異常Anomaly――『哲学辞典』W. V. クワイン(pp. 19-23)

 オカルト現象はどれでも、すなわち、テレパシー、テレポーテーション、千里眼、幽霊、空飛ぶ円盤の確かな例はどれでも、科学的な心を喜ばしそうなものである。科学者は郡をなし、歓喜の声をあげて製図板や線形加速器の所にもどるであろう。オカルト現象のメカニズムの研究が急務となり、物理学の大革命も近いことであろう。
 このような栄光考えるだけで、異常な出来事を信じたい気持ちが強くなる。しかし、こういう現象がほんものである場合には、ありそうもないことであればあるほど、驚くべきものとなる。だからこそ、驚くことになる。そこで、科学者の心にある種の緊張が生ずるのが見られる――私の学生の中にはこれを弁証法的な緊張と呼ぶものもいた。
 このように心が引き裂かれた科学者は、どうするのであろう。理想的には、超常現象とされているものを、鋭い、疑い深い目で、ごまかしや、幻覚や、その他、実際は超常現象ではないものをそのように見せる原因としてよく見られるものを見逃さないようにして、くわしく調べる。しかし、その一方では、その現象が、このきびしい検査にたえて、世界をゆるがす驚異となