反・非モテについて

非モテ論ではよく女のコの批判が挙がる。でも、的を射ていないように感じることが多い。非モテ論に目を通したことのある女性もそう感じることが多いんじゃないかな。

恐らくそれは、さまざまな反・非モテ派閥の女の子を一括して扱っているからだ。そういうわけで非モテ論に役立ちそうな視点から分類してみる。もちろん、だいぶ大雑把というか、はずしている部分も多いんではないかと思うけど、それを恐れてたら何にもできないでしょ?

フェミニズムから後戻りできない派

負け犬女と呼ばれるひとたち。かつて、近代的人間観(男女の性差は肉体的なものであって、精神的には差がないはずだ!という理想というか、妄想)に基づくフェミニズムが大流行していた。その主張にさらされたことによって、現実との折り合いが付けづらくなってしまった人たち。

この人たちの一番つらいところは、小うるさいフェミニスト達によって、女性は差別されている、という強烈なイメージだけを刷り込まれてしまったところ。もはや権力の構造の中で、かつての「男 vs 女」みたいな単純な構図はとっくに解体されてしまったんだけど、いまだに自分が弱者である理由をそこに見出そうとしてしまう。だから究極的なところで、喪男の境遇に同情がない。

フリーセクロスから後戻りできない派

未だに社会に強い影響力を持っている第2次フェミニズムは性欲や性的な嗜好についてかなり甘い見解を持っている。性交渉そのものはあまり重視していなくて、「二人の合意があればそれでいい」とばかりに放置気味。妊娠や中絶、レイプ、性病、売春などの目に見える問題だけを重要だと考えてる。でもそれは配偶者防衛や(「公正さを検証する能力」としての)倫理観などの本能を無視しすぎだし、配偶者に他人の子供を養育させるという倫理的な問題なんて知ったことか、という態度でもあるわけ。さまざまな問題が隠れているんだ。

それはともかく、こうしたフェミニスト達のおかげ(フェミニスト達のせい?)でわりと自由にセクロスできるようになった女の子たちがいる。負け犬の人たちよりちょっと若い世代のひとたち。しかし、彼女たちのかわいそうなところは、貞操観念というのは簡単になくしてしまえるようなものではなく、男性の本能的な、生物として無視できないもの(かもしれない)、ということを誰も教えてくれなかったところにある。性道徳は、実は男女の間の微妙なバランスを保つためのもので、そんなに無意味なものじゃなかったんだな。その結果、彼女たちのように自由にセクロスをしてきたひとたちには届かない領域ができてしまった。それが彼女達には苦い。いまさら乙女には戻れないから、喪の求める女性像に反発を抱いてしまう。

付和雷同派

この人たちは基本的に他人に興味がない、というか他人の人生に興味がないのね。だから悪意もない。みんなが非モテをたたくなら、一緒になってたたくほうが楽。「そんなのあたりまえだよ」とばかりにみんなと同じ行動をとることができる。彼女たちの特徴は、周りの人たちが使っているのとおんなじ、使い古された言い回しをするところ。

誰かの使った言葉をそのまま丸呑みで納得して、自分の言葉として使う。それはそれでかまわないんだけど、彼女たちといくら話をしても先に進むことはできない。周りを変えるしかない。

幸せな人派

この人たちは、基本的に幸せなの。その幸せをできることなら分けてあげたいと思うわけだ。だから、自分がうまくいった方法を伝えようとする。これはすばらしいことだ。ただ彼女らのいただけないところは、ほんとうに素朴に、自分自身を基準に考えてしまうんだな。

自分と他人との間で何が異なるのか、ということを考えない。考えても、生物学や社会学、心理学でもなんでもいい、とにかくそういった根拠を持たないんだ。根拠があれば、根拠に基づいた批判ができる。たとえば俺はよく生物学を根拠として引き合いに出すが、それは当然生物学としての批判を受ける覚悟を持っている。「それってまだ仮説の段階ですよね?」とか「主流の説はこちらですよね?」とか、「そもそも生物学なんて信用できない」とか。そういう批判があるのは妥当だし、それを続けることで議論は発展していくわけだ。

しかしそういう話になると、彼女たちは「なんでそんなことをわたしが考えなきゃいけないの?(親切でしてあげてるのに)」と言わんばかりの態度になる。これはいただけない。