smellman's Broken Diary

クソみたいなもんです

僕とJavaとコンピュータとおばあちゃん

この話、どっかで文字にした気がするんだけど、探しても見当たらなかったので文字に起こしてみる。
ちょっと酒入ってるので雑だけどね。

この話は僕がコンピュータの仕事をちゃんと目指す間接的なきっかけとなった話です。

僕は高校入学当時は薬剤師を目指していた。元々医療系の家系というのもあったんだけど、血を見るのが嫌いというのがあって、まだちょっとできる科学の知識が使えるかもしれないというところから医療系なら薬剤師しかできないだろうと思ってた。
でも、高校時代に生物の先生が本当にやばくて、生物には近づきたくないというのもあって、完全にやりたいことが数学or物理という方向になってしまった。
ちなみに英語も国語も留年ギリギリみたいな状態で、数学系以外はまったくだめだった。
そんなこんながあって、高校二年の頃には得意な分野を活用するには物理演算などの活用できる3Dゲームの分野と思い、ゲームプログラマになりたいという気持ちがあった(ちなみにゲームプログラマは昔も目指そうと思ったけど小学校、中学校、高校全部でBASICで完全に挫折してた、行番号が本当にわからなかった)。

そんなときにおばあちゃんが亡くなった。

僕自身おばあちゃん子って感じであった。
中学時代もおばあちゃんと一緒にお風呂によく入っててよく背中の流し合いをしてたし、小学校の頃に戦争の話とかを聞くとよくおばあちゃんの部屋に言ってはいろいろ聞いていた。
関東大震災なんかの話もよく聞いてたけど、正直大変だったという印象以外思い出せなくて申し訳ないという気持ちがある。

おばあちゃんが体調が悪くなって入院したのは高校一年のころ。
それから学校から時間があればおばあちゃんが入院してる病院(僕が生まれた病院で、親父の元勤務先でもあってすごく大切な場所)に自転車で行っていた。

たぶん、家族の中で最後の一年を一番過ごしたのが僕だったと思う。
でも、亡くなる時だけは立ち会えなかった。
僕が部活を終えてから家に帰ったら誰も居なくて、みんなが立ち会いに行って最後を看取ったけど、僕だけは家に居たって感じだった気がする。

その後はお通夜があって、僕と親父の二人で一晩を過ごした。もうその時のことは覚えてない。

そんなことがあって、次の日はお葬式。
たくさんの人たちがやってくるんだけど、正直まだ二十歳未満の身というのもあり、周りの人の対応とかは両親や姉たちがやるというのが暗黙の了解だった。

そんな時に親父が僕と妹に「暇だろうから何か暇つぶしを買ってこい」と二人に500円玉を渡してくれた。
丁度斎場の近くに今は潰れたTSUTAYAがあって、そこに本屋も併設されていたのでそこに本を買いに行った。

その時に出会ったのが「Hello! PC」という雑誌でした。
いわゆるDOS/V系の雑誌ではあったんだけど、その時の特集がJavaだった。

プログラミングというのは今まで僕の中ではBASIC以外のものがあるというのは知らなくて、僕が本当にわからないと思っていたもの以外でもプログラミングができるんだというのを知ってすごく興味を持った。
たしか480円だったので、そのまま親父にもらったお金を使って購入した。

ちなみに、当時はWindows自体は高校の部室には導入した(なお、DigitalというかCompaqのマシンだった)んだけど、何をすればいいのかさっぱりなものだった。
あと、部活の親友はかなりのMac信者で、「この水晶板をこれに変えればこれぐらいクロックアップができる」みたいな謎の勧誘を高校の先生にするような人で、Windowsを使いこなすような状況じゃなかった。

で、僕は生まれて初めてコンピュータ雑誌を買うんだけど、そこにすごく興味深い連載があった。
それはPC-UNIXの連載です。
当時は丁度JEのレポジトリがぶっ飛んでしまってPJEが始まったとかそんな内容だったと思う。
1997年の時です。

まったく知らないUNIXという言葉、FreeBSDLinuxという僕の知らないOSの名前(知ってたのはWindowsMacOSだけだった)にものすごい興奮を覚えた。
その連載に書いてあったのは無骨なコマンドラインばかり。
この意味を理解したら何かが変わるのかなと思った。
でも、それ以上にその時はJavaという謎の存在を理解しようというのが強かった。

そのあと、小遣いを使ってHello! PCを買うんだけど、丁度そのタイミングで親父がパソコンを買ってくれると言ってくれた。
僕の家には書院とPC-9801(姉の所有物)のノートがあったんだけど、前者はブラインドタッチの練習用途もしくはカセットテープのタイトル打ちがメインで、後者は本当に使い道がわからなくてフロッピーを挿して起動したら動いたぷよぷよもしくはBio100%のゲームだけしか使ってなかった。
僕にとっては初めてのパソコンです。
Hello PC!で得た知識をフル動員した。
このタイミングならISAが一杯ついてるやつのほうがいい!!!!!!!

敗北です。

その当時MMX200MHzのマシンでありながらPCIが2つに対してISAが5つという変なの買ったんです。
言い訳させて下さい。
Hello PC!に乗ってるボードでPCIのってグラフィックぐらいだからISAの方がいろんなデバイスあっていいじゃんって思ったんですよ!!!!
まさか次の年にPCIのサウンドカードが出始めるとは!!!!

まぁこの話は老いておこう。
老いです。

とりあえず秋葉原のアウトレットのお店で30万円ほどかけてIBMのマシンを購入しました。
ついでに、VectorのCD-ROM8枚組も一緒に買いました。
あと、アルプスのプリンターも買いました。テリー伊藤が広告やってたやつです。
品質はよかったけどランニングコストが泣けました。
ちなみに小学校からの親友が最初に就職したのもアルプスなんだよね。びっくりしたわ。

で、一ヶ月ほどはとりあえずIBMのマシンが家にあるだけで、何をしていいのかわからないのでとりあえずレジストリエディタを弄って遊んでました。
あと、VectorのCD-ROMの中を調べてとりあえず高音質で音楽が聞けるというのでMOD関係のプレイヤーで楽しんでました。303tekの初期のプレイヤーです。これ覚えてるの本当にもういないと思う。

その後一ヶ月してからネットが開通しました。
最初のインターネットはJustNetでした。
JustSystemのアレです。
JustViewの話は辞めよう。

とりあえず、まずJDKをダウンロードしました。デカイ。
その後、MOD関係のアーカイブを辿っていき、おもむろにrarファイルをダウンロードしました。
あとで気づいたんだけど、英語がわからずこの時ダウンロードしたのはMODファイルじゃなくて音源ファイルでした。
僕が生まれて初めて展開したのがrarという状況になったのも先にMODという変な文化に触れたからです。
MOD万歳。

で、Javaに戻るんだけど、インターネットに繋がったことで、JDKを入手できてやっとHello! PCに書いてあるサンプルコードを打てるようになりました。今思えばどっかの書籍から入手できそうなものだけど、当時は全然わからなかったんですよ。
で、ひたすら打ちまくるんだけど、とりあえずサンプル動かしたあとに、何故こういう仕組みなのかわからないというのが強く残りました。
いきなりオブジェクト指向とかAppletとかは辛かったのかもしれません。
というわけで高校の友達(Blenderの日本語化をやってるやつ)から「この前こういうクラック事件があってTcl/Tkが使われたらしい」みたいな情報を聞いてTcl/Tkを使い出したりとか、8086とかのアセンブラチャンレンジしたりとかPerlの勉強始めて挫折したりとかいろいろありました。
一番高校の時に知識を得たのは前述の高校の友達からFreeBSD徹底入門を借りて2日で読破したことです。まさかその本の著者のあさたくさんがいるBBQに参加するとはその時はまったく想像付かなかったと思います(というか亡くなられたというのがもっとつらいけど)。

まぁ、そんなこんなでJavaがきっかけでプログラマ目指せるかも!って思ったのが高校時代でした。
少なくともそのきっかけになったのはおばあちゃんの死です。
それがきっかけでずいぶん早い時期にPC-UNIXLinuxにも出会えました。
MODミュージックもたぶんそのタイミングが無ければ出会えなかったと思います。
僕は今MODのトラッカーがベースになった音楽を良く聞いています。breakcoreとか!

僕にとってはコンピュータにある何もかもはおばあちゃんからの最後の贈り物だと思えるのです。
わりと辛いことがあっても、やはりこの思いが支えになってくれてるところはあります。
そんなわけで、おばあちゃんありがとう!