情報型主人公と環境型敵役

BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - 情報型主人公と世界精神型悪役の出会い

悪役の没落が大きな物語の没落とシンクロしているとするならば、自らの小さな物語を世界へと展開しようとする悪役と、彼らを物語世界の中心にして審級とする類の作品の勃興も、大きな物語の没落とシンクロしていた、と云えるだろう。あたかも、大きな物語の衰退と共に努力型主人公が情報型主人公へととって変わられていったかのように。

旧来の「努力型主人公」には、成長の最終目的地が用意されていて、それはつまり、勇者が倒す魔王です。それまで弁証法的に先延ばしにしてきた、物語内の対立・葛藤・矛盾を、最終審級としての魔王に体現させているのです。しかし、「情報型主人公」の世界には魔王的なラスボスは君臨していません。そもそも、そのような個体への一元化と、善悪の二項対立といった、図式が崩れているから、大きな物語が失調しているのです。「情報型主人公」に対応するのは「環境型敵役」だと考えています。どういうことか。

大ヒットした同人ゲーム『ひぐらしのなく頃に』を例にすると(以下ネタバレ)、最初のシナリオ「鬼隠し編」では、レナが環境型敵役になります。しかし、レナは次の「綿流し編」では味方になる。レナは鉈を振るったり推理したりする。このように、同じキャラクターが味方になったり敵になったりするのは、旧来的な感覚からすると違和感がありますが、ノベルゲームは分岐と選択という機能を持っているので、「ひぐらし」自体に分岐と選択はないけれど、ノベルゲームのユーザには受け入れられるでしょう。

レナは一時的な敵役であって、固定された悪役ではありません。後で明らかになりますが、彼女が敵に回った、というより圭一が彼女の敵に回ったのは、さしあたり単に確率的な問題に過ぎません。この欠落が非常に斬新なのです。真のラスボスは非人称的なシステム総体であって、特定の個に一元的に帰すことはできない。「デスノート」も誰が拾うかは、死神リュークが言うように、確率的な問題でしょう。「ひぐらし」で言えば、(雛見沢症候群が核になった)雛見沢という環境が、悲劇の原因なのです。舞台背景を昭和の時代に設定しているけれど、その環境とシミュレーションを描こうとするスタイルは、非常に現代的だしリアリティがあります。

この戦いは、無論世界精神型悪役に分がある。情報型主人公は情報に依存するがゆえに、情報=物語自体を支配する世界精神型の悪役とは決定的に相性が悪い。だからこそ、情報型主人公は「脱構築」という手段をもって、敵の作り上げた物語を破壊するように動かなければならない――そして自らの世界観により物語を再生しなければならない。

しかし、「ひぐらし」は後半に行くほどつまらない。それは上の引用で言われているような、敵の物語を破壊して再生するという、ダイナミックな展開にならなかったからです。主人公の圭一が破壊しえたのは、園崎家の北条家への迫害だとか、そのレベルに留まります。「皆殺し編」以降、主役は梨花と羽入に移行してしまいます。羽入という超越者を出してからの展開は予定調和的で、メタフィクションではあっても「脱構築」的では全然ない。

「ひぐらし」では「なかまをだいじに」というような形而上のメッセージを、作者=主人公=プレイヤーで共有するという、結末に終わっています。でも、三四と東京の組織を悪役にするのは、本当はレナのUFO説と同じくらい陳腐なのです。従ってある意味で、「ひぐらし」終盤でのメタフィクションと陰謀論のカップリングは、作者の竜騎士自身が(ミステリの枠を超えて)犯人を探して決めてしまったところがあるかもしれません。しかしそれは、子供(登場人物)のケンカ(殺人・推理)に親(作者)が出るようなものなのです。