POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

テクノロジー・ポップの彼岸、トニー・マンスフィールドの世界

フロム・A・トゥー・B

フロム・A・トゥー・B

エニウエア

エニウエア

ワープ

ワープ

 今回も前回に引き続き、12月8日、9日に開催される「POP2*0ナイト」がらみのエントリである。前回は、8日に予定している「ロック×電子音楽の歴史」の黎明期についてまとめてみたが、その発展の帰結として後半部分では、80年代に活躍したテクノロジーとポップスの蜜月を象徴するクリエイター、トニー・マンスフィールドの仕事をクローズアップする。まずは、8日、9日のイベント内容を改めて。


「音で聴く『電子音楽 in JAPAN』」改め、『POP2*0ナイト』2夜連続企画第1弾
<ロック×電子音楽、華麗なる40年の電子ロック実験史を聴く〜ビートルズ「レボリューションNo.9」からトニー・マンスフィールドまで>



【日程】2007年12月8日(土曜日)
【場所】TOKYO CULTURE CULTURE(江東区青梅1丁目パレットタウンZepp Tokyo 2F)
【時間】Open 16:00/Start 17:00/End 21:00(予定)
【料金】前売り2000円/当日2300円(共に飲食代別)
[チケット情報]前売券はローソンチケットにて11/13発売(Lコード:31735)
http://www2.lawsonticket.com/
(内容)
満員打ち止めで幕を閉じた「音で聴く『電子音楽 in JAPAN』」のアンコール企画。駆け足で海外、日本の電子音楽史をレコードで振り返った同イベントには、まだ2/3の未使用トラックが存在した。12月 8日=ジョン・レノンの命日を追悼し、語れなかった黎明期のロック界における電子サウンドの実験を軸にして、もう一つの「電子音楽史」を語る試み。記念すべきメジャーにおけるモーグ使用第1号、モンキーズ『スター・コレクター』(67年)発表から今年でちょうど40周年。本邦未公開のBBCドキュメンタリーから、ジョージ・マーティンの電子音楽実験の貴重なフィルム、ザ・フー、ピンク・フロイドから、映画音楽、コマーシャルなどポピュラー界での電子音楽使用例を残されたレアなレコードで聞く。とどめは主催者肝いりの、80年代電子ポップの至宝、トニー・マンスフィールド&テレックス、レアトラック大特集!(予定)。今回は曲もじっくり、トークたっぷりでお送りする。

(出演)
田中雄二/ゲスト:津田大介(『だれが「音楽」を殺すのか?』著者)、ばるぼら(『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』著者) 
著書『電子音楽 in the (lost)world』ほか、『モンド・ミュージック』などアスペクト関連書の物販ブースを併設
※なお、都合によりイベントの撮影、録音はご遠慮下さいますようよろしくお願いします。

(関連ホームページ)
TOKYO CULTURE CULTURE
http://tcc.nifty.com
アスペクト
http://www.aspect.co.jp/



「音で聴く『電子音楽 in JAPAN』」改め、『POP2*0ナイト』2夜連続企画第2弾
<アイドル×電子音楽、21世紀型ポップスの未来を大予測!〜イエローマジック歌謡曲から初音ミク、パフュームまで>



