たまたまアマゾンか何かで検索ワード「ペルー」で出てきた本。日西完全バイリンガル本。右開きで日本語、左開きでスペイン語。一世と二世がともに一冊の本を読めるように。日本の古本屋で、札幌の古本屋さんから送料込みで2kくらいの古書を買いました。
インパクト出版会 / ペルーから日本へのデカセギ30年史 Peruanos en Japón, pasado y presente
装幀 いちむらみさこ
頁7 página 346(005) 1 はじめに 1 Introducción
「人生は堂々巡り」とはよく言ったものだ。しかし、それは同じ場所や時間に戻るのではない。過去と似た状況に置かれた時、過去をより理解できる。螺旋階段のように同じところを廻りながら、異なる階へ移動するようなものだ。私個人のケースでは、(以下略)
Cuán cierto es el dicho que argumenta que "La vida da muchas vueltas". Sin embargo, en ocasiones, no es que se regrese al mismo lugar o tiempo, sino a una situación del pasado muy parecida desde la que reconocemos la anterior. Como en una escalera caracol, regresando al mismo punto, pero en diferente plano. En mi caso particular, (Se omite lo siguiente)
堂々たる押し出しで始まる第一章。著者のハイメ・タカシ・タカハシサンは1989年8月にデカセギとして来日、もともと少し日本語が出来たので、派遣会社の通訳として20年間、関東地方のさまざまな工場で安全マニュアルや作業手順書の翻訳を担当していたとか。2009年から真岡市国際交流協会に勤務とのこと。ハイメ"Jaime"という名前は、英語のジェームズ"James"に相当するそうで、元をたどると聖書(舊約)のヤコブ"יעקב"なんだとか。
第一章の翻訳者 "Traductor" は河崎佳代サン(Kawasaki Kayo)です。本書は訳者一覧の記載はあるのですが、どちらの言語からどちらの言語への翻訳なのかは書いてなくて、著者たちには自明の理なのかもしれませんが、邦人はこういうとき及び腰なので、どっちかなあと判断せず呆然としがちです。冒頭がいかにもラテンな書き出しなので、スペイン語で書いて日本語に訳したのかなあと思いましたが、あてずっぽうの推測なので、真相は不明。
日系ブラジル移民の出だしをよく「サントスからヨーイドンで始まった」と言うそうで、日本での階級差等がいったんリセットされ、誰もが裸一貫横一線でのスタートという意味合いがあるそうで(その後の差がどれだけつくかは、どれだけ勤勉だったかによる、という含みもあるのかな。だから、差がついても恨むなよと)そして本書のそれは「栃木県真岡市から始まった」と言わんばかりで、神奈川県の愛川町の内陸工業地帯や、綾瀬大和などの厚木基地周辺の工場や、横浜市鶴見の「ちむどんどん」地帯も、本書には出ません。今度ペルー料理店に、ペルーから来た人は真岡経由が多いの? と訊いてみます。真岡は「まおか」と読まず「もおか」と読むそう*1で、むかしそこでモウカ鮫*2の切り身*3を買った記憶はありませんが、足利かどこかの道の駅でマコモダケを買った記憶はあります。
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(1)
80年代後半のペルーは2,000%を超える超インフレ経済不況で、さらに二つのテロ組織、センデロ・ルミノソとトゥパク・アマル革命運動が跳梁跋扈し、殺人、誘拐、テロが横行し、人々が安心して暮らせる環境とは程遠かったそうです。それに対し日本は空前のバブル景気で、東南アジア、中国、韓国、台湾、インド亜大陸から外国人労働者が殺到しました。さまざまな問題が起こりましたが、中でも相互ビザ免除協定を利用してやってきた人々のオーヴァーステイ、「不法滞在」が深刻で、日本政府はまずバングラディシュとパキスタンの相互ビザ免除を廃止し、イランは三井のイラン石化プラントがあるから少し慎重でしたが、その後やはり相互ビザ免除を廃止しました。かわりに「目をつけた」のが南米日系人です。
という文章が頁8いちページに渡って書いてあり、同じ文章のスペイン語もほぼ同じ分量です。
página 346 (005)
En mi caso, fueron 80 años después de que el pionero de la familia, Rokuro Tojo, pisara tierras peruanas y sentara las bases para sus generaciones futuras. Por circunstancias de la vida, también debí cruzar el Océano Pacifico, pero en sentido contrario, en procura de un futuro mejor, retornando al país del cual un día él mismo se despidió. Pero antes de entrar de lleno al tema, sería bueno explicar la situación por la cual los Nikkei peruanos nos decidimos a atravesar medio mundo, en busca de mejoras económicas como lo hicieron nuestros abuelos. En la segunda mitad de los años 80 el Perú atravesó una época terrible pues la situación económica había colapsado, con una inflación acumulada que llegó a más de 2 mil % con desabastecimiento y largas colas para conseguir los productos de primera necesidad. La intempestiva subida de precios, como consecuencia a una crisis galopante, hizo que los salarios no alcanzaran a fin de mes, y la ciudadanía se viera en serios problemas. Más aún, las acciones de dos grupos subversivos -Sendero Luminoso y el Movimiento Revolucionario Túpac Amaru-, sembraron el terror entre la población a través de asesinatos selectivos, secuestros de personalidades y atentados con explosivos, cuya finalidad era la de derrocar al estado democrático e instaurar en su reemplazo un estado socialista, agravando aún más la profunda crisis económica.
