システムだけが勝利する

反復するシステム/場所

グラン・ヴァカンス −エロゲの登場人物としての私達−

環境管理型権力のなかで、我々はシステムの中の一つのパラメーター存在として、
システム設計者の意のままに動く訳で、結局、グラン・ヴァカンスのAI達と何も
変わらない…。けれど、我々はシステムの中でシステムに動かされていることを
自覚しているし、それを自覚するということは、我々の尊厳が深く傷つくこと…。


全くそうですね。われわれはそういう感覚があると思います。そしてシステムを前景化して描いた作品というのは、エロゲギャルゲで結構あると思います。YU-NO(並列世界)は代表的ですが、他にもOne(永遠はあるよ)・Air(これも永遠)・プリズマティカリゼーション(プリズム)・Ever17(17歳教)*1・ガンパレ(OVERS-system)・Fate(聖杯戦争)・ひぐらし(雛見沢)など反復するシステムを描いた作品は結構ありますね。


ここで一番最初の話に戻って言うと、「システム」というのは「場所」の一種だと思います。理系的な表現というか。ルーマン系のシステム論で言うシステムとは「複雑性を縮減」する装置ですが、私の言う場所は、可能な述語の総体なので共通点はあります。とすると、「場所」も物語の要素としては結構重要だなと思うわけです。主体の一回性と場所の無限性の対立という構図です。場所の定義が広く取ってあるというのはありますが。

システムが勝利しつつある

茂木健一郎 クオリア日記: 2006/01/12

最近の状況で、私が気にかけている
ことの一つは、「システムが勝利しつつある」
ということだ。

 コンテンツで言えば、個々のクリエーターよりも、
それを流通させる「システム」を作り上げた
ものの方が勝利する。

 ベストセラーとなった『下流社会』で
一番印象に残ったことは、
 「下流」の若者の方が自分らしく生きる
ということへのこだわりが強いということで、
 それが、おそらく現代においては適応的
ではないのだろうと思った。

 インターネットは、各個人をIDや購入履歴
といった数字へと還元する。
 個性を消した無味無臭のフラットな存在へと
自分を変換できるものが、
 現代においてはシステム適応的なのだ。


「デファクトスタンダード」「メガヒット」「一人勝ち」「格差社会」など、最近の社会の流れをシステムの勝利と位置づければ事態が明快になりますね。さすがはあの素晴らしいクオリア茂木です。ちなみに私なら「カオナシ的現代人」とでも言いますね。それで例えば、次のようなバリエーションも考えられるわけです。

システムとコミュニケーション

 「下流」の若者の方が自分らしく生きる
ということへのこだわりが強いということで、

 「非モテ」のオタクの方が自分らしく生きる
ということへのこだわりが強いということで、(改変)


本田透バージョンといったところでしょうか。それじゃあ昔はモテたのかといえば、まあ同じだとも思うんですが、ただ平安時代はお多福が美人なわけで、「モテ」の像も変わっていると思うんですね。例えば昔は「三高」などと言いましたね(今でもモテるのは変わらないでしょうが)。


それで、お笑いタレントが人気なように、今の「モテ」の一つの像は、「コミュニケーション」における勝利者ではないかと考えます。(仲間内はともかく他者とは)オタクが苦手とする分野でしょう。もちろん、いわゆる「人は見た目が9割」みたいに、そもそもコミュニケーションを遮断されているという側面もあるでしょう。


そしてコミュニケーションは、その場所の文脈と切り離せない。つまり、コミュニケーション力というのは「空気を読む」力だからです。空気(気体)とはその場所の文脈から生じる期待でしょう(ここはおごらないとまずいみたいな)。このようにしてシステムの話は、このブログで以前にしたコミュニケーションの話題に関連してくるわけです。

*1:ネタバレになるが、『Ever17』とは永遠に17歳を生きる声優たちを描いたドラマである(違