【日程】2007年12月9日(日曜日)
【場所】TOKYO CULTURE CULTURE(江東区青梅1丁目パレットタウンZepp Tokyo 2F)
【時間】Open 16:00/Start 17:00/End 21:00(予定)
【料金】前売り2000円/当日2300円(共に飲食代別)
[チケット情報]前売券はローソンチケットにて11/13発売(Lコード:31877)
http://www2.lawsonticket.com/
(内容)
告知していながら「音で聴く『電子音楽 in JAPAN』」で時間切れでできなかった、主催者が監修を務めた歌謡テクノコンピ『イエローマジック歌謡曲』『テクノマジック歌謡曲』落選曲メドレーを筆頭に、アニメ特撮主題歌&劇伴の歴史など、「電子音楽×歌謡曲」の実験の歴史を音と解説で綴る<ポップス編>。先日の飛び入りゲストだった戸田誠司氏(元 Shi-Shonen、元フェアチャイルド)を今回はフルに迎え、歌謡テクノ愛好家のメンバー3人と熱いトークを繰り広げる。国産モーグ歌謡第1号「思い出は朝陽のように」(70年)に始まるシンセサイザー使用楽曲、前回の終幕を飾った「音で聴く初音ミクの歴史」拡張版やパフューム論まで、レコーディング・テクノロジーや電子楽器を軸にして、歌謡曲を語るイベントは初めての試みかも。秘蔵の人気編曲家のレアなソロアルバム特集なども(予定)。今回は曲もじっくり、トークたっぷりでお送りする。
(出演)
田中雄二/ゲスト:津田大介(『だれが「音楽」を殺すのか?』著者)、ばるぼら(『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』著者)、戸田誠司(元Shi-Shonen、フェアチャイルド)
著書『電子音楽 in the (lost)world』ほか、『モンド・ミュージック』などアスペクト関連書の物販ブースを併設
※なお、都合によりイベントの撮影、録音はご遠慮下さいますようよろしくお願いします。

(関連ホームページ)
TOKYO CULTURE CULTURE
http://tcc.nifty.com
アスペクト
http://www.aspect.co.jp/


 日本に於ける、YMOフォロアー、テクノポップ・フォロアーの書き手は、どちらかというとエレポップやニュー・ロマンティック系に強い御仁が多い。後のユーロ・ビートなどの軽薄な流行サウンドに連なるもので、ショッキング・ブルー「ヴィーナス」のリメイクのように、曲重視と言うよりはゴリゴリの打ち込み重視。とにかくピコピコ言ってりゃ脳内麻薬が分泌続けるという、なんとも安上がりなもの。あるいは、ニュー・ロマンティックに至っては音より制服デザイン重視だったりして、曲を聴くとなんちゃってウルトラヴォックスというか、マイナーメロの演歌みたいなサウンドが多くて辟易したものだ。これらは主にヨーロッパの「商業ニュー・ウェーヴ」というべきもので、私はほとんどよくしらない。一方でその時代、主にアメリカを中心に、フュージョンの進化形態として“テクノ・ポップス”とでも評したい動きも起こっていた。トッド・ラングレン、デヴィッド・ペイチのTOTO、デヴィッド・フォスターのエアプレイ、あるいはスティーリー・ダンやウェザー・リポートの一部の作品など、スティーヴィー・ワンダー『キー・オブ・ライフ』あたりを嚆矢とする、セヴンス、ナインスや分数コードを駆使したエレクトロニク・サウンドを展開していた一群である。ほとんどのテクノポップ系ディスクガイドが、なぜかクラフトワークとディーヴォだけで完結しているために、今ではすっかり顧みられなくなった一潮流だが、あれはテクノ系の書き手に楽器をやらない、作曲経験のない人が多いからだろうと私は思う。例えば「歌謡テクノ」のヒットメーカーである清水信之のルーツを探して、ヨーロッパのニュー・ウェーヴ周辺を探索するのはお門違い。当時、キーボード系の音楽雑誌で、クラフトワーク以上にページを割かれていたのは、こちらの一群だったし、清水信之、鷺巣詩郎、マライヤの笹路正徳、清水靖晃といった当時の旬のアレンジャーは皆、エアプレイを崇拝して『ロマンティック』をポップス編曲の教科書として使っていた。近田春夫&BEEF(後のジューシィ・フルーツ)だって、ステージはマンハッタン・トランスファー「トワイライト・ゾーン」(ジェイ・グレイドンがプロデュース)をカヴァーしていたし、矢野顕子のブレインだった矢野誠は、カナダの貴公子ジノ・ヴァネリに傾倒していた。今聴くとまるで、ジェームス・テイラーがテクノをやってみたみたいなサウンド。……そう、あのYMOもごく初期は、ヨーロッパよりアメリカ西海岸のサウンドをお手本にして、“ポップスの黄金律”を駆使したテクノ・サウンドを展開していたのだ。
 80年代に入ってすぐ、シンセサイザーはアナログからデジタルへの転換期に入る。78年に登場した名機プロフェット5に初めて、プリセット機能としてデジタルのICが組み込まれ(オシレーターはまだアナログだった)、その後はオシレーターを含む全ブロックが、デジタル回路で組まれる時代になる。最初の完全デジタルの量産機は、英国のイングランド・デジタル社のシンクラヴィア。その後、オーストラリアでサンプラー一号機、フェアライトCMIが誕生するが、イギリス統治時代の名残から(ディスプレイもPAL方式オンリーだった)、アメリカより先にイギリスに渡り、かの地で普及することになる。よって80年代に入って、デジタル時代のクリエイターとして最初に脚光を浴びたのが、トレヴァー・ホーン、トニー・マンスフィールド、スクリッティ・ポリッティのデヴィッド・ギャムソンら英国組であった。3人はともに裏方出身で、イギリスのロック界では珍しく譜面に強く、70年代初頭からのロック、ポップスシーンでのキャリアがあった。それまでの、テンション・コードも知らないパンク流れの安手のニュー・ウェーヴ組と違って、豊穣なポップスの歴史、メソッドを踏まえた彼らのサウンドは、先に紹介した70年代末期のアメリカの“テクノ・ポップス”の一群の継承者のように見えた。特にトレヴァー・ホーンは、バグルズ、イエスをアメリカン・チャートの1位に押し上げる名プロデューサーとして活躍。昨年は、プリンス・トラストで音楽監督を務め、名実ともミスター・イギリスの称号を得た。当時、その双璧とも言える旬のクリエイターとして注目されていたのが、ネイキッド・アイズ、マリ・ウィルソン、ア〜ハを手掛けていたトニー・マンスフィールドである。
 トニー・マンスフィールドは、79年に英国でデビューしたニュー・ミュージック(New Musik)というグループのギタリスト兼コンポーザー。小生が彼の存在を知ったのは、ご同輩と同じく高橋幸宏のソロ・アルバムを通じてであった。YMOが演奏に参加した加藤和彦『うたかたのオペラ』(80年)のレコーディングのために、西ドイツ、ハンザ・スタジオを訪れていた際に、当時のマイナーヒットだったニュー・ミュージック「リヴィング・バイ・ナンバーズ」を、当地のラジオで高橋がたまたま聴いたのがなれそめ。後にYMOワールドツアーのイギリス公演時に、楽屋を訪ねてきたトニーと親交を深めるに至り、幸宏ソロ『ニウロマンティック』、『ボク、大丈夫?』などにプレイヤーとして参加している。幸宏氏の口添えで、デビュー作『フロム・A・トゥー・B』は遅れて日本でもリリース。高橋幸宏の『オールナイトニッポン』、坂本龍一の『サウンドストリート』などの番組でもよく彼らの曲が取り上げられていた。しかし、田舎者の私にゃレコードを入手するのも縁のない話。初めてドップリハマったのは、解散後にプロデューサーとして参加し、アメリカン・チャートでトップヒットに食い込んだ、ネイキッド・アイズ『僕はこんなに』を手に入れてからであった。ネイキッド・アイズは、アメリカン・ツアーのバンマスとして自らフェアライトCMI&ギタリスト奏者として参加するほど、当時のトニーが入れ込んでいた“第2のグループ”的な存在。実際、バート・バカラック「Always Something There To Remind Me」のカヴァーでデビューするなど、メロディアスな60年代ポップスに傾倒していたネイキッド・アイズは、ビートルズ「愛こそはすべて」をカヴァーしていたニュー・ミュージックに近い音楽性を持っていた。とにかく、「メロディアスなテクノポップ」というのが珍しかったのよ。
 上京後、トニー作品をちゃんと入荷していた唯一の存在だった、青山の輸入レコード店パイド・パイパー・ハウスに通うようになって、私のトニー熱はいっそうエスカレート。インターネットもなく、雑誌でも一切取り上げられないこの存在を、夢中になって追いかけた。そして彼の参加作のどれもが、私を魅了した。どちらかというと、業界御用達だったパイド・パイパー発信らしく業界内にファンが多かったようで、高橋幸宏のプロデュース作である大村憲司『春がいっぱい』、ラジ『真昼の舗道』、スーザン『魔法を信じるかい?』などのサウンド傾向は、もろトニーの影響下にある。清水信之は「トニー・マンスフィールドはイギリスの兄弟分」を自任、伊藤銀次はトニーのサウンドを評して「この人の音使いが生理的に好き」と的を得たコメントをしている。我が師匠、戸田誠司もフォロアーの一人で、フェアチャイルド初期にはキャプテン・センシブル「ハッピー・トーク」をカヴァーしており、中期フィルムス、ポータブル・ロックは、完全にトニーが憑依していたと思えるほど真髄に近づいていた。歌謡界でも、おニャン子クラブ時代の山川恵津子(編曲家)のサウンドは見事にトニー節を換骨奪胎していたし、渋谷系の時代になっても、「ディス・ワールド・オブ・ウォーター」をステージでカヴァーしていたヴィーナス・ペーター、最終作『ポップ・レシオ』でリミックスを依頼した我が友人、ナイス・ミュージックなど、新世代のファンを獲得してきた。
 前回のエントリで書いたように、モーグ・シンセサイザーが初めて歴史に登場した60年代末期こそ、蜜月期といえるほど充実した音が残されていた時代だった。トニーのサウンドもまた、プログラミングやサンプリングという当時の最新テクノロジーを手に入れた喜び、瑞々しさがあふれているものばかりで、まるでデジタル版サイケデリック・エラのごとし。陳腐な表現だが「おもちゃ箱をひっくり返したようなサウンド」とは、トニー作品を例えるときにこそ相応しいフレーズである(実際、キャプテン・センシブルのアルバムでは、おもちゃ箱をひっくり返した音をサンプリングして使ってるし……笑)。
 とはいえ、グループ在籍時からキャリアがスタートする、トニーのごく初期のプロデュース作はそれほどエレクトロ度は高くない。ニュー・ミュージックも『フロム・A・トゥー・B』のころはオールマニュアル演奏で、ロボット風に気取っているスチール写真のように、ディーヴォ的な演出と正確な演奏力でテクノらしさを表現していた。ベースとなるのは同時録音によるギター・サウンドで、そこにホワイト・ノイズの衝撃音、ソナー音などをダビングして“人工美”を作り出していたのだ。そんなトニーの作法に転機が訪れるのは、81年に高橋幸宏のソロ・アルバムのレコーディングに参加してから。ロンドンのエアー・スタジオで行われた『ニウロマンティック』の合宿レコーディングには、大村憲司、松武秀樹らも同行。そのレコーディングに参加した折、トニーは松武が操作するYMOでおなじみ「キッコッコッコ」(ドンカマ音)のMC-8の同期レコーディングの風景を見て、衝撃を受けるのだ。以降、ローランドの小型シーケンサー、イミュレーターなどをスタジオに持ち込み、自らプログラマーも兼任して我流のレコーディング手法を研究。セカンド『エニウェア』では、半分の曲でドラマー、ベーシストを追い出して、プログラミングによる黄金期のトニー・プロデュース・スタイルを確立するのである。
 この時期のトニーのサウンド・スタイルを分析すれば、モノ・シンセの使い方にハッキリとした特徴がある。ポリフォニック・シンセが容易に入手できない経済事情からだろうが、単音のパッセージでコード感を表現(いわゆる分散和音)するアンサンブルが基本。ギタリスト出身らしく、アルペジオの譜割によるコード表現は見事なもので、主メロとオブリガード(カウンターメロディ、副メロのこと)との鳴り交わしは、シンプルでありながらゾクゾクさせられる。こうした、単音パッセージを一フレーズづつ重ね合わせて、見事なタペストリーを編み上げる名手としては、初期デペッシュ・モードなどが近い存在だろう。また、高橋幸宏のサウンドメイクの手法も似ており、いわゆるキーボード演奏者でないため、人差し指で弾いた単音のフレーズを重ね合わせて、『ニウロマンティック』、『ボク、大丈夫?』などの孤高のサウンドを、坂本龍一の手を借りずに自ら編み出していた。
 トニーのプロデュース作品が、ダイナミックに聴感上で大きく変わるのは、82年にフェアライトCMI(サンプラー+倍音加算合成のシンセ音源を持つワークステーション)を手に入れてから。だが、独立したモノフォニック音源×8パートという同機のシーケンサー・セクション「ページR」の構造を見ればわかるように、基本的にトニーのアレンジ・スタイルはモノ・シンセの多重録音時代と大きく変わらない。音色にサンプリングが使えるようになったおかげで、「ヒア・カム・ザ・ピープル」の水飛沫をサンプリングしたクラップ音など、そのぶん音作りの面でお遊びの要素が増えているぐらいか。完全なるプログラミングの下、複雑なパッセージの組み合わせが可能になったことで、かつてシングルB面のインストゥルメンタルの小品で慎ましく披露していた、シックのナイル・ロジャースらファンク・サウンドへの傾倒がより前面に。メンバー編成を入れ替えてニュー・ミュージック名義で出した第3作、『ワープ』で聴けるプリンスのような実験性には、皆が度肝を抜かれた。短いパッセージによるミニマルなアンサンブルとファンキーなリズムの組み合わせは、当時デヴィッド・ギャムソンを迎えた新編成で本格始動したばかりだった、スクリッティ・ポリッティのサウンド(特に「ヒプノタイズ」など)にとてもよく似ていた。
 とにかく、ある時期から私の音楽ライフ(今はすっかり引退モードだが、昔は本気で音楽を志していたのである)の中心に鎮座ましましているトニーの存在。一時は、小林信彦も好きだったので、2つを掛け合わせて“トニー・ザンスフィールド”というペンネームを使っていたこともあるぐらい(笑)。以前、拙著の宣伝のために自ら98年ごろにやっていたホームページでも、勝手にトニマン愛好コラムを書いていた。それがたまたま海外の来訪者の目にとまって、欧州随一のトニマン崇拝者、スウェーデンのジョナス・ワースタッド氏とその後、親交を持つに至ることとなる。また、珍しいトニーに関する拙文を面白がってくれたのが音楽評論家の渡辺亨氏で、氏の監修によるソニーの復刻シリーズで、ニュー・ミュージック全タイトルをリリースした際にも声をかけていただき、異常に長いライナーノーツを書いている(資料の手薄な『ワープ』のライナーが一番長いのはどういうこと!?)。「その後のトニー・マンスフィールド」については、そこに詳しくまとめているので、もし興味を持ってもらえたら、ぜひ購入して読んでみていただきたい。
 ちなみに、日本のamazonではサウンド・サンプルが聴けないようになっているので、かわりにYouTubeにあったニュー・ミュージック関連のリンクを紹介しておく。私は「動くニュー・ミュージック」というのを、YouTubeで初めてみた。YouTube恐るべしである。

ヴォーカルにハーモナイザーを駆使したスマッシュな曲「ディス・ワールド・オブ・ウォーター」。諸行無常な歌詞が意味深。

幸宏氏が聴いて「彼らのホワイト・ノイズ・サウンドはソウルのハンドクラップの現代版」と称えた、全英ヒット曲「リヴィング・バイ・ナンバーズ」。こちらも諸行無常な歌詞が意味深。

記念すべきデビュー作「ストレイト・ライン」。機織りのように交錯するシンセ・ノイズの人力テクノの極地。


 それでは最後に、8日の後半戦に設ける予定の「トニー・マンスフィールド特集」の中から、主だったものを一足先に紹介しておこう。けっこうな量になったが、それでも当日かけるプレイリストの一部に過ぎない。ネット検索サイトGEMMあたりでもほとんど見かけない珍盤ばかりなので、ぜひ当日イベントに来てトニーの魅力に触れていたければ幸いである。

■トニー・マンスフィールド・プロデュース・ワークス(抜粋)

ザ・ダムド「Lovely Money」

キャプテン・センシブルの2枚の傑作アルバムを手掛ける以前にも、ダムドの本シングルや「The 13th Friday EP」などをプロデュースしているトニー。破天荒の極みだった当時のダムドとのなれそめは、ニュー・ミュージック時代に対バンしたことかららしい。キャプテン時代ほどシンセを多用してないが、それでもオルガンや薄く引かれたノイズ、シモンズのエレドラなフィルなど、紛れもないトニマン・メイドな音。さらに今回のイベントでは、『The Power Of Love』の次に準備されていたらしい、トニーが制作したキャプテンのソロ第3作のデモテープを、ちょろっとだけ紹介する予定。

