牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

ブログのことばかり書いてるブログ

 ブログを書くのも読むのも好きで、特に最近は人のブログばっかり読んでる。ブログを沢山読んでると、あれ? この記事前も読んだなとか、この記事随分前に読んだ気がするけどまだ3日前か、と時間の感覚がおかしくなってくる。これはマズイ。ブログから一旦離れるべきだと頭の中で誰かが言っている。その声に耳を傾けよう。

 最近なんとなく書けることはわかってきた。今度は書かないことを覚えたい。書かないんじゃなくて、書いてるけど書いても更新しないで溜めておくというのはどうか。書いた文章を寝かせておいて、後で使えそうなところだけ使う。使うってなんだ? 有意義なことを書いてないから使うというのも意味わからん。

 でも書いたらすぐ反応欲しくなっちゃうんだよな。よろしくないよろしくない。

 一方でブログは生ものという考えもある。瞬間瞬間を切り取っている。だけどTwitterでやらないのは、やっぱりあとで読み返したり、いつかわからないけど誰かが読んでくれたら面白いなと思うから。


 ブログを人に勧めるか勧めないかって話を最近読んだんだけど、俺としてはまあ殊更勧めようとは思わないけど、書く人は勧められなくても書くよね。そりゃそうか。書いてない人の話ね、書かない人に勧めるかっていうとどうかなあ。基本的なスタンスはやりたきゃやれよなんだけど、書いたことない人でも書き始めたら面白いってあると思うから、そういうのは読んでみたい。興味があるなら初めたらいいよね。始めたばかりの頃は何書いたらいいかわからないとか、書くことないとか、書こうとしてもなんか変に構えるところとかあるけど、いくつも更新してるうちにどんどんハードル下がっていく気がする。自分で許せるようになるというか。

 ここでハードルを下げない人が伸びるんだろうな。

 伸びるってなんだろう。ブログが伸びる。アクセスが増える? ブログでなくても何にしろ続けていればある程度は成長するものだから、むしろ留まり続けることのほうが難しいんじゃないか。

 クオリティとかどうでもいいんですよ。ブログで食っていこうってわけじゃないんだから。ブログ飯を始めようって人には勧められない。大変そうじゃん? というか勧める術を持っていない。やってないから。それこそ勧められなくても始めるような人じゃないと成功しないだろうけど、セミナーでもサロンでも受ければいいと思う。金儲けを否定するわけじゃないけど、俺が読みたいのはブログ飯のブログじゃない。ブログで食ってない人のブログが読みたい。

 Googleアドセンスの収入が月いくら以上ならブログ飯なのか。そういうの曖昧なまま進むけど、一口にブログとかブロガーとかブログマンとかいってもそれぞれ色々な考え方で色々な人達がいるのに、一緒くたに語ろうとしてるの多いよなあ。ブログとはこういうものだ、ブロガーとはかくあるべき、そんな記事をよく見る。言葉の定義が定まってない。あるいは受け取り側によって異なっている。はてなブログを例にしたって、はてなブログに登録してるという共通点以外はないわけですよ。雑多なブログがある。本当に色々あるよなくそつまんねえのとか、やたらとテンションが高いのとか。無駄に行間が空いてて文字が大きかったり小さかったり何色も塗り分けられてたり。まあいいとして、自分と違う考え方もあるよなそりゃ。それを指差して気に入るとか気に入らんとか、言ったって仕方ない。そういう仕方ないの好きだけどね。ブログについてばっかり書いてるブログとかね。ブログブログってなんだよブログって、日記だろ。公開日記が一番イメージに近い。日記公開でもいいけど。手記公開でもいい。

 ブログのことばかり書いてるブログ。ブログとはかくあるべき。ブログ楽しいみんなも書こう!今月のPVは!オフ会行きました!ブログをカスタマイズ!ブックマークしてください!ブログが辛い。ネガコメ怖い。バズりました!ブログに書くことない。もうブログやめようかな。こういうブログがあってもいいよな。そんでお前ブログのことしか書いてないじゃん、ていうやつ。なんのブログなの?って。ブログのブログですって。理論ばかりが先行して実践が伴わない人。ブログの場合それ自体実践でもあるわけだけど。


