティング中に複数の従業員が2階から「ドスン」という何かが倒れるような大きい音を耳にしていた。その後、業者が訪れたため店舗の様子を紹介するなどして、美容室は午後9時に営業を終えた。

 

鈴木さんが2階の住居スペースに上がってくると、リビングには夕飯の支度がほぼ整っていた(あとは肉に火を通すだけの状態だった)が、なぜか香織さんの姿は見当たらなかった。

寝室を見ると出窓が開いており(「外にコードが伸びていた」とも)、不思議に思った鈴木さんは香織さんに携帯電話を掛けながら、店の外に出た。

すると開いていた窓の下、隣家との隙間を覗き込むと、境界ブロックの隣家側(塀と建物との幅約50cmの間)に仰向けになって倒れている香織さんを発見する。首に電気コードが幾重にも巻きついた状態で口などから出血しており、普段着姿のままで靴や靴下は履いていなかった。寝室に置いていたフットマッサージ機具が近くに落ちており、首の電気コードはその一部だった。

鈴木さんはコードをほどき、心臓マッサージを施すも反応はなく、すぐに救急車を呼んだ。駆けつけた救急隊員は鈴木さんにも同行を求めたが、このとき「母親が心配なので残ります」と言って救急車に乗るのを断った。午後10時45分、搬送先の病院で女性の死亡が確認された。

 

翌25日に行われた司法解剖の結果、死因は頸部圧迫による窒息死とされた。首にはひも状のもので絞めた索条痕、右目の上に大きな打撲痕があった。

また紐を外そうと首元をかきむしってできる「吉川線」はなく、爪の間にも皮膚片や繊維片は見られなかった。絞殺に抵抗した際にみられる兆候は認められなかったということである。

従業員が大きな物音を耳にしていた午後7時半頃から発見までの間、2階別室では鈴木さんの母親が寝ていたが異変に気付かなかったという。就寝時刻には早いように思えるが、鈴木さんの説明によれば、母親は早朝に散歩する習慣があることから早寝だったとされる。

屋内は階段が一か所だけで、人の出入りがあれば店の従業員が必ず気づくような構造だった。だが7時過ぎに来客を見送った香織さんが2階に戻って以降は誰も上り下りしていなかった。香織さんは履物も履いておらず、境界フェンスが一部大きく変形していたことからも、2階の窓から転落したことは間違いなく思われた。

日立署は事件と自殺の両面から慎重な捜査を進めた。

 

亡くなった香織さんは、2002年9月に勤めていた服飾関連会社を退職後、ネイリストの道を志し、ニューヨークへ留学。資格を得て帰国し、03年2月から水戸市内の専門学校でおよそ3年間専任講師としてネイルアートを教えていた。

熱心な指導に定評があり、自身も雑誌などに作品を応募して賞を得ていた。彼女の働きぶりをよく知る系列校の校長(49歳)は「落ち着いているのに華があった。明るくて積極的だった」と当時の印象を振り返っている。

 

千切れたネックレス

落下元の寝室からは千切れたネックレスが発見されており、ベッドの脇には1cm大の血痕が見られた。普段ネックレスに通していた指輪がベッドの裏側で見つかった。壁には強くぶつかってできた凹んだ形跡があったことから、遺族らは香織さんが侵入した第三者に襲われて必死で抵抗するなどして、転落に至ったのではないかと主張した。

香織さんにマリッジブルーのような兆候も見られておらず、鈴木さんとの仲も順調そのものだったという。待望の店をオープンさせ、まもなく正式な入籍を控えていた、幸せの絶頂とも言える時期に自死を選ぶというのはたしかに奇妙に思われた。

では1階で店が営業している中、2階に忍び込む侵入者がいたということだろうか。

 

たとえば「不可解な侵入犯」といった観点で言えば、2001年(平成13年)にさいたま市栄和で起きた父娘殺人放火事件でも、建物1階テナントで飲食店が営業している最中の午後7時から7時50分の間に2階住居に「押し込み」が侵入しての犯行とみられている。

こちらの事件では現場となった2階に火を放ち、裏の物置に飛び降りたとみられる不審な男が目撃されている。その動機が判然とせず2024年現在も犯人検挙に至っていないが、一方的に娘への恋慕を募らせたストーカー犯罪ではないかといった見方もある。

香織さんの幸せを妬んだ元交際相手やストーカーの犯行であれば、あえてこの日に襲撃するのも不自然ではないかもしれない。尚、鈴木さんには離婚歴があったものの、離婚後も元妻とずっと揉めていたといったトラブルはなかった。

外壁には屋上と地上をつなぐ非常用ハシゴが設置されていたものの、警察の調べでは外部から侵入の痕跡は認められなかった。ハシゴは改装以前から設置されていたもので、寝室の窓から出入りしやすい場所にはなかった。素直に考えれば、香織さんがいた2階住居スペースは人の出入りのない大きな密室のような状態といえた。

 

転落のあった24日の天候は晴れ、気温は15.1度から20.4度。翌25日は、日中から深夜にかけて1mmから最大16mmの雨が降り続き、気温は13.8度から19.6度だった。現場検証は25日早朝から始まったが、2階住居スペースの検証は26日に改めて行われたと報じられている。

新居でそれも寝室となれば出入りした人間はごく限られ、第三者の侵入があれば頭髪や下足痕などの痕跡は見つかるように思われる。具体的な検証内容までは伝えられていないが、翌日に降った雨の影響で外部から侵入した形跡が消えてしまったのではないかとの見方もある。

 

しかしながらニュース報道で事件を知った人々の多くは、身内による犯行説、つまり第一発見者となった鈴木さんや、2階で寝ていたと主張する鈴木さんの母親へと疑いの目を向けた。鈴木さんは疑惑の声を受けて、27日に2階寝室を公開して発見時の状況などを説明した。

だがネット上では、彼の様子が妙に落ち着いていて怪しいとする声が少なくなかった。前年には、娘とその幼馴染を殺めながら「被害者遺族」として振る舞う「嘘つきな母親」で大きな話題となった秋田児童連続殺害事件が起きていた。人々はフィアンセを亡くした美容師男性の様子を、鬼母の姿に重ね合わせたのである。

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そもそも心証として、瀕死の婚約者を尻目に救急車に付き添わなかった点が人々には納得できなかった。たとえば母親に要介護状態などの特別な事情があればその行動も理解できるが、「最近は耳が遠い」とはいうもののまだ68歳で健康に大きな問題を抱えているとの情報も聞かれていなかった。

母親が動揺するのは当然のこととは思うが、「婚約者についていてやるように」と息子を送り出すのが親として取るべき行動ではないかと人々には感じられた。男性もすぐさま救急車に同乗できずとも、「母親を落ち着かせて後からすぐに向かう」などの返答があればその印象は大きく変わったことであろう。

結果的には、救急車に乗らないという選択が、その間も隠蔽工作をしていたのではないかといった疑惑の分水嶺となった。

 

現場となった建物は元々は紳士服店だったもので、その後、フィリピンパブとして営業していたとされる。鈴木さんたちは2階を住居に改築、1階も大幅に手を入れてリニューアルオープンを迎えた。その費用4000万円の大半を香織さんの親が融資していたことが伝えられると、婚約者への疑いの目はますます厳しいものとなった。

娘親がまとまった結婚費用を積み立てているケースはよく聞かれるが、数千万円ともなると親族間にも軋轢を生みかねない額であり、口の悪い人間は「金目当ての婚約」と決めてかかった。

家庭の事情は様々であり、両家も納得した上での婚約・融資とは思われるが、男女には10歳の年の差があり、男性側の母親と二世帯同居という条件だけ見てもアンバランスな印象が拭えない。出会いや交際歴などの詳細は伝えられていないが、実際に同居生活が始まってみて理想と現実のちがいに直面していたり、両家族を取り持つ上で彼女が精神的な負担感を伴っていたことは大いに考えられる。

 

日付は不明だが、警察は捜査の結果、現場に第三者の痕跡がなく、遺体状況にも殺害を示唆する点がないこと、香織さんから電話やメールで悩みや相談話を聞かされていた友人がいたことなどから総合して、事件性のない自殺との見解に至った。

だが翌2008年7月、香織さんの父親が日立署に上申書を提出し、再捜査を訴えた。遺族としては理由も定かでない中、自殺で片づけられるのは納得できなかったものとみられる。しかし捜査の進展などは全く聞かれなくなった。

 

検討①再婚?

事実か噂か定かではないのだが、ネット上では鈴木さんが事件後ほどなくして元妻と再婚したという情報が出回った。確認できるものでは、事件ブログ『ASKAの事件簿』さんの匿名コメント欄に2008年2月時点で投稿されている。婚約者の不慮の死からまだ半年余りの時期である。

今日ネット上ではほぼ既成事実とされているのだが、情報の出処まで遡ることはできなかった。テレビ番組や新聞報道で被害者ではない人物のプライベートまで伝えられるとも思えず、情報源は雑誌か、あるいは鈴木さんの前妻を知る知人や近隣住民による噂ということになるのか。

筆者としては、1994年、福島県で結婚直前に不可解な失踪を遂げた増山ひとみさんの事件を想起せざるをえない。ご存じの方も多いと思うが、ひとみさんは寿退社の当日に突如失跡し、およそ1年後に自宅に「おねえちゃんだよ」という怪電話があったことで広く知られている。

怪電話のあった当時は公開捜査に踏み切っておらず、ひとみさんの失踪を知る人物は限られていたことや、日本音響研究所による分析から同一局内からの電話であったとされ、「おねえちゃんだよ」の発言から電話口に出たのが「ひとみさんの妹」と知っていた人物が掛けてきたものと推測されている。

また、以前から自宅への無言電話やひとみさんの職場に電話してくる謎の女性がいたことが分かっている。婚約者男性が元交際相手とみられる女性とその後結婚したこともあり、ひとみさんの家族は婚約者男性らが事情を知っているのではないかと疑いを強めた。

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鈴木さんの再婚を確認する術はないのだが、筆者の見解としては、「結婚を控えて…」という類似性からインスピレーションを受けた人物による偽情報の拡散か、あるいは両事件を混同して曖昧なまま書き込んだ人物がいるのではなかろうかと考えている。

グーグルのストリートビューで確認できるところでは、2014年5月時点で美容室の営業は続いており、2017年3月時点では店舗はなく「テナント募集」の張り紙が貼られた。現在は、近郊で営業していたダーツバーが入居している。

 

成人女性が首にフットマッサージ機の電源コードを幾重にも巻きつけて、窓からうっかり転落してしまう「事故」はさすがにありえないと見て差し支えないだろう。以下では自殺、他殺についてどのような状況が考えられるかを少し検討してみたい。

 

検討②自殺説?

先にも述べた通り、香織さんは結婚やサロン開業を控えて外形的には幸せの絶頂ともいえた。だが家族が増えて生活環境は一変し、並行して結婚準備やネイルサロンの具体化を進めるなか、理想と現実のはざまで、様々な苦悩が怒涛のように押し寄せてもいたはずだ。

鈴木さんのかつての離婚理由や、鈴木さんの母親と香織さんとの具体的な軋轢があったか等は不明である。だが自分の親には相談しにくい悩み、たとえばではあるが、DVやマザコン気質など歪な母子関係の類であったならば周囲の人間からは見えづらい。

また私たち第三者が見ても感じるように、多額の開業資金の負担、姑との同居、離婚歴のある10歳年上の相手など、彼女のことを親身になって考える人ほどその結婚を不安視したことも考えられる。

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「もっといいお相手がいるんじゃない?」「その条件で本当に不満はないの?」

恋愛や結婚は周囲からの助言に頼りたくなる反面、「じゃあ、もっといい相手探してみる」などと他人の意に素直に従うことはあまりない。むしろ人から非難されることで、却って相手のいいところや自分との相性の良さを主張したくなるのが常である。相談相手もそういうものだと分かっているからこそ、最終的には「自分はこう思うけど、あなたの好きにしなさい」「大変だとは思うけど、がんばって幸せになりなさい」と背中を押す。

すべて妄想の域を出ないものの、そうした生活の激動やストレスの鬱積により、同居、結婚へと踏み切ったものの人知れず彼女の精神が病んでいた、希死念慮を抱えていたとしても不思議はないと筆者は考えている。

 

検討③外部犯説?

外部犯を想定したとき、もっとも引っかかる点は、その死因と状況の食いちがいである。女性は転落死ではなく窒息死であった。

まずストーカーや強盗などの外部犯ならば、明確な殺意がなかったにしてもいざというときの脅迫や防備のために刃物などの凶器を携行するものと考えられる。ひょっとすると目の上の打撲や壁の穴などはハンマー類で生じたものかもしれない(詳報はない)が、撲殺を企ててはおらず、最終的にはその場にあった電気コードで絞殺したことになる。

背後から立位での絞殺であれば、幾重にも巻き付けること自体が困難である。抵抗の痕跡がないことから香織さんは一撃で意識を失うなどして無抵抗状態に陥り、犯人は首にコードを巻きつけることができたということか。

ではなぜ彼女は窓の外、隣家の敷地内で見つかったのか。犯人は女性を仮死状態にまで陥れたとすれば、そのまま部屋に置き去りにして逃げれば済むことで、わざわざ窓から放りだす必要はない。

首吊り自殺を偽装するのであれば、室内の家具やドアノブにコードを絡めれば済む話である。むしろ窓の外に吊り下げれば(狭い隙間ではあるが)人目に付くリスクを伴う。しかもこれから自分が脱出せねばならないのに、その窓に仮死状態の人間をぶら下げようと試みるものだろうか。

 

警察が自殺の可能性が高いとしつつも依然捜査中だった6月上旬、さる掲示板サイトで次のような投稿があった。投稿者「226」氏が日立の現場近辺で聞いた話だという。

244 :226:2007/06/--(-) 21:12:13 ID:----6Tc70
住民の高齢者の方が、まったく事件のことなど念頭に無く話された話ですが
事件現場の方向から男二人が急ぎ足でやってきて、外国人が働くお店に入っていき、その後外国語で争うような声が聞こえ、
中古のバンがやってきて何人か乗り込み去って行ったそうです
この方はその極近くでお店をやっています
で、この方から聞いた話で、外国人の店の従業員が近所のママさんの仮眠室に
天井から忍び込んだところを咎められ、内装工事中で間違ったなどと言い訳した
のだが、ここで騒ぐと殺されると思い、その言い訳を通して帰らせたという話です。

同地は戦前から機械産業の企業城下町として発展を遂げ、京浜地域から訪れる出張者も多く、人口20万に満たない地方都市にしては広く飲食店街が形成されている。いわゆる店舗型風俗店はほとんどないが、ホステスを雇うクラブ・パブは少なくなく、上の投稿もそうした店の関連と考えられる。

近隣の治安状況に関する貴重な情報ではあるが、話は大きく分けて①外国人が働くお店でかつて拉致騒ぎがあった、②外国人の店の従業員が近所のママさんの仮眠室に天井から忍び込む騒ぎがあった、という2点である。言外に、外国人犯罪の可能性を示唆している。

一階店舗が営業中であろうと見境のない軽業的な侵入や、首を絞めたうえで2階から突き落とす野蛮な手口を鑑みれば、尋常ではない犯行には違いなく、類例をあまり聞かないことからも外国人犯罪を疑いたくなる気持ちは理解できる。

2階の窓が開いているとみて忍び込もうと思ったのか、窓の向こうに女性の姿を見掛けて犯行を思い立ったのか。だが避難ハシゴや屋内外に侵入者の痕跡はなく、被害者に着衣の乱れ(性的暴行の形跡)もなく、金品被害の報告もない。犯人は無謀にも手ぶらで侵入を思い立ち、声をあげられそうになって無闇に殺害して何も奪わずに逃走したのだろうか。

外国人蔑視をする訳ではないが、不法在留や違法就労、金銭トラブル、色恋沙汰や外国人グループ内でのトラブルなどと全く無縁の外国人ホステスというのをあまり聞かない(多くの場合、来日するために借金を抱える)。同僚らもそれぞれに後ろめたい事情を抱えて口をつぐみ、ルーシー・ブラックマンさんのケースのように通報や情報提供が滞ることも少なくない。

周辺住民も多く大小様々な業種が集まる市街地で、物騒なできごとが皆無とは言えないエリアかもしれないが、外国人ホステス関連の事件と日本人ネイリストではやはり背景が大きく異なる。

「住民の高齢者」や投稿者「226」氏が嘘をついているとは思わないが、本件と同一視して結びつけることはやや難しいように思う。外部犯説には動機と証拠が欠落しているのだ。

 

検討④内部犯説?

たとえ従業員の中で金に困っていたり、オーナーのフィアンセに密かに好意を寄せる人物がいたにしても、オープン当日、それも営業中でオーナーらがいるにもかかわらず2階に忍び込むという心理には至らないだろう。

となると、動機の面で見ても、2階住居への出入りの可能性からも、婚約者かその母親かというのが自然な見方であろう。とりわけ開業資金の負担などは衝突の火種となってもなんら不思議はない。

2階で嫁姑のごとき口論や夫婦喧嘩が起こり、香織さんが開業資金の不満を口にしたため、かっとなって衝動的に…というのは非常に想像しやすい殺害状況だ。母親の犯罪に気づき、息子が隠蔽しているのではないかとする見方も根強い。

しかし、第一発見者である鈴木さんは美容室の仕事を終えた直後に異変に気付き、9時20分に119番に救急通報している。発見現場は隣家との細い隙間であり、通行人でも暗がりの中を注意深く覗き見なければ気づかれないような一画であった。おそらくは大きな音がした午後7時半から8時頃の段階で落下したものと考えられ、1時間以上、誰にも気づかれてはいなかったのだ。

逆に隠そうと思えば、そのまま未明まで放置して、人通りが完全に途絶える頃合いを見計らい、店の前に車を横付けし、人目を避けて運び出すことも不可能ではない。しかし鈴木さんは終業からまもなく婚約者を見つけ、隙間から引きずり出して、すぐに通報した。無論、命を救うための行動である。

計画的な殺意があれば何も母親が2階にいる、疑いをもたれるような状況下で犯行に及ぶはずもなく、よりアリバイを強調するのであれば、業務の最中に2階に上がって従業員に「いないんだけど、見てない?」などと異変を示唆することもできたはずだ。

68歳の母親であっても電気コードによる絞殺や窓から落とすこと自体は不可能ではないだろう。だが体力差の少なさを考えれば、台所の刃物を持ち出したり、フットマッサージ機が付随したままの電気コードではなく延長コードやもっと手ごろなロープ類を用いるのではないか。

「寝ていて気付かなかった」のは不自然にも聞こえるが、アリバイとして通用しないことは火を見るより明らかである。母子にアリバイを強固にする意図があれば、「〇時に2階へ上がったとき、母親と話した」など口裏合わせはいくらでも可能だった。自分の行動パターンや「一般常識」から外れると疑いを向けたくなるものだが、筆者はむしろ不自然だからこそ「寝ていて気付かなかった」のは事実ではないかという印象を受けた。

 

検討⑤何が起きていたのか?

婚約者、その母親、あるいは7時過ぎに帰っていった友人の何気ない一言が思わぬ衝撃をもたらしたのか、それとも張りつめていた緊張の糸が開業の日を迎えてぷつんと断ち切れてしまったのか。この先、夫婦として暮らしていくことを想像して絶望に至ってしまったのか。

裏付けるものは何もないが、その夜のできごとを妄想して終わりにしたい。

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彼女は衝動的に希死念慮に囚われ、単にマッサージ機から伸びた長い電気コードを見て、「これで死のう」と決断した。遺書など書きつけようとは思わなかった。婚約者であれ、実の親であれ、親友であれ、私がどれほど苦しんでも理解してはくれなかったし、話を聞いてくれても本当の意味で救ってはくれなかった。恨み言など書いたところでいまさら何の役にも立たないではないか。

ドアノブ等を使った座位窒息の方法を知らなかった彼女は、家具の上などの高い位置にマッサージ機を固定しようとしたか、引っかけるなどして首を吊ろうとした。

体重を掛けると苦しくなり、もがいてネックレスを引きちぎった。暴れた勢いで家具が倒れたか、マッサージ機が上から落ちてきて目の上に激突した。

額からか口元からか血が滴り、床に零れた。

死にたいのに自由に死なせてももらえないのか。生きているのは苦しいことだな、と思った。窓の外を覗き込むと、たった2階の高さなのに地面は見えず、底知れぬ深淵に思えた。

幾重にもコードを巻き付け、マッサージ機をどうにか固定した。後戻りできないように。今度こそさようなら。これで終わりますように。

宙吊りになって足をばたつかせるうちに勢いづいてマッサージ機ごと地上に転落した。そのときには息を吹き返す力は残っていなかった。

 

彼女を殺した犯人はいないが、追い詰めた人たちや救いきれなかった人たちはいる。そんな事件だったのではないかと考えているが真相は分からない。

ご冥福をお祈りいたします。

『黄土色の女 Woman-Ochre』と不思議な夫婦

アメリカ現代美術の巨匠デ・クーニングが描いたセンセーショナルな作品がある男女によって盗み出され、30数年後、思わぬかたちで発見された。

 

オランダ生まれの画家

12歳で学校を中退して商業アーティスト見習いとなり、8年間、ロッテルダム美術工芸アカデミーの夜間クラスで学んだ青年は、22歳でオランダ暮らしに見切りをつけてパルプ雑誌のイラストレーターに憧れてアメリカへと密航した。

ニュージャージー州に暮らすオランダ船員の許で世話になりながら住宅塗装の仕事で金を貯め、1927年、マンハッタンへと移り住んだ。彼は大工仕事、住宅塗装、商業デザインなどを生業とし、大恐慌に見舞われながらもキュビズムの画家・映画作家フェルナン・レジェの下で壁画公共事業などに参加していたことが知られている。

一方でニューヨークの新たなアートシーンに潜り込むと、キュビズムのアメリカ化によってその後のポップアートの源流となったスチュアート・デイビス、印象主義からシュルレアリスムまで貪欲な実験を繰り返した抽象表現主義を代表するアーシル・ゴーキー、ニューヨーク学派をはじめ欧米の前衛芸術家たちとつながりをもちモダニズム運動を牽引したジョン・D・グラハムらの薫陶を受け、次第に画家として活躍の場を広げていった。

やがて画業一本に絞り、1938年に「立つ2人の男性」「男性」「座る人物(古典的な男性)」など物悲しい男性モチーフのシリーズ制作に着手。同年に知り合った14歳年下のエレイン・フリードと師弟となり、43年以降、互いの性生活を干渉しないオープン・マリッジの関係を築いた。彼女が肉体関係をもった評論家、美術商、『アートニュース』誌編集長らはこぞって夫婦のキャリア、作品の価値を後押しした。

戦前のアメリカ社会リアリズム(労働者階級や大恐慌時代に焦点を当てた政治的アート運動)への反動もあり、第二次大戦後は新たなアートの波が渇望された。地政学的に大きな痛手を負わなかったアメリカは好景気に沸き、西洋美術、現代アートの中心地はパリからニューヨークへと移っていく。

早逝したゴーキー、ジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、マーク・ロスコらと共に、抽象表現主義の旗手のひとりとしてウィレム・デ・クーニング(1904-1997)が表舞台に名乗りを上げた。

戦中ナチスの弾圧を恐れてアメリカに流入したシュルレアリストたちの影響を受けた彼らは、創作活動における原始的衝動を重視し、自発的運動と無意識(潜在的意識)を創造の原点に置いた。対象とは距離を置くためにドリップ・ペインティングやアクション・ペインティング等と呼ばれる内在的な欲動を表出させる技法を編み出し、絵画をオブジェクトから「行為」に、描かれるキャンバスを表現行為の「舞台」へと転換させた。

 

黄土色の女

ウィレム・デ・クーニングはまともに画材が買えなかった1940年代の「白と黒の時代」を経て、48年に初めての個展で高い評価を得、美術学校で教鞭をとる立場となった。

この時期から習作が開始され、50年代に立て続けに発表されることとなった「女性」を主題としたシリーズは色彩を取り戻し、シンボリックな表現から具象化への回帰がなされた。53年にシドニー・ジャニス・ギャラリーで行われた展示は当時センセーションを巻き起こした。

Willem de Kooning『Woman Ⅰ』(1950-52)〔MoMA〕

Willem de Kooning『Woman Ⅲ』(1953)〔個人蔵〕

写実的な視点から読み取ろうとするならば、乳房は歪に強調され、瞳は生気を失って虚ろな笑みを浮かべているように見える。背景は野蛮に塗りたくられたかのように荒び、吐き出されたか、切りつけられたかのような激情的なタッチとその彩りは強い陰鬱さと暴力性を漂わせていた。

だがそれは絵筆に長じた一般的な油彩画家と異なり、デ・クーニングが塗装業者のバックグラウンドを持ち、チューブ絵具よりも刷毛と缶入りのペンキ塗料を好んだことにも起因するかもしれない。一見乱雑にも見える作品の裏で、実際には度重なる試行錯誤と行きつ戻りつの慎重な修正作業が繰り返されていたと工房での様子が伝えられている。

デ・クーニング自身は「全米少女の魅力と陽気さ」を追い求めたと断言し、ブラシで人々の内なる欲望と欲求不満、喜びと痛みの葛藤を表現したものだと主張した。だが共に新たな芸術運動を志してきたジャクソン・ポロックは、対象を対象らしく描こうとする具象芸術の枠に留まることで、純粋な抽象表現主義の理念が削がれるとしてこれに反発した。

さらにフェミニスト批評家たちからはその荒々しい筆ぶりが作家の潜在的悪意と残虐性の表れだとする非難が相次いだ。その評価は大きく揺れ動き、ウィレム・デ・クーニングは一躍現代アートの寵児にして「女性の敵」とみなされた。

だが彼は「女にイライラさせられることもある。その葛藤をウーマン・シリーズにぶつけたんだ」と女性批評家にしっぺ返しのような反論をし、「妻ではなく義母のことだ」と余計なことを言って火に油を注いだ。

 

先述のように抽象表現主義はアメリカ初の一大アート運動であり、文化発信地の転換点ともなった。そのエポックの立役者の一人ウィレム・デ・クーニングが物議を醸した「Woman」にはそれだけで歴史的な価値があった。

彼の名声と批判が頂点に達していた渦中、1955年にシリーズに追加されたのが『Woman-Ochre(黄土色の女)』である。

ウィレム・デ・クーニング『Woman-ochre』(1955)〔UAMA〕

豊満な胸は認められるものの、手足はそれまでの作より肉感を失い、顔には虚ろな笑みどころかもはや器官を読み取ることも難しい。美術批評家エミリー・ジェナウアーは、拷問を受ける女性を描いた女性蔑視的な描写だと批判した。その射程には『アートニュース』誌で編集の仕事をしながら、業界内で様々な浮名を流した妻エレインの姿もあったに違いない。

エレインは奔放なプロモーション活動(枕営業)が、アーティストとして自分よりも夫の活躍につながってしまう現実を理解していた。51年には芸術家カップルの作品を集めた「アーティスト:男と妻」展に出展したが、「当時は賛同していたものの後にして思えば少し女性差別的だった」とその内容に不平を述べている。さまざまな芸術運動の中で女性は疎外されるか男性のアクセサリーかのように機能してきたことを不満に思っていたエレインは、夫との混同を避けるため作品にイニシャルで署名することを選んでいた。

彼女はフェミニストが毛嫌いする「男のために身を捧げる女」ではなく、女性であることにより自覚的な、芸術のために身を捧げる自立した画家だった。57年には双方のアルコール依存の悪化でウィレムとは別居に至り、様々な大学、高等教育機関で教鞭をとりながらインスピレーションとの出会いを求める旅と画業を生涯続けた。

ウィレム・デ・クーニング『エレインの肖像』(1940-41)〔dekooning.org〕

 

ボルチモアの実業家エドワード・ギャラガーJr.はアリゾナ大学が大学美術館(UAMA)を新設したのを聞いて、以来24年間でおよそ200点もの美術品を寄贈した。アリゾナ大のあるツーソンは、彼と幼くして亡くなった愛息が冬を一緒に過ごした思い出の場所だったためである。巡回展示などへの貸し出しは認めるものの同館における恒久的な譲渡・売却の禁止という条件付きだった。UAMAコレクションに『黄土色の女』が加えられたのは1958年のことであった。