2. Cruzando el Pacifico: "El Retorno"(太平洋横断―「帰郷」)
Pero al otro lado del Océano Pacifico, en Japón, durante la década de los 80 se vivió una época de máxima prosperidad. Desde 1987 a 1990, la economía japonesa creció con fuene dinamismo en un ambiente de euforia económica a la que se le llamó la “época de la burbuja" El auge fue espectacular: el mercado interno experimentó un aumento en la demanda cada vez mayor y por otro lado en el mercado externo, los productos "Made in Japan" invadian el mundo obteniendo un elevado superávit comercial, es decir sus productos se exportaban más de lo que se importaba. Esto ocasionó una falta de mano de obra tal que, aprovechando esta coyuntura y la falta de una política de inmigración, los extranjeros del sureste asiático pudieran ingresaran bajo eufemismos legales, tales como la visa de practicante laboral o estudiantes de idioma japonés. Ello sucedió con los taiwaneses, coreanos y chinos. De igual manera, producto de acuerdos de excepción, con visa de turismo o como refugiados ingresaron, iraníes, pakistaníes, bangladesíes etc. Pero luego de algunos años, se hizo evidente una serie de problemas tales como idioma. religión, costumbres y lo que fue más grave, problemas de permanencia ilegal, transcurrido el período de los permisos de estadía emitidos. Es así que el gobierno japonés comenzó a ver la posibilidad de reemplazar esta fuerza laboral por descendientes japoneses de Sudamérica. principalmente de Brasil y Perú, países que en esa época padecían crisis inflacionaria, desempleo y, en el caso del segundo, hasta terrorismo.
(2)
頁9、本土の集団渡航とシンクロニシティーで、沖縄では縁故を頼っての個人渡航が活性化していたそうです。"Pralelo a estos acontecimientos, en Okinawa ya residían muchos Nikkei peruanos que por circunstancias familiares se establecieron en la isla."(página 345 (006))日系ブラジル人の本で、何故か故地の沖縄とは連絡をとらず直接本土で働く日系人が多いという記述を読んだことがあるのですが、どちらも真なのでしょう。こういうのは群盲象を撫でるようなもので、それぞれに真実がある。なんの連携もなかったら「ガンバッテヤンド」みたいな歌も出ないし、鶴見のちむどんどんタウンに南米人はいない。
(3)
外国人労働者と社会保険の関係は積年の課題で、日系人も当初は短期間で貯蓄して離脱するつもりだったので、手取りが目減りする社会保険の加入には渋い顔をしており、支払い義務の一部を節約出来る斡旋業者もそのほうが都合がいいため、Win-Winで未加入をやっていたそうです。面白かったのは、当初ちゃんと代替手段を模索していて、年間一万円で病院費用を100%カバー出来る海外旅行保険を社会保険のかわりにみんな加入していたんだそうです。そのほうが月々の保険料よりはるかに安い。もちろんこれは年金とは別払いなので、彼らが考えを変えて永住に舵を切った後、年金問題は禍根を残したわけですが。
página 343 (008) 日本語版には「給与の付与と控除」という見出しがありますが、スペイン語版はとんじゃったみたいです。
Entonces, se buscó la forma de substituir al menos el seguro de salud, encontrando un seguro opcional en el que usaban los turistas extranjeros que visitaban Japón, cuya cobertura cubría el 100 por ciento de los gastos por enfermedad o accidente. Al llegar los primeros Nikkei peruanos, ellos también prefirieron el seguro de turistas extranjeros que le reembolsaría el 100 por ciento de sus gastos hospitalarios, pagando una cuota anual de 10 mil yenes. A todas luces esta cantidad era una ganga, comparado con los aportes al SSS.