デリガーション「12th House」
スティーヴ・ケント「Twelfth House」

後にニュー・ミュージック「All You Needs Is Love」のカップリングでセルフ・カバーする名曲は、もともとこの2つがオリジナル。前者は曲提供のみで、アレンジはシルキーなアーバン・ソウル風だが、部分部分にシン・ドラムなどが使われて時代状況を窺わせる。後者のヴァージョンは、16ビート・シャッフルに改作したセルフ・カヴァーよりずっと素直な8ビート・アレンジで、ある意味これが正調スタイルという感じ。切ないサビのメロディーにグッと来る……。

マリ・ウィルソン『マリのピンクのラヴソング』

ネイキッド・アイズと並ぶトニーの出世作。日本でのコンパクト・オーガニゼーションの配給権は、渡辺プロダクションが興したSMSレコードが持っていたが(アタタックなどWAVEレーベルも同社。なんと安斎肇先生はここの社内デザイナー出身)、これのみ英国のロンドンレコードとのジョイント・ベンチャー商品だったため、日本ではロンドンレコードから配給された。当時はエレヴェイションとかブランコ・Y・ニグロとか、そういうメジャーと新鋭インディーが共同で原盤を持つ作品がたくさんあったのよ。トニーの起用はどうもロンドン側の意向だったようで、正直言えばコンパクト時代のトット・テイラー(テディ・ジョーンズ)のアレンジのほうに軍配が上がる感じ。最終作「Let's Make This Last」なんてやり過ぎだよ。このアルバムは日本でも大ヒットして、ポップス編曲の教科書のように崇められたもの。おニャン子クラブ時代の山川恵津子サウンドなどは、マリの応用編としてもっともよくできていると思う。

プラネット・ハハ「Home」

ネイキッド・アイズの諸作をプロデュースする前に、メンバーのロブ・フィッシャーとトニーが、両者のフェアライトを使ってお遊びのように録音したシングル。スピルバーグの『E・T・』に啓発を受けて作られたもので、全編プリンスのようなファンク・サウンドを背景にして、「ETETETET」というラップが入るミニマルな曲。ラップする少年の声は、ニュー・ミュージック『フロム・A・トゥー・B』でも声が聴ける、年の離れたトニーの実弟リー・マンスフィールド。

プレジデント・プレジデント「All Good Men」
マーティン・アンセル「I'll Be In The Jungle」

初期のトニー・プロデュースのキャリアで重要な位置を占めているシンガーが、マーティン・アンセル。前者は、プレジデント・プレジデントなるグループ時代の作品で、ガゼボあたりに通ずる哀愁のヨーロピアン・サウンド。後者は解散後に出された最初のソロで、プログレ愛好家の間で知られているルパート・ハイン制作のソロ・アルバムの前年に、トニーの指揮の下で録音されたポップ路線のシングル。小気味よいハンマービートと、フェアライトの煌びやかなサウンドに思わずうっとりする佳曲。

ア〜ハ「Take On Me」

ノルウェイの国民的バンド、ア〜ハのデビューシングル。日本で最初に紹介されたときも「トニー・マンスフィールドがプロデュースする新鋭」と言われていたものの、実際に到着したアルバムのクレジットを見ると、「トレイン・オブ・ソート」など手掛けているのは数曲のみ。「テイク・オン・ミー」も彼のプロデュースではなかったが、それはインターナショナル版のほうで、84年にわずか数ヶ月だけリリースされたノルウェイ版シングルは、トニーのプロデュース作品なのだ。そのサウンドはイベントで実際に聴いて判断していただきたいが、なぜ差し替えられたかがちょっとわかる、あまり冴えない出来。皆さんの反応が見てみたい。

