ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

映画『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋(W.E.)』感想

マドンナが映画監督を務めたこの『ウォリスとエドワード』は、ウォリス・シンプソン夫人」の観点で描かれた珍しい作品です。







1年半以上前に、第二次世界大戦を国王として迎えたジョージ六世を主役とした映画『英国王のスピーチ』が日本で公開されました。この時は弟のジョージ六世に焦点が当たり、彼が王位に就くきっかけを作った、つまりは「王冠を賭けた恋をした」エドワード八世はやや身勝手に見えるような登場人物の一人に過ぎませんでした。



しかし、そのウォリス・シンプソン夫人との恋も、私がこれまでに接する情報にあっては、その多くが「王位を捨てるまでに追いつめられた国王」の視点で描かれていました。王は王位と愛する女性を秤にかけ、王位を捨てました。そうした決断を強いられた国王は歴史上、唯一でしょう。しかし、「王位を捨てさせるほど夢中にさせてしまった」女性は、この現実をどのように受け止めたのでしょうか? 王位を失った公爵は王室から弾かれ、またシンプソン夫人も公爵の葬儀になるまで王室とは接点を持ち得なかったと言われています。


アメリカ人が見た『英国王のスピーチ』

物語はエドワード八世の伴侶となったアメリカ人のウォリス・シンプソン夫人と、現代のアメリカに生きる女性ウォリスの視点で描かれます。現代人のウォリスは優秀で社会的評価も高い医師との結婚を契機に職を辞しますが、結婚生活は幸せなものではなく、夫の浮気に思える行動や自らの不妊の悩みを抱えていました。



そんな彼女がサザビーズのオークションにかけられるために行われた「エドワード八世とウォリス・シンプソン夫人の遺品」の展示に行き、ふたりの人生に強い興味を持っていきます。物語は過去のウォリスと現代のウォリスとが交錯する形で進み、場面転換が非常に多く、字幕で出る年代と場所を見つつ、「どちらのウォリス」の視点なのかを意識して見る必要があります。



こうした「過去と現代の物語」は必ず過去が現代に繋がる形となり、今回は初めから「オークション・展示」と言う形で結末が約束されていますが、最初の頃はこの映画を見ていて強い違和感がありました。「純英国の過去の映画」を見に来たつもりが、現代アメリカ(1990年代)を舞台にした現代劇を見せられているような気がしたので。



とはいえ、映画を見るうちに、独特なカメラワーク、男性に振り回される現代アメリカ女性の立場の弱さ、透明感のある音楽の美しさ、マドンナが描こうとする「シンプソン夫人の視点」が気に入りました。「英国が大好き」という人には強く薦めることはできませんが、一方的に悪役にされることが多かったシンプソン夫人の異なる一面を見せてくれる作品でした。


英国とフランスの家事使用人

期待していた「家事使用人」は、物語に数多く登場しました。この時代の上流階級の人間が日常生活を送ろうとすれば、家事使用人の存在は不可欠です。とはいえ、映画の中で家事使用人は重要な役割を果たしませんし、シンプソン夫人を陰で支えた侍女も存在しません。ただ役割や機能として、きびきびとゲストを出迎える、荷物を運ぶ、ディナーを用意する、給仕する存在として描かれています。



エドワード八世がウィンザー公爵となってフランスで過ごした日々を支えたのは、執事Ernest Kingでした。彼は手記『GREEN BAIZE DOOR』を記し(『英国王室・王族と縁があった三人の執事』)、ウォリス・シンプソン夫人は手厳しい視点で女主人としての資質の欠如を指摘されました。現場に細かな指示を出し過ぎ、また指示が二転三転すると。



その彼女らしいエピソードはほんの少しだけありましたし、英国とフランスの執事やメイドが物語上では様々に姿を見せていましたが、これも視点の相違と言うのか、シンプソン夫人をどう見るのかで、意味が異なるシーンがありました。



たとえばウォリス・シンプソン夫人がシンプソン家を訪問した客人のために、シェーカーでカクテルを作り、振る舞うシーンがあります。これは当時の英国上流階級の女性からすればあまりない行動でしょう。こうしたエピソードが実話とするならば、確かに、シンプソン夫人は家事使用人の仕事にも口を出す人(自らも手を動かした経験があるので)にならざるを得ないのかな、とも思いました。



ディナーテーブルを用意する執事やメイドのうち、蝋燭を準備していたメイドに指示を出していました。「蝋燭が長すぎる。ゲストの目線の高さになるように」と。


終わりに

この作品は、『英国王のスピーチ』が存在しなければ生まれなかったのではないかと、私は思いました。英国らしさにあふれてその時代を描き切った『英国王のスピーチ』的な作品と思って見に行った私は(多分、劇場に足を運ばれていた大勢の年配の方々も)、その期待を裏切られたといえるでしょう。



『ウォリスとエドワード』を見るならば、事前に『英国王のスピーチ』を見ることをお勧めします。あの作品が全年齢向けに作られた、友情や家族愛で困難に立ち向かい克服するカタルシスがありましたし、見る人が望む「英国らしさ」がありました。



一方、『W.E.』は現代を生きるアメリカ人のために作られた作品だと、私は感じました。不幸な結婚をした女性で、「不妊」という共通点を持つ女性と設定された二人のウォリス夫人。同じアメリカ人が過去にも現代にも抱えた悩みと、そこからの救いとしての「愛されること」の充足が物語にありました。



「王冠を賭けた恋」の結末は意外なものでしたが、交錯した二つの人生が生み出すカタルシスと、最後に流れるマドンナの曲の美しさと"masterpiece"という言葉の響きは、忘れがたい印象を残しました。



「愛する女性のために王位を捨てた男性」がいた一方で、「愛する男性に王位を捨てさせた重みを味わった女性」がいることを、思い出させてくれる作品でした。



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