※SSS=el Seguro Social Salud
(4)
タカハシさんたちの受け入れ派遣会社は「NKK」という会社で、何の略なのか説明はありません。検索すると、日本協同企画という茨城の農業法人が出ますが、絶対無関係。真岡第一工業団地内の山川工業の敷地内に事務所があって、その工業団地はニッサンの下請け部品製造会社が多数立地していたそうです。1988年にまずリマの日系新聞「ペルー新報」に求人広告を出したそうで、以後は南米各地の旅行代理店が多く介在したとか。
(5)
インド亜大陸や東南アジア、中韓に比して、南米からの出稼ぎは当初から通訳体制が用意されていた点が特色であったようで、タカシサンは日本語が多少出来たので当初からそのグループに入ったのですが、カタカナを忘れていたので最初の仕事はカタカナをひらがなで書き、ここが日系人なのか、「恥」の意識に駆られてその晩一夜漬けでカタカナをリマスターしたとか。通訳の多くは日本語教育がそれなりになされていたブラジル人が多く受け持ったそうで、ペルーに関してハイメサンはちゃんと説明してます。
頁18 「おんぶに抱っこ」
(略)他の国と異なり、ペルーは第二次世界大戦の間日本に対して交戦国の立場をとった。それにより外交関係が断絶し、一連の規制と不公平な扱いがなされた。その一部が、日本人学校の閉鎖と日本語教育の禁止だ。そのため多くの日系人は日本語を話せないし、話せたとしても初級レベルである。
página 337(014) "Onbu ni Dakko"
A diferencia de otros países, Perú optó por una posición beligerante frente a Japón durante la Segunda Guerra, lo que motivó un quiebre de relaciones diplomáticas y la implantación de una serie de restricciones e injusticias. Como parte de ellas. se cerraron las escuelas japonesas y se prohibió la enseñanza del idioma. Es por ello que muchos hijos de japoneses y sus siguientes generaciones no hablan el japonés, aún en niveles básicos.
これ(戦争中のペルー政府の日系人迫害)、私は今はなき鶴間(と南林間の中間)のペルー料理店で店主に教えてもらって、すっごくビックリしました。フジモリサンみたいな日系大統領を選挙で選出する国なのに、戦争中わざわざ日系人をアメリカ合衆国の日系人収容所に送ってたんですよ。ステイツの国内でも、ハワイなどは日系人を収容所送りにしなかったのに、ペルーなにしてんねんという。もともとペルーは日系人が同化しやすい環境にあったようで、五年経つと現地人と見分けがつかなくなるという戦前の報告もある*4のですが、それをわざわざ北米の収容所に送るとか、どうかしてる。同じ南米でもブラジルの日系人が臣道連盟のような勝ち組を生み、連合艦隊が迎えに来てくれると日系人が三々五々着の身着のままでサントスの海岸に集結して砂浜を埋め尽くしたのとはえらい違いです。店主は船戸さんという人でした。こういう本が出ていることを知ったら喜ぶでしょう。
(6)
頁18、タカハシサンは自身が通訳だったためか、通訳付きデカセギを一概に良いと捉えておらず、功罪それぞれ述べ立てていて、ちょっと辛辣です。日系人は通訳に頼りっぱなしだったので地域社会に溶け込まず、日系人だけの閉ざされた社会を作ってしまった、いわば「オンブにダッコ」だと。イラン人やパキスタン人は必要に迫られて日本語を学んだとも書いてますが、イラン人やパキスタン人は日本社会に偏見を持たれ、軋轢も大きく、その原因の一つは独学独習するしかなかった日本語コミュニケーションの祖後だったわけですから、一概には言えないです。南米人もどっちみち軋轢はあったわけですし。ただ、両者の板挟みになっても頑張った通訳の労苦は記録され、評価されるべきだと思います。
página 337(014) "Onbu ni Dakko"
Tanto era y aún es la dependencia con los traductores, que los Nikkei no se preocuparon en aprender el idioma. Se "mal acostumbraron", lo que permitió conformar una comunidad cerrada sin necesidad de estar integrado a la sociedad. Esto no sucedió con trabajadores de otras nacionalidades como los iraníes y paquistaníes, entre otros grupos extranjeros, pues al no tener traductores, la necesidad los obligó a aprender el japonés. En Japón, hay un proverbio que dice "Onbu ni dakko". Se dice que su origen proviene de la forma en que los padres miman a sus hijos cargándolos en la espalda (onbu) o en sus brazos (dakko),
主任と呼ばれる通訳たちの仕事は多岐に渡り、ゴミの分別や夜間の騒音禁止など、各戸戸別訪問して日本の習慣を説いて理解してもらうタスクを繰り返したそうです。それは真岡では冗談めかして「外出禁止令」と呼ばれたそうですが、そのスペイン語"Toque de queda"をグーグル翻訳すると「門限」にしかならず、ちょっと温度差を感じました。今なら行政のすべき分野もそれなりに分かってきてるのでしょうが、当時は真岡市役所も外国人対応になれておらず、OA化も進んでなかったので、外登手続きに十五人二十人単位で南米人が来ると、すべて手書きで気が狂わんばかりの作業になったそうです。
página 337(014) "Impacto de dekasegi en Moka"「真岡に大挙するデカセギ」
A poco de su arribo, el local del municipio se vio atiborrado de extranjeros queriendo cumplir con el trámite obligatorio de registrar sus datos (tipo de residencia, dirección empleador etc.). Cuentan antiguos empleados del municipio, que se vieron en apuros cuando llegaban 15 o 20 extranjeros juntos para regularizar su situación, pues en aquella época aun no se utilizaban las computadoras y todo el proceso se hacía en forma manual.