アズテック・カメラ「Walkout To Winter」

ラフ・トレードからのデビューアルバム『ハイ・ランド、ハード・レイン』が商業的にヒットした後、強烈なラヴコールを受けてWEAに正式に移籍したアズテック・カメラだが、本作はWEAからの第1作の直前に出た、トニーの監修による代表曲のシングル用リメイク。マリの件といい、こういうメジャー登板時にトニーが担ぎ出されるケースは多かったみたい。なんでも、カジャグーグーやホリー・ジョンソン(フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド脱退後)からも依頼されて断ってるらしいし。ディスコ・ミックスまである過剰ぶりで、これも成功作とは言い難い。しかし、『ハイ・ランド、ハード・レイン』でもシモンズのエレドラを使っていたアズテック=ロディ・フレームには、隠された内なるエレクトニック志向があったようで、続く『ナイフ』は友人のスクリッティ・ポリッティの「ウッド・ビーズ」に感化され、ニューヨークで録音(制作はマーク・ノップラー)。あの坂本龍一氏にプロデュースを依頼することになるわけだから、トニーという人選もけしてミスマッチだったとは言えないのかもよ。

フィリップ・ジャップ『Philip Jap』

「ジャップ」とは日本人に対する蔑称。ポール・マッカートニー『マッカートニーII』に収録された、大麻で拘留された来日時の体験をヒントに冷徹な日本人を表した曲「Frozen Jap」も、日本での発売時にメーカーが配慮して、「Frozen Japanese」と表記されていたのが笑かせてくれた。そういういかがわしい名前でデビューした太極拳の使い手という新人シンガーだが、アルバムプロデュースは、トレヴァー・ホーン、アン・ダドリー(アート・オブ・ノイズ)、コリン・サーストン、トニー・マンスフィールドの4人の売れっ子が分け合うという豪華布陣。このうちシングルにもなった「Total Erasure」がトニーの制作だが、中国拳法の掛け声とサイバーなサウンドの食い合わせが、ちょっとだけ『ブレードランナー』を思わせる。

サンダークラップ2「Something In The Air」

かつての映画少年には『いちご白書』の挿入曲として知られる、サイケデリック・エラの有名曲を、オリジナルを歌ったサンダークラップ・ニューマンの元ヴォーカルがリメイクしたシングル。フェアライトバキバキのトニー・アレンジが全編に冴え渡る。原曲も『サージェント・ペパーズ』風にさまざまなアレンジをテープ編集でつないだものだったが、ここでもオリジナルに忠実に構成を再現し、まるでサーカスのように変幻自在なサウンドを聴かせる。鈴木さえ子のカヴァーもよかったけど、エレクトロ度はこっちが上かな。

イップ・イップ・コヨーテ「Pioneer Girl」

日本でもデビューシングルだけCBS・ソニーから紹介された、英国のカウガール・パンクグループ。ポリスのスチュワート・コープランドの兄貴(A&MのA&Rマン。ややこし)が立ち上げた独立レーベルIRS(後のイリーガル・レコード)から出たアルバムは、先日ヴィニール・ジャパンからCD復刻されたばかり。その中にも1曲だけ収録されているセカンドシングルが、このトニー・プロデュース作品である。CD収録ヴァージョンは、ブルーグラスをフェアライトで再現した、ジューズ・ハープ(口琴)や馬の蹄の音、マンドリンの高速パッセージなどを駆使したオモロなサイバーC&Wで、トーマス・ドルビー制作によるプリファブ・スプラウトの似非カントリー「フェローン・ヤング」以上によくできている。本作はその12インチだが、いわゆるエクステンデッド・ヴァージョンではなく完全なるリメイクで、ほとんどメロディーは皆無。怒濤の如しフェアライトの複雑なアンサンブルが次々に展開される様は、当時、細野晴臣が始動させたばかりだった新グループ、F.O.E.の「OTT路線」と双璧だと思った私であった。

ヴァイシャス・ピンク「CCCan't You See (Re-Mixxx)」

高橋幸宏、矢野顕子を英国に紹介し、サロン・ミュージックをデビューさせた名作VA『TOKYO MOBILE MUSIC』を出していたレーベル、モービル・スーツからデビューしたヴァイシャス・ピンク・フェノメナが前身。改名後の大半のシングルは、トニーの独壇場とも言える過剰なプロデュースで、1作1作がアイデアの宝庫ともいえる出来。フェアライトを駆使した「火の玉ロック」のカヴァーとか、いわゆるスタッブ(アクセント)をオケヒットでおなじみ「ジャン」みたく、ゴリゴリのアタック音で責めまくるという、立花ハジメ版ロックンロールみたいな音。カナダのみ、シングルを集めたアルバムが出ているが、同曲はさまざまなヴァージョンでリリースされており、もっともよい出来だった写真のシングルテイクはアルバム未収録。