 最近しっくりきたのはブログは「税金を納めるつもりで書いている」という話。義務感で嫌々というんじゃなくて、人の書いたものを読ませてもらって楽しませてもらって、その代わりに自分も文章を納めますよ。という話をあるブログで読んで、ああそうだなあと思った。うんうんそうだよなあって。膝を打ったってやつ?膝を打つって座ってるときしかできないよね。そのときは立ってたから、心の中で膝を打った。心にも膝ってあるんですね。たぶん急所だろうな。
 いや自分の文章が年貢ほどの価値があるのかと言われれば微妙だけどさ、少なくともみんな自分では面白いと思ってるでしょ?俺は思ってるよ。笑い転げたりはしないけど。
 笑い転げる文章をたまに読むんですよブログで。俺はそんなに面白いことを高い打率で書けないから、とにかく沢山書くしかないんだけど。このブログは読みにくい。それは知ってる。直す気もない。注意して読まないとたまにいいこと言ってるから見落としちゃいますよ。
 一言一句読まなくたって、面白そうなところを適当に拾い読みして面白がってくれたらいいなと思っている。誰かが面白がってくれればそれだけで俺は面白い。もちろん沢山の人に読んでほしいとかもあるけど、沢山の人に読んでほしいっていうのは、そのままの意味じゃなくて、大勢の人に目に触れれば触れるほどその中で面白がってくれる人の目に留まるチャンスも増えて、それが嬉しい。そういう意味では炎上もいいかも。嫌だけど。

 このブログは炎上するようなことは書いてない。狙ってか狙わずか知らないけど、図らずも炎上させる人。いるよなあ。大勢からお叱りを受けるのは全然羨ましくないけど、ナチュラルに炎上すること書いちゃう能力は少し羨ましい。だけど炎上は内容半分、誰が拡散させたか半分。どれだけ過激な内容でも多くは人目につかずに埋れていく。拡散力のある人に目をつけられるかが一番の鍵だと思う。身内ブクマホッテントリ入りはそのリスク高そう。

 それにしても1日何百万字という文章が毎日毎日インターネット上に追加されているわけでしょう?日本語のブログだけでもそれくらいあるよね。凄いことだなあ。


 このブログが読みにくいのは自覚している。特に直す気はない。というか読みやすい読みにくいということに気を遣っていない。気を付けていることがあるとすれば、記事の途中に広告を挟まないとか、必要以上に文字を大きくしたり小さくしたり色を付けたりしないとか、その程度。なぜならそういったブログが嫌いだから。私にとってはそれらのブログは読みにくい。結局は好き嫌いの問題。

 文章力がある(ない)となんの疑問も持たずに使ってないか。この人は文章力がある。このブロガーは文才がある。こういった表現を疑いもせず使っていないか。
 本来「この文章は面白い」「この文章が好きだ」と言うべきところを、文章力という言葉を使ってあたかも客観的な評価であるかのような、第三者からも認められているかのような表現をしている例は枚挙に暇が無い。多くは好き嫌いで語られるべきものである。他人の評価に迎合する素振りを見せずに自信を持って好きだと言えばよい。

 まずもって読みやすいブログが多過ぎる。読みやすく工夫されたというべきか。文章力とは読みやすい文章を書くこととは違う。心を打つとか、感動して泣かせるといったことでもない。文章力は書かれた文章にあるのではなく、それ以前の書いている段階、もっと言えば書かれなかった言葉も含めてひとつひとつの言葉を吟味して選び取っていく作業の中にのみ存在する。吟味するとは言葉の意味を点検し疑うことであり、疑うことは文章力の第一歩である。
 読みやすく工夫された文章を読んで「この文章は読みやすい。文章力がある」となんの疑いもなく発言してしまう人の文章力こそ疑わしい。みなさん注意しましょう。


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