(7)
そんだけのコミュニティがあるのなら、ペルー料理店やブラジル料理店もあるだろうと思いました。後者は大泉と同じ感じのがあるようで、よさげでしたが、前者は市内にあるんだかないんだかという感じでした。栃木県内の近くの別の町、小山のお店がヒットしましたが、レストバーみたいなお店だったので、ポールダンスでも見ながら酒を飲む人にはいいんでしょうが、ファミリー向けの食堂みたいのが敷居が低くていい私のような人間にはちょっとです、検索で見たネット情報の範囲では。
そういえば、よしながふみ『きのう何食べた?』最新話にもペルー料理が出て来て、ペルー旅行から帰ったジルベールと彼氏を二人が自作ペルー料理でもてなすという、腹黒い話でした。キヌアを入れたセビチェなんて、お店で見たことない。しかし都内の高いペルー料理だと出てくるのかなあ。検索したら、日本語だと女子力の高いサイト(エルと資生堂)が出ました。"quinoa ceviche recipe"だと英語サイトが出るので、そういう料理はあるんだなと。
(8)
特筆すべきは、通訳グループ発足から三ヶ月で医師が加わり、「カウンセリング」業務がスタートしたことです。
página 340(011) "Me Voy Solo por 2 anõs..."
Tres meses más tarde se incorporaría el Dr. Alberto Kosaka con quien se formaría el grupo "Counseling" (un equipo de traductores para acompañar a los trabajadores cuando requerían visitar el hospital local).
業務は大別するとふたつで、①労働者が地域の病院(市の医療センターなど)に行く必要がある時に付き添って通訳する。②心身不調、適応障害などの場合は初代責任者のアルベルト・コサカ医師が精神科だったこともあり、グループ内で支えとなって診断を下し、力添えを行ったとのこと。頁19によると、コサカ医師以外に、リカルド・シロマ医師"Dr. Ricardo Shiroma"(ほどなくしてペルーに帰国)フリオ・マツオカ医師"Dr. Julio Matsuoka"、フリオ・キッタ医師"Dr. Toshi Kitsuta"と四人も医師がいるんですよ。母国から専門職がこんだけやってくるかたちのバックアップ体制、研修生などの現場で聞いたことない。それだけペルー国内の経済破綻と治安の悪化が深刻でインテリ層まで国外脱出していたということでしょうし、ニッケイにはやはり高学歴がいるということでもあると思います。母国の資格を海外労働先で活かした先例としても改めて着目すべきと思います。グループにはもう一人、アクター(役者)のルイス・カナシロ"Luis Kanashiro"サンという人がいて、相談相手として働くだけでなく、パントマイムなどのちょっとしたパフォーマンスをして現場の空気をやわらげたり元気づけたりしたそうです。
第一章だけで読書感想一本あげるつもりでしたが、妙に量が多いので、ここでいったん切ります。続く。To be continued. Continuará.
*1:
なんとなく、「申す」を、「まをす」と書いて「もうす」と読む旧仮名遣いが一般化した時に、「まをか」と書くんだから読みは「もうか」じゃね? となった気瓦斯。
*2:
*3:
https://www.nichireifoods.co.jp/media/12135/
*4:
stantsiya-iriya.hatenablog.com
頁21記載、1909年外務書記生伊藤敬一という人のペルー移民についての報告。