アリゾナ大学芸術学部教授ポール・アイヴィー博士は、『黄土色の女』について高度な抽象性と生物的具象性の両立には2つのインスピレーションが源泉になったと解説する。ひとつはデ・クーニングが収集していたタバコの広告に見られる「満面の笑みを浮かべたグラマーな女性」のモチーフ、もう一方で大胆な描画と象徴化された表現は彼が愛好した古代芸術作品、とりわけ3万年前のオーストリアの地層から出土した豊穣の象徴「ヴィレンドルフのヴィーナス」、日本でいうところの「女性型土偶」の原始芸術様式に影響を受けている、と。

その後アメリカ国籍を取得し、名実ともにアメリカ美術界の歴史に名を刻んだウィレム・デ・クーニングの物議を醸した逸品が並ぶことは新設の大学美術館にとっては願ってもみない出来事だった。所蔵コレクションの大きな目玉となり、世界中から愛好家が集まり、60年代には全米各地を巡ったほか、パリ、ブリュッセル、遠く東ヨーロッパからも貸し出しの要望が掛かりアメリカ現代美術の普及にも大きく寄与した。

 

男女

時代は流れ、1985年、誰もまだ眠気の残るサンクスギビングの翌朝、閑散としたアリゾナ大学美術館で事件は起きた。寸法76×100センチ、時価30万~40万ドルともされる美術館の至宝が額縁から切り取られて盗み出されたのである。

11月29日、冬の訪れを感じさせる寒い朝のことだった。午前9時の開館時刻を前にすでに二人の男女が厚手のコートを身にまとい美術館前に待っていた。キャンパス内はほとんど開いておらず、美術館目当てなのは明白だった。警備員が施錠を解き、他の職員たちを中に入れると、男女が近づいてきた。
(どうする?)

(まぁ、いいさ)

そのまま外で待たせておくのも心苦しく、職員たちは男女をまだひと気のない館内へと促した。

女性は階段の途中で警備員をつかまえて美術品について質問を始めたが、連れの男は離れてさっさと上階へと進んでいった。警備員も館内職員たちも開館前の準備作業が頭にあった。その後、ほどなく二人は階段を下りて去って行ったようだ。

(あの二人、待ってた割にすぐに帰っていったな…いや待て、さすがにおかしい)

警備員は彼らがいた2階に異常がないか確認に行くと、一画に明らかな違和感を捉えた。

映画『The Thief Collector』(2022)より

ウィレム・デ・クーニング『黄土色の女』。

その額縁に近寄るとはっきりとキャンバスが切り抜かれた痕跡があった。すれ違いざまには気づけなかったが、男はコートの下に切り取った絵を丸めて隠し持っていたらしい。後に、それらしき男女が錆色のスポーツカーで走り去ったとの目撃情報はあったが、彼らが何者で何のために奪い去ったものかははっきりしなかった。

当時は館内に監視カメラも設置されておらず、額縁周辺にも指紋は検出されなかった。職員らの目撃情報によれば、男性は女性よりも若い印象で20代後半から30代前後と見られ、暗いブラウンヘア、眼鏡に口髭、ダークブルーの撥水素材のフード付きコートを着込んでいた。女性はやや年配に見え、スカーフを巻き、赤みがかったブロンドヘアで、婦人用眼鏡、赤色の撥水加工のコート、日焼けしたベルボトムを履いていた。

窃盗犯罪はその目的によって、常習的窃盗、経済的窃盗、利己的窃盗に大別できる。男女が犯人だったとすれば、人の少ないタイミングを待ち伏せていたかのように思えた。誰かの指示を受けてあの作品を狙って入ったのか、それとも…

容疑者とされた男女のイラスト


事件は大学警察からFBIに引き継がれ、その後も美術品市場を監視し続けたが、盗品の流通は確認されなかった。FBIの美術犯罪ファイルでも史上まれにみる大事件だが、1987年に捜査凍結を迎え、現代アートの逸品をまんまと奪い去った未解決事件は再び大きな話題となった。保険会社は損害保障として約40万ドルを支払ったが、その後もデ・クーニング作品の市場価値は天井知らずとなっていった。

例えば同じ1955年に発表された200.7×175.3センチとやや大柄な油彩画『Interchange』は、デ・クーニングがアルツハイマーと発表された1989年に2070万ドル(当時の絵画最高額)で落札され、2015年には3億ドル(当時の絵画最高額)の値が付けられた。尚、デ・クーニングが販売した当時の価格は4000ドルというから半世紀での価値高騰ぶりは凄まじいものがある。これを受けて美術館で失われた『黄土色の女』の参考価格も跳ね上がり、およそ1億6000万ドルと試算された。

『Interchange』The Art Institute of ChicagoChicago〕

 

回復

2017年6月、ニューメキシコ州クリフで暮らしていた未亡人リタ・オルターさんが亡くなった。かつてニューヨークの学校で言語聴覚士(障害児教育)をしていた人物で、80代で認知症を抱え、晩年はヘルパーの介護を必要としていた。

リタさんは5年前に亡くなった元音楽教師の夫ジェリーさんと1977年にヒラ国立公園近くの荒野へと移り住み、リタイア後の40年近くを鶏やアヒルたちと共にそこで暮らした。20エーカーの土地に3つの寝室をもつ立派な邸宅を構え、家の裏の小さな畑での仕事は夫婦に健康と日々の喜びをもたらした。

表にはプールを備え、庭園もメキシコ人庭師によってよく手入れされていだが、一般的なガーデニングの枠を超えてタイル張りのピラミッドやトーテムポールが配置され、ベートーベンやモリエールといった芸術家たちの胸像が立ち並ぶさまは慣れない客人たちを驚かせた。土地にゆかりのない夫妻は人付き合いもかぎられ、その邸は言ってみれば風変りでクレイジーだった。

 

リタさんの甥(妹の息子)ロン・ローズマン氏が夫婦の遺産執行を任されており、絵画や彫像、写真などいくつかの美術品をオークションハウスに送ったが、オルター夫妻が長年趣味で集めてきた品々を処分するのは骨が折れ、地元不動産会社に邸宅の清掃、売却を依頼した。

依頼を受けた不動産屋が邸内を見て回ると、夫婦が世界中を旅してきたことを窺わせる記念写真、ありふれた家電もあれば、大切に使い込まれたミッドセンチュリーの家具や陶器などもあった。壁中に現実離れした極彩色の現代アートが並ぶ寝室に仰天させられ、長い不動産キャリアで目にしたこともないアフリカの奇妙な置き物など様々な珍品が目を引いた。不動産屋は片付けも兼ねて骨董品店を営む友人デヴィッド・ヴァン・オーカー氏に連絡を取った。

8月に鑑定に訪れたヴァン・オーカー氏は売り物になりそうな調度品と出自も値打ちもよく分からない美術品のいくつかをまとめて2000ドルで引き取ることで話をまとめた。彼は絵画に特別詳しい訳でもなかったが、部屋のドアの裏にひっそりと掛けられた奇妙な抽象画に食指が動かされたという。20世紀半ばの作と見え、量産品のありふれた金色の額縁で一段と古びて見えた。彼は(後でまともな額縁に取り換えれば少しはマシになりそうだ、ゲストハウスにでも飾ろうか)と思い、ひとまずシルバーシティにある店の一画にその絵を置いた。

 

シルバーシティは多くの芸術家が暮らす街で、目敏い客が「デ・クーニングじゃないか、本物か?」とすぐに尋ねてきた。そんな客が一時間で二人、三人と続き、そのうち店を出たり入ったりして思案に暮れていた客が「20万ドルで売らないか」と申し出た。その客は現代美術の専門家だった。

(ひょっとすると本物のお宝を掘り当てちまったのか…)

ヴァン・ウォーカー氏が画家の名を検索してみると、アメリカ現代美術を代表する画家であることはすぐに分かった。

(…)

慌てて売り場から絵を隠し、店で唯一カギの付いていたバスルームに閉じ込めた。3ページ、4ページとスクローリングを続けていくと、アリゾナ大学美術館の盗まれた『黄土色の女』の記事に行き当たる。推定価格を見てウォーカー氏は目玉が飛び出した。

(い、1億6000…⁉)

公式の原寸よりも1インチばかり寸足らずで劣化も目立ったが、見れば見るほど細部に至るまで本物のように思われた。無論、本物ならば盗品、しかも世界的価値のある芸術作品を転売してしまってはすぐにヴァン・ウォーカー氏に足がつき、窃盗犯の疑いを向けられることは避けられない。

前述のように2015年に『Interchange』の破格の取引によってデ・クーニングへの注目度がさらに高まっていたこと、事件発生から30年を経て所有者の死亡などが予測されFBIとUAMAが『黄土色の女』事件の再周知を行ってきたことも人々の関心・記憶を引き出した遠因であろう。

 

「…昔、そちらの美術館で盗まれた絵が見つかったことをお知らせしたい。俺は狂ってる訳じゃない。説明するから話を聞いてくれ」

ヴァン・ウォーカー氏はアリゾナ大学美術館に連絡を取り、売却間際の個人の邸から『黄土色の女』が出てきたことを伝えた。美術館でもすでに32年行方不明となっていた伝説の作品が急に現れたと聞かされ、すぐに興奮と喜びに沸くことはできなかった。

そもそも電話の主が何者なのか、警察に通報して探ってもらうべきか、彼の話が事実としても絵画の真贋を知る手立てをどうしたものか、引き取り交渉をどういうプロセスで進め、受け入れることが正解なのか担当者たちも頭を悩ませた。やりとりの中で、絵の裏側の写真を送ってもらい、過去のファイルに残されていたデ・クーニングの署名と違わぬことが明らかになってようやく美術館の専門家たちにも笑みが零れるようになった。