ザ・レスキュー「The Rescue」

エンド・ゲームスだのリフレックスだのスード・エコーだのと、ブリティッシュ・インヴァージョンIIの直後には山のような凡百エレポップバンドがデビューしたが、トニー制作の本作もそのひとつ。ヴォーカルはキュアーのロバート・スミスみたいだけど、ハイパーなフェアライト・アレンジとの相性は良好。全編アッパーなディスコ・サウンドで、脳天気に楽しめる。

The B-52's『バウンシング・オブ・ザ・サテライツ』

レコーディング中にギタリストのリッキー・ウィルソンが急逝し、トニーが代返ギタリストを務め、2年の制作期間をかけてやっと完成。ツアーはおろか、PVも1曲しか作られなかった祟られた作品だが、これが名曲揃いなのだ。スティーヴン・スタンレーも、ナイル・ロジャースも、デヴィッド・バーンも組み合わせは最高だったけど、リッキーのギターがあまり聞こえない本作は、B-52'sのアルバムとして評価しにくいとは言え、トニーのプロデュース作品としては最高位に属する。とにかくこの時期のフェアライトの音が大好き。

ミゼル・ボセ『XXX』

スペインの有名な女優ルチア・ボセの息子で、ダンサー役でダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』にも出ている俳優兼シンガー。凡庸なAORアルバムのようにも聞こえるが、音の隅々にトニーの遺伝子が埋め込まれている。ニュー・ミュージックのメンバー3人が久々にサポートで参加。アメリカに移住し、ビリー・オーシャンの仕事などを手掛け当時売れっ子だった、元ネイキッド・アイズのロブ・フィッシャーまで参加している同窓会のような内容で、ある意味最後の充実期だったと言っていいかも。

リオ「Tu Es Formidable」

日本ではテレックス・ワークスとして知られる、フランスのアイドル歌手だが、なんとトニーが1曲だけプロデュース。スティーヴン・スタンレー制作の『ポップ・モデル』収録曲のシングル用のリメイクで、長らく本邦で紹介されてこなかったが、先日ニューヨークのZEレコードが全タイトルのCD復刻を手掛けた際にボーナス収録され、今では手軽に聴けるようになった。めでたし。

遊佐未森『アルヒ・ハレノヒ』

赤城忠治のフィルムスは、日本におけるトニー・マンスフィールド・フォロアー組として有名だが、その牽引車であった鈴木智文と並んで、デビュー前に脱退したオリジナルメンバー、外間隆史も大のトニマン・フリーク。彼のプロデュースによる本作で、念願のトニー・マンスフィールドにコンタクトを取り、コーラス、アレンジで2曲に起用している。実は、トニー・サウンドのマジックを生み出してきたフェアライトは、80年代後期にスクラップとなり、ジャン・ポール・ゴルチエなどの'90年代に至る諸作は凡庸なサンプリング音楽に留まっていたが、ここでは外間監督のコントロールによって、往年のトニマン・サウンドが蘇っていて素晴らしい。後にその親交から、外間のソロアルバムにも参加。彼の紹介で、私の友人でもある日本のグループ、ナイス・ミュージック『ポップ・レシオ』にもトニーがリミックスで参加している。

X-ヴィジターズ「The Planet Doesn't Mind」
トゥワイス・オブ・ラヴ「24 Hours From Culture (enjoy mix)」

上記の2つは番外編。世界各国にはいるのだな、自分みたいなマニアックなトニマン愛好者が。ニュー・ミュージックの隠れた名作『ワープ』時代の曲を無謀にもカヴァーした、2つのグループのシングル。特に前者は、あのフェアライトの打ち込みサウンドを、丁寧にマニュアルで演奏していてなかなか頼もしい。