翌日には噂を聞きつけた人々がヴァン・ウォーカー氏の店を訪れ、絵画の行方や出処などあれやこれやと尋ねてきた。1億ドルの絵画ともなれば、それは容易に殺人の動機にもなりうる。

彼は生きた心地がしなくなり、どうにか絵を自宅に持ち帰るとソファの裏に押し込んで警察のアドバイスを受けた。詐欺師によるものか、おこぼれに預かりたい切実な想いからか、彼の元には「所有者」の知財代理人を名乗る人物から電話が届き、「返却交渉」のテーブルにつくことを要求した。

もはや自分一人では抱えきれないと不安に思ったウォーカー氏は、信頼できる旧知の弁護士に絵を一時的に預かってもらうことにした。

そうした状況を聞かされ、一刻の猶予もないと判断した美術館は現地にFBI同行の上で専門家を派遣。基礎鑑定を行い、原作に間違いないことを確認した。

窃盗犯が付けた刃物の損傷、丸めたためにできた剥離などのダメージ、第三者による保存ニスの塗布も「長旅」の事実を裏付けていた。美術館在籍中に実物を一度も見たことがなかった専門家のひとりはその感動のあまり「F***」と叫んだ。

美術館関係者らと喜びの瞬間を迎えた骨董商はようやく肩の荷を下ろすこととなった。ヴァン・ウォーカー氏は「記念に額縁だけでももらえないだろうか」と交渉し、美術館関係者は「私たちが取り戻せるのは絵画だけです」と言ってその申し出を受け入れた。彼の骨董品店の壁には、裏に鑑定人たちのサインが掛かれた「安っぽい金色の額縁」が今もかけられている。

警察の厳重警備のもとアリゾナ大学美術館へと戻った『黄土色の女』は、必要な修復作業を受けるためにロサンゼルス・ゲッティ美術館へと旅立った。ゲッティ美術館では過去の膨大なデ・クーニング研究の蓄積があり、精密鑑定、当時の画家の着色法や塗料の成分分析、保存復元と元のキャンバス地との接合が可能となった。2022年に回復作業が完了してゲッティ・センターで記念展示が行われた後、蘇った「至宝」は10月に再び元の故郷ツーソンへの帰還を果たした。

下のリンクではゲッティ保存研究所による復元の模様がスライドで展示されている。

g.co

 

ある夫婦

オルター夫妻の後見人であるローズマン氏はアリゾナ大学で教鞭を振るっている。小さい頃は毎年休暇に家族で泊まりに行き二人には良くしてもらった、憧れの夫婦だったと語り、彼自身が教育分野を目指したのも伯母リタさんから影響を受けてのことだった。『黄土色の女』がいつからドアの後ろに掛かっていたかは誰にも分からない、考えることはあるが彼らが泥棒だとは信じたくないという。仮に闇市場や私的に流通したのを個人購入したものだとしても、どうして夫妻が何千万ドルも支払うことができたかは分からない。氏は(自分には確かめようもないが)伯父に莫大な遺産でもあったのかもしれないと語る。

リタさんの晩年の数か月を介護していたジョーリ・フロストさんは、勤務初日に寝室のドアの裏のその絵に気づいた。まるでぐちゃぐちゃにされたような女性の描画に、彼女は思わず「なんてひどい絵」と漏らすと、リタさんは不満げな表情で「ハニー、その絵の価値を知ればその言葉を飲み込むでしょうね」と告げたという。しかしリタさんの認知症を心得ていたフロストさんは女主人の言葉を真に受けることはなく「醜い絵」の価値には気づかなかった。

FBIの取調によれば、リタさんは別の介護者にも「隠された美術品」の存在を示唆していたとされる。「庭の温熱施設にアフリカの至宝を隠しているの。無断で近づいたら即解雇ですからね」彼女が認知症でなかったとしても、そんな発言を信じる方がどうかしている。

 

出会った当時のジェリーさんとリタさん

夫妻を知る人々の話では、基本的にその暮らしぶりは質素なものだった。だが二人は毎年必ず世界各地へ海外旅行へ訪れていたという。それもツーリスト向けの観光地ばかりでなく、チベットやアフリカの部族社会、危険と隣り合わせの南米、アラスカといった極地まで巡っており、訪れていない国などほとんどないように思われるほどだった。一般市民の給料や年金では到底実現不可能で、周囲の人々には「よほどの資産家の出身で使いきれないほどの遺産を引き継いだのだろう」という以外に理由が思い当たらなかった。

だが実際は、夫ジェリーさんは1930年にニューヨークの古家具店の家に生まれ、35年生まれの妻リタさんはニュージャージーの新聞配達業の家で育った。男女はニューヨーク州キャッツキル山脈のホテルで知り合った。ジェリーさんはそこでジャズバンドのクラリネットを演奏しており、偶然訪れたリタさんと恋に落ちた。彼女はウェイトレスの仕事を求めてホテルを訪れたがあいにく募集は締め切られており、紳士的なジャズマンに慰められたとみられている。

二人の出会いはきしくも『黄土色の女』発表と同じ55年、結婚したのは実業家エドワード・ギャラガーJr.氏がその絵を購入したのと同じ57年だった。妻は夫がやると言えば黙ってついていくような、当時としては一般な保守的な夫婦関係だったとされる。

オルターさん一家は世界中を旅した

ジェリーさんはサックスとクラリネットをこなすジャズマンと並行して、マンハッタンの公立小学校で音楽教師としてに子ども相手に指導し、音楽の面白さ、演奏することの楽しさを教えた。クラシック音楽やミュージカル「ウェストサイドストーリー」の演奏でみんなを夢中にさせ、リコーダーを吹く児童たちとのセッションに興じることもあった。元教え子のひとりは彼の晩年に近い2010年に電子メールで交流したという。ジェリーさんからの返信には「教えるということは、ひとの人生に永遠に触れることだ」とあり、教え子との半世紀ぶりの再会を心から喜んでいたようすだった。

だがジェリーさんは1967年に音楽教諭を早期退職していた。昇進を見送られて「ラットレースから降りた」と伯父は語っていました、とローズマン氏はいう。ニューメキシコに土地を購入したのは74年「リタさんの母親から相続した数万ドルの遺産」が元手とされた。夫妻は77年に移り住み、業者と新居建設に取り組む間、ティーネイジャーの子どもたちとトレーラーハウスで過ごした。

南部の僻地に突然現れた元ニューヨーカーの家族は地域にすんなり馴染めていた訳ではなかった。小さな町でだれもが新住民に関心を持ったが、彼らに定職がある訳でも、地元に親戚がいる訳でもない。釣具屋の店主は「旦那の喋り方が知的ぶっている」という他愛ない理由で嫌っていた。夫婦はクレイジーな振る舞いをしていた訳ではなかったが、自分たちと似ていないことを不快感に思う人もいる。

夫妻は子どもたちをクリフのフリースクールに通わせたが、小さなコミュニティでは小学生から高校生までが合わせて180人ほどで一学年20人にも満たない。同時期に学校に勤めていた人物によれば、オルター兄妹は他の子たちともそれほど馴染めてはおらず、人を家に呼ぶこともなかったという。大半の子どもたちは500ドルのおんぼろトラックに揺られて登下校していたが、兄妹は赤錆色のスポーツカー280zxで送迎されていたと証言する。

DATSUN280ZX

リタさんはシルバーシティのいくつかの学校で発達障害の児童を支援する言語聴覚士として勤務した。同僚によれば物静かで仲間とランチを共にするタイプではなくユーモアのセンスがあったという。親しくなると「プールがあるの。水着を忘れないでね」と新居に誘われ、荒野の一画に立つ邸宅に赴くと、大自然とかけ離れたオルター夫妻の美的感覚に度肝を抜かれた。だが邸では歓待を受けて楽しい時間を過ごし、チリ、香港、タスマニアなど旅行の話を聞かせてもらったという。彼女は60歳となる96年までその仕事を続けた。

夫妻のパスポートには姫路城や兼六園の記念スタンプも押されている。観光名所を訪れるだけでなく、ケニアのサファリを冒険したり、エベレストで高山植物を愛でたり、ビーチでスキューバを楽しんだり、部族の家に訪問したり、見知らぬアジアの小学校を訪問している写真もあった。あらゆるアクティビティを好み、厖大な量の日記やビデオが残されており、それらは延べ145か国分にもなった。彼らが「旅」を生きがいにしていたのは間違いなく、2002年にジェリーさんが心臓発作を起こして以後も夫婦は旅を楽しんでおり、2010年まで世界中を巡った。

一方でリタさんの日記や記録の照合をしてみると、奇妙なことに事件のあった1985年のサンクスギビング前後の記録がなぜかすっぽりと抜けておいた。当時は赤いスポーツカーに乗っていたが、件の窃盗事件から1か月以内にグレーのスポーツカーに乗り換えていたことも分かった。

 

甥ローズマン氏によれば、オルター夫妻の長女バーバラさんは、出産時の低酸素状態が原因とみられ、「生まれつきIQが低い」障害があるという。彼女はニューメキシコを離れて暮らしており、リタさんの介護人によれば、週に何度か金を無心する電話が入ったとされる。

夫妻の長男ジョーイさんは精神疾患と診断され、辺鄙なオルター家の邸を離れてシルバーシティで暮らすようになったが、母親の庇護をずっと必要とし、現在もローズマン氏らの定期的な手助けが欠かせない。二人に確認しても、夫妻の裏の顔や、いつから『黄土色の女』が家にあったかは分からなかった。

2012年にジェリーさんは脳卒中となり81年の生涯を閉じた。リタさんも未亡人となってから認知症が進行し、しばらくジョーイさんの介護に通ってはいたが車のフロントには「停車には真ん中のペダルを踏むこと」と書いた付箋が必要になった。その後、他人の車に乗り込もうとして車内にいた犬に咬まれる騒ぎを起こし、甥ローズマン氏が後見人となって介護人の手配や遺産整理を代行した。

彼はオルター夫妻のコレクションの一部、トラック一杯分をコミュニティのボランティアで運営されている老舗リサイクルストアに寄付した。税金逃れではなく町の外への輸送コストの問題であった。アメリカン・インディアンのブロンズ像やターコイズ製ネックレス、風景絵画といった美術工芸品の山は日曜市でオークションに掛けられることとなり、競売で合わせて12万2000ドル、その他一般販売で6000ドル近くの利益をもたらしたという。

夫妻のコレクションは膨大多岐に及んだが、ガラクタの山ではなく見る人が見れば価値ある逸品ぞろいだった。FBIの捜査では通常6桁ドルで取引される西洋絵画2点など極めて価値の高い品々があったことが確認されたが、いずれも窃盗被害の報告は確認できなかった。また仮に窃盗犯罪を繰り返していたとすれば、現金化や輸送などを行う共犯者が存在するはずだが、夫妻の周辺にそうした人間関係は浮かばなかった。

 

リタさんが亡くなった時点で口座にはまだ100万ドル近く残っており、32年前に盗まれた名画、100万ドル級の複数の美術品が飾られていた。家族は故人が泥棒とは思わないと話しているが、FBIや世間の人々はそうは考えなかった。縁もゆかりもない荒れ果てた土地での周囲から孤立した暮らしと、それに似つかわしくない世界旅行の趣味、統一性のない芸術趣味、説明のつかない資産額は、夫妻が芸術品泥棒として二重生活を送り、宝の隠し場所としてこの地を選んだのではないかという憶測を加速された。

リタさんの看護人がFBIにした話の中では、彼女は寝室への立ち入りをよく思わず奇妙に感じていたという。それはドアが開くことによってお気に入りの「絵」が隠れるのを嫌がったためだろうか。また彼女がリタさんに聞かされた「奇妙な話」として、夫ジェリーさんが描いた絵が盗まれてしまい、「絵を取り戻す」ために「学校に行った」と語ったこともあったという。看護人は、亡き夫のジェリーさんが若い頃に勤めていたというニューヨークの小学校の話かと思って聞いていた。

夫妻が暮らしたニューメキシコ州クリフからアリゾナ州ツーソンにある美術館まで220マイル(354キロ)、すぐに行ける距離ではないが世界中を飛び回る2人には日帰り可能な隣の州など「近場」の範疇だったかもしれない。だが旅をこよなく愛する教育者夫婦がなぜその絵を盗まなければならなかったというのか。

夫婦泥棒説を唱える人々は、夫妻が『黄土色の女』を換金しなかった理由、その宝物は寝室のドアの裏に長年掛けたままにしていた意味を追求した。盗みには成功したが流すルートが見つからなかったのか、金のための盗みではなかったのか、それともそれは単なる名画以上に彼らにとって特別な絵だったのではないか。

 

広く支持されているロマンティックな仮説のひとつに、『黄土色の女』は美貌のリタさんがモデルだったのではないかという話がある。先述のようにエレイン・デ・クーニングもそうならば、夫のウィレムも性的奔放で知られ、1950年代にはすでにその名声を手にしていた。

結婚前のリタさんはニューヨークに居り、職に困っていた。二人に交際関係があったことは確認されておらず、裏付けとなる具体的な証拠は何も出ていないが、ギャラリーの傍を通りがかったところを口説いたり、モデルの仕事に飛びついたりといったことも充分に想像可能だ。

もしも妻から「世界的な画家が元カレだった」「私をモデルにした絵に4000万ドルの値が付いている」なんて話を聞かされれば、ジャズマンとして大成できなかった夫は強く「嫉妬」したかもしれない。はたまたそれはアドレナリン中毒者、冒険大好き夫婦の戯言の延長に創作された架空のロマンス「奪還」計画だったかもしれない。

「こうしちゃいられない。今すぐきみのことを奪い返しに行かなくちゃ!」

夫婦はその絵を「二人占め」するために他人が見ることのない寝室のドアの裏側に掛けていたのではないか。

別の見立てもある。

夫は妻がモデルとなった絵画のことを以前から聞かされていたが、1985年の冬、壮大な夫婦喧嘩が起きた。おそらくそれは妻の浮気が原因だった。怒った夫はそれでも妻を直接傷つけることはしなかった。代わりにその報復感情を世界的な絵画に向け、キャンバスから切り剥がし、新たな保護ニスを塗り、古びた額縁に磔にした代理復讐劇だったのではないか。

寝室を出ようとするとイヤでも目に入るように飾られ「いつでも《彼女》がお前を監視しているぞ」という夫婦の教訓のためにその場所が定位置とされたという仮説である。

1985年のオルター夫妻


私たち傍観者は、殺人や身体的暴行被害があった訳ではなく、保険金が支払われれば「被害者なき犯罪」と捉えてしまいがちである。だが美術館の信用は傷つけられ、少なくない関係者たちが精神的苦痛や大小の責任を負い、寄贈した富豪親子の尊厳を傷つけたことを忘れてはならない。一枚の絵画に実に多くの物語があるように、事件には様々な立場の当事者が存在するため、ここでは犯人を仮定しない。

2022年、『黄土色の女』窃盗とオルター夫婦の関係に迫るAllison Otto監督のドキュメンタリー映画『The Thief Collector』が公開された。夫婦が愛したあの絵が来日することがあれば一目拝んでみたいものである。

 

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Willem de Kooning Foundation

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Who were Jerry and Rita Alter? Missing de Kooning found in couple's home

猫の王事件

ドイツで広く知られているKatzenkönigfall(猫の王事件)について。いわゆるマインド・コントロール、小規模なカルト的洗脳によって引き起こされた特異な事件である。

 

花屋を殺しにきた警官

1986年7月30日午後10時半頃、ドイツ北西部ノルトライン=ヴェストファーレン州ボーフムにあるアンネマリー・Nの部屋のドアベルが鳴らされた。

「どなたですか」

警官のマイケル・Rは名前を名乗り、「花が欲しいんです、贈り物にしたいので、赤いバラか何かを」と所望した。アンネマリーはアパートの階下で花屋を営んでおり、夜分にもかかわらず男のぶしつけな要望に応えて店を開けた。

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アンネマリー・Nがいくつかの花を見繕おうと屈みこむと、マイケル・Rは背後から彼女の右頸部に刃渡り20センチのナイフを突き立てた。男は倒れ込んだ女性を片手で押さえつけながらさらに11回刺した。騒がれまいとして喉元を狙っていたつもりだったが、外れて頬や首ばかりを傷つけていた。

近隣住民やアンネマリーの息子が騒ぎに気付いて駆けつけると、犯人はその場から逃走。アンネマリー・Nは電話口まで這いつくばって自力で警察に通報しようとしたが、そのまま意識を失った。警官が花屋に到着すると、血だまりに浮かぶ女性店主を発見した。隣には二本のバラがまるで十字架のように折り重なっていたという。

迅速な医療処置と傷が頸動脈を僅かに逸れていたことから彼女は一命をとりとめたが、身体的な後遺症と深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)を背負うこととなった。

翌朝、マイケル・Rは逮捕され、花屋店主アンネマリー・Nの殺害未遂について素直に容疑を認めた。

拘留施設に入る際、容疑者は一度身ぐるみを剥がされることになる。係官が自殺器具になりうるとしてマイケルの「金属製の十字架のネックレス」を外そうとすると急に興奮して抵抗を示した。

犯行事実を認めながらも男は取り調べの段になるとその動機について8か月にわたって供述を拒み続けた。警官相手に無理強いもできないとして、捜査員たちはその間も外形的な裏付け捜査を続けた。

取調官はアンネマリー・Nが一命をとりとめたことを伝えていたが、なぜかマイケル・Rは「Nは死んだのか」と質問を繰り返した。その凶行は殺意に満ちたものではあったが、まるで男は彼女の死をおそれているかのように見えた、と後に取調官らはその印象を語っている。

殺人犯になるのが怖かったのか、それとも何か別の理由があったのか。

 

1987年3月、弁護人が事件の背景に関する奇妙な声明を発表し、マイケル・R本人の口から「アンネマリー・Nを殺害しなければならないと考えていた」と説明され、さらに彼が偽りを述べている訳ではないとして父親が証人となった。

異例の「公開自白」により裁判は延期とされ、刑事たちはマイケルの証言を確認するための再捜査を余儀なくされる。苛立ちを隠せない捜査員の中には、マイケル・Rと弁護人を精神病院に強制収容するべきではないかといった過剰な反応さえ起った。

しかし3月20日にピーター・P、バーバラ・Hという二人の新たな容疑者が逮捕されると、悪夢のようなマイケルの証言が次第に輪郭を帯び、真実として浮かび上がった。

 

出会いと別れ

1958年生まれのマイケル・Rは一般的な中流家庭で育ったが、幼少期から内向的で気弱な性格のため「いじめられっ子」として嘲笑や暴力の標的にされてきたとされる。

父親は職業軍人になることを望んでいたが、彼は警察官に就職した。しかしその気の弱さは成人後も影のように彼について回り、仕事でも苦労が続いた。日々の鬱憤を紛らわせようと酒やギャンブルに捌け口を求め、借金ばかりを重ねて同僚からも軽蔑されていたという。

 

1982年初頭、18歳のバーバラ・Hはアルコールに溺れる日々を送っていた。初めての大恋愛の相手ウド・Nと別れたショックに打ちのめされていたためである。彼女は16歳でウド・Nの子どもを身ごもったが、彼の希望で望まぬ中絶を経験せねばならなかった。この不可逆の経験は少女に取り返しのつかない精神的ダメージを与え、男女の関係は破綻を迎えた。

マイケル・Rは、自分よりも若い少女が同じように酒に溺れ、元カレに悪態をつき、人生に苦しむ姿に同情を寄せた。バーバラは男の好意に乗じて、その年の5月に同棲を開始する。当初は彼にも少なからぬ下心があったかも分からないが、彼女は肉体関係を拒絶していた。彼を相手として見られなかったのか、彼女の性的トラウマによるものかは分からない。

バーバラはアルコール依存と自己中心的な盲目性、元カレへの執着と神経症的幻影に苛まれて"Pseudologia phantastica(空想虚言癖)" に陥っていた。彼女の放浪的な奔放さに対して、安定志向のマイケル・Rでは恋愛のパートナーにはふさわしくなかった。だが不幸な少女をそのまま突き放すことができなかった男は、黙してその暗い物語の聞き役に徹した。

イメージ

彼女は国際的な売春組織に目を付けられており、しばしば拉致されては拷問とレイプの餌食にされると話した。事実、着衣が乱れ、傷だらけで怯えた表情をして帰ってきたこともあった。バーバラによれば、「奴ら」は行政の内部にも太いパイプを持ち、警察組織の助けも期待できないのだという。

少女のセックス恐怖もそうしたことからきているのであろうとマイケル・Rは得心した。話を聞きながら容疑者リストの作成を手伝ったり、飲み仲間にも協力を頼んでバーバラがトラブルに巻き込まれないように交代で警護に当たったりするようになった。

だがあるとき夜勤を終えてマイケル・Rが帰宅してみると、護衛を頼んでいた男がバーバラとベッドを共にしていた。ここにいても安全ではないとして、マイケルは彼女に別居を薦めた。バーバラ・Hは部屋を出、やがて音信不通となった。彼らが再会を果たすのは4年後のことである。

 

マイケル・Rの元を去ったバーバラはやがて年長のピーター・Pと知り合った。

ピーター・Pは戦中生まれ、両親からも愛情を受けずに戦後の混乱期を苦難の中で育った。少年時代に悪さで捕まった際、出廷した父親に「一生刑務所で過ごすだろう」と予言され、出所後は絶縁状態となった。父親の予見はあながち間違いではなく、男はペテン師のようなその日暮らしを送り、生活保護で食いつないでいた。

彼は結婚して9人の子をもうけたが、アルコール依存症の妻とは別居し、彼についてきたのは15歳の息子ハンネスだけだった。ピーターはバーバラとの出会いを人生最大の喜びだと言い、彼女の性的関係の拒否も文句を言わずに受け入れた。

彼は宗教やオカルト分野に関心を持っており、人気科学雑誌『P.M.』の記事などからインスピレーションを受けて、彼女にアトランティス大陸沈没や超古代文明、輪廻転生といった話を聞かせ、歴史ファンタジー小説『魔女の擁護者』『アヴァロンの霧』などを読みながら議論を楽しんだ。バーバラは男が語り聞かせる超現実的な世界にのめり込むようになり、やがて自身の妄想的視野を拡張していった。

実際に古城や教会などを探訪して中世に思いを馳せたり、何世紀も前の歴史的人物について学び、感銘を受けることもあった。中世や超古代の人々との精神的結びつきを直感したバーバラは、自らの人生経験と歴史ファンタジーとを混同していった。最終的に、自身がアトランティスから続く「古き血の姉妹」の生まれ変わりであるとの妄想に囚われていくこととなる。

 

三角関係

マイケル・Rがバーバラ・Hと再会したのはそんな86年初頭のことだった。失踪直後は気掛かりであったが、何の音沙汰もないことから「奴ら」の問題は過ぎ去ったのであろうと自分に言い聞かせ、次第に彼女のことも忘れかけていた頃だった。

だが再会したバーバラによれば、彼の元を去ってから組織に拉致されて犬や虫を用いた執拗な拷問を受け、しばらくハンブルクで売春を強要されていたという。そんななか不幸中の幸いにしてドイツ部門を取り仕切る組織の幹部に目を掛けてもらい、命は取られずに済み、シンジケートを逃げ出したのだと語った。

しかしそれをよく思わない連中につきまとわれており、バーバラは目に見えない針のような射撃を受けることもしばしばあると身の危険を訴えた。組織は新聞広告を通じた暗号文によって暗殺指令を送信し合っているが、幹部が情報の一部を漏らしてくれるため九死に一生を得ているのだという。

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マイケル・Rは言われるがまま新聞広告に目を通すと、確かに暗号化されたメッセージが大量にちりばめられているらしい。彼はその秘密のやりとりへの参加を試み、穏当に、彼女の解放を訴えようとした。まさか警官である自分まで殺しはしないだろうとどこかでたかを括っていた面もあったのかもしれない。

それから程なく、彼は車のホイールナットが緩んでいることに気が付き、ひょっとするとこれは「奴ら」からの警告ではないかと直感した。バーバラに話をすると、組織に内通が発覚してしまい、頼りの幹部が目の前で火あぶりにされたと打ち明けた。

二人で公園を歩いていてもバーバラはしばしば「奴ら」からの不可視な攻撃を受けて感覚異常を引き起こし、その場で卒倒したり、発話できなくなってジェスチャーで会話しなくてはならないことさえあった。彼女が急に「逃げて!」と叫び、不意に犬が異常を察知したかのように吠え立てることもあった。

マイケル・Rも次第に目に見えない敵の存在が肉薄して感じられ、自分たちのすぐそばまで死の危険が近づいているように思えた。自分が不用意に踏み込んだことで事態の悪化を招いたと良心の呵責に駆られ、彼は夜通し市街をパトロールするようになった。

昼の警官の職務は疎かとなり、上司から𠮟責が飛ぶが、マイケル・Rには返す言葉などない。もしかすると彼らもシンジケートとつながっているかもしれず、自分がバーバラを保護していると知れればますます危険に晒されるのではないかと恐怖に駆られていた。

バーバラはゾースト郡にある湖畔の町メーネセで暮らしており、マイケル・Rは彼女に売春稼業を辞めさせ、警護を兼ねて再び半同棲のような生活を始めた。ピーター・Hは隣のアパートに暮らしており、マイケル・Rに対しても友好的に接したが、奇妙な緊張を伴う特異な三角関係が生じた。

ピーター・Pはバーバラとともに転生について、魔女の焚刑について、アトランティスの謎について語り合い、マイケルにも意見を求め、ときに講義をして警官の無知や誤解を正そうとした。

「奴ら」との抗争に気が気でなかったマイケル・Rは、ピーターが敵ではないことが分かり、ひとまず安堵したが、当初はピーターとバーバラが共有する遠大なファンタジーを戯言と思って密かに聞き流していたという。

 

ピーター・Pとバーバラ・Hが共有する物語はおおよそ次のようなものだった。

バーバラはおよそ12000年前、アトランティスの支配者との結婚を拒否したことから、当時崇め恐れられた「闇の神」に生贄として捧げられた。その闇の神こそ、数千年前から現代までいわゆる「悪魔」と呼ばれてきたものの原型たる「Katzenkönig(猫の王)」だというのである。

アトランティスで生贄とされたバーバラは、猫の化け物の姿へと変貌していったが、寸前のところでピーター・Pとマイケル・Rの前世が彼女を窮地から救い出したため、現世まで人の姿のまま存在できているのだという。しかし猫の王の怒りは鎮まることを知らず、アトランティス大陸を滅亡にまで追いやった。

だが3人の魂は、その罪滅ぼしのために、猫の王の再来、すなわち人類存亡の危機が迫るたびに救済に遣わされることとなった。あるときはマリアとヨセフ、洗礼者ヨハネといったかたちで、また14世紀にはザイン=ヴィトゲンシュタイン家のサレンティン伯爵などのかたちで。

そして今このときもチェルノブイリ原子炉の事故が起こり、第三次世界大戦の危機が迫ってきているのだとピーターはマイケルに語った。猫の王の目的はただ一つ、全人類の滅亡である。そこで神は、バーバラ、ピーター、そしてマイケルの魂を再び地球に送り込み、ここに3人を運命的に出会わせたというのだ。

猫の王の接近を阻むためには、湖畔に並ぶ三人の子どもの墓で毎晩祈りを捧げなければならない。日中は四大天使とサレンティン伯爵の霊力が味方して、猫の王の浸食を防いでくれている。バーバラ・Hは彼らから指示を受け、連絡を取り合う媒介者の使命を帯びており、だからこそ猫の王の危険に晒されているのだという。

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実際に3人が夜半に湖畔の墓所へ足を運ぶと、バーバラとピーターは不穏な存在を感知し、「蜘蛛の体をもつメデューサの声だ」とマイケルに伝えた。いつしかバーバラの体は猫の王に憑依され、墓に引きずり込まれそうになり、男たちはどうにか彼女を引っ張り出さねばならなかった。

彼女はその後も猫の王による憑依に苦しめられて度々豹変した。マイケルもバーバラの体から彼女と同じ顔をした霊体としか言いようがない何かが抜け出ていく幽体離脱を目の当たりにしていた。

ある晩、マイケルは疲労もあって、祈りの最中、眠りに落ちてしまった。目覚めると、バーバラは「おまえが監視を怠ったせいで大天使の手勢50名もの命が失われた」と叱責し、その報いを受けることを彼に宣告した。

「イオ・エッセラ・エト・コレーラ」

彼女の口から耳慣れない呪文が唱えられると、マイケルは自分の体が得体のしれない遠心力に巻き込まれているかのような奇妙な感覚に襲われた。皮膚がずたずたに剥がれ落ち、神経が引き裂かれるような気分だった。決死の抵抗として、彼は大天使が禁忌としていたタバコにあえて火を点け、バーバラの表情に目をやった。

バーバラの両目には「猫の目」が宿っており、指を交差させて不自然な動きを男に向けた。恐怖に慄いたマイケルは激しい動悸に襲われ、もはや絶命するのではないかと感じた。彼は自分の愚かさや不忠を詫び、命乞いをして神の大義に背かぬことを誓った。

真の使命を果たさんと心を入れ替えたマイケルは、ピーターやバーバラへの経済的協力も惜しまなくなった。自分には他でもない神の使命があると気づかされたことで、それまでの惨めな性格や周囲からの冷遇も神が課した「試練」であるかのように思われた。毎夜、湖畔でトランス状態のバーバラから託宣を受けると彼は実行に移し、あるときは危険を省みず着衣のまま夜の湖を泳いだことさえあった。

一方で、猫の王との戦局は決して一筋縄ではいかなかったという。バーバラの口から、天使たちやサレンティン伯爵がこれまでに受けたひどい仕打ちや、殺された協力者たちの話を聞かされた。マイケルが墓地に取り残されて寝ずの番をするようになると、地中へと引きずり込まれそうになったり、メデューサが接近してくる声を聞くこともあった。

バーバラは4月に元恋人ウド・Nと花屋を営むアンネマリー・Nの婚約を知ると塞がりかけていた心の古傷が再びうずき出し、搔きむしらずにはいられなくなった。バーバラは猫の王との戦いのなかでマイケル・Rにますます厳しいミッションを課すようになり、男の決死の努力にもかかわらず失敗が増えていった。

女媒介者は「お前の失態によって多くの犠牲を生んだ。人殺しだ」とマイケルを責め、課題は一層の苛烈さを帯びていくのだった。

1986年7月初旬の晩、バーバラは遂にアンネマリー・Nの殺人指令を仄めかした。ピーター・Pも彼女の元恋人に対する感情を知っており、マイケルを使って報復を果たす計画だと察しがついたにちがいない。それにもかかわらず彼は決して殺人計画を中止させようとはしなかった。

夜な夜な湖のほとりで繰り返される蛮行、マイケルは昼も夜も敵味方もなく「失敗」を罵られて心身の疲労がピークに達していた。猫の王の人類への脅威はもはやとめどなく押し寄せており、これまでの苦労に報いるためにも是が非でもミッションをクリアせねばならないと精神的に追い詰められていた。

7月23日の晩、バーバラは大天使ミカエルからの信託として、マイケルにアンネマリー暗殺指令を言い渡した。

 

裁判

ボーフム地方裁判所によれば、被告人となったピーター・P、バーバラ・H、マイケル・Rの3人は、神秘主義と誤った知識、誤った信念のもと「神経症的な関係」を築いていたと認定された。

バーバラ・Hは、謎の組織から性的搾取等を受けている被害者だとマイケル・Rに相談し、彼の好意に乗じて主従的な上下関係を築いた。ピーター・Pもマイケルのバーバラへの心酔ぶりや暗示性の強さを理解し、カルト神秘主義やファンタジーの文脈を駆使し、バーバラとの演技・トリック・心理操作によって「猫の王」の存在を彼に信じ込ませたのである。

しかしながらマイケルはアンネマリー・N殺害の指令を受けたとき、警官として、これまで与えられた数々のミッションとは趣意が全く異なることを、現実の犯罪に加担することの意味を認識していた。

彼はその葛藤をピーター・Pに伝え、「殺したらいけない」と口にした。しかしピーターは、バーバラの言葉は大天使ミカエルの、つまりは神の言葉に等しいのだと説明し、「やり遂げねばなりません」と答えた。

マイケル・Rは事件前に身辺整理や借金の返済まで済ませていた。逮捕されるのを見越した上で、加害者になることを、人類の救世主となることを選択してしまうのである。

彼には罪を判別する能力は残されていたが、もはや長きにわたるストレスと調教によって、道徳的判断を上回る怪物的な論理に行動を支配されていた。彼自身の思考では太刀打ちできない、盲目的な、超自然的な力によって導かれていったとしか言いようがない。

 

1987年12月、ボーフム地裁の陪審員たちは、直接の加害者となった被告Rのみならず、殺人教唆の立場にあったH、Pを有罪と評決した。

被告Rについて、犯行は回避可能ではあったものの思弁判断力の著しい減衰があった事実が認められ、懲役9年とされ、精神病院への収容が宣告された。

被告H、Pに対しては、Rを騙して金銭を貢がせるなど自己の利益に利用し、さらに殺害計画に加担させる卑劣さから、Rを大きく上回る終身刑という重罰が言い渡された。

通常の委託殺人にはない特例的なカルト的教唆に対して、適当な法概念がなく、その決定を正当化するために裁判所は慎重な洞察と妥当性の説明のために140ページに及ぶ判決文を必要とした。

 

三被告は評決に異議を唱え、連邦司法裁判所に上訴された。

犯責は殺人に限りなく近いものだが被害者が一命をとりとめたことなどもあり、1989年1月、裁判所は量刑に誤りを認め、被告人Hに懲役14年、Pに懲役12年、マイケル・Rには懲役8年とする判決が新たに下された。

 

法曹界では、直接の加害者よりも教唆(間接加害)犯がより長い判決を受けることになった特異な判例として議論の対象となっている。また量刑判断についてもバーバラ・Hにおける責任能力の程度(不当性の認識があったのか)について、あるいは恋愛感情と宗教的ヒエラルキーの入り組んだ三者の力関係などに関しても議論の余地がないとは言えないだろう。

 

戦士症候群

余談ではあるが、1980年代半ばの日本でもファンタジーとソウルメイトが混同される現象、その流行を背景とした事件が起きている。

当時は翻訳小説やマンガを介して日本でも時空を超えた歴史ファンタジーや異世界転生により救世主となる物語が若い世代を中心に人気を博していた。また70年代の意識変革による科学との調和を目指したニュー・エイジ運動、超常現象や超能力、UFO、UMAといったオカルトブームの影響などを受けて、新聞、テレビ、雑誌等でも不可思議な話題は日常的に取り上げられ、しばしば人々の関心を引いた。

個人メディアが乏しかった当時、若者たちは雑誌の「読者投稿欄」で見知らぬ同好の士との交流機会を求めた。とりわけ少女らの間では「転生前のつながり」を求めて文通相手を探すことが流行し、物珍しさから「戦士症候群」と呼ばれた。

雑誌によっては「〇〇、■■、△△の名に心当たりのある方、ESP戦士の方はお手紙ください」「自分は▲の血を継ぐ▲▲。志同じくする光の戦士、▲の継承者は最終戦争について情報交換しましょう」といったジョークなのか本心なのか、冷めた目で見るとどうかしているようにさえ思える投稿で溢れていた。

中には少女との文通や接触を求めて、女子中高生などになりすます男性読者もあった。雑誌『ムー』では戦士症候群の大流行によって読者ページが機能不全に陥った状況を鑑み、88年6月から戦士・前世の仲間探し投稿の不掲載を決定するほどだった。

 

1989年8月16日、徳島県徳島市で小中学校の女子生徒3人が解熱剤を大量に飲んで路上で倒れ、自殺未遂として救急搬送される事件が起きた。だが彼女たちは本当に自殺しようとして失敗した訳ではなく、発見前からすでに自分たちで病院へ通報しており、いわば筋書き通りの「計画的・未遂事件」「自殺ごっこ」であった。

自分たちは「前世は美しいお姫様のエリナやミルシャー」だったとして、「前世を覗くために一度死んで、戻るつもりだった」と後に語った。事件の影響からか、当時人気を博していた転生SFマンガ『ぼくの地球を守って』第8巻では作者の日渡早紀から「頭の中だけで組み立てられているフィクションです」と注意喚起が付された。

多くの場合は当初からそうした物語設定を既存作品の二次創作やオリジナルのフィクションとして楽しむつもりでいる。しかしグループが形成されると各人に役割が生まれ、物語世界を共有する過程で熱狂が生じる。エスカレートすると周囲の人間(日常的に接する家族や同級生など)を寄せ付けない特殊で緊密なクローズド・サークルが築かれていく。過剰な同調や共感、ロールプレイによる興奮や陶酔、自己催眠状態によって集団ヒステリーを引き起こし、集団自殺(未遂)という破滅的な行動に走ったと考えられている。

 

また三人という最小の集団関係の中でオカルト的発想に起因して殺害・死体損壊に至った事件として、1987年に発生した藤沢悪魔祓いバラバラ殺人がある。

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こちらは精神鑑定において、大きく見解の齟齬が生じ、加害者男性が懲役14年、加害者女性が懲役13年の判決を受けた。神秘主義的傾向を性格的なものと見るか、精神障害の一部として扱うか、各人が等しく同じ心理状態に置かれることはなく量刑判断が難しい点は洋の東西を問わない。

 

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DFR - BGHSt 35, 347 - Katzenkönig

『ムー』読者ページの“前世少女”年表 - ちゆ12歳

Der Katzenkönig vom Möhnesee | ZEIT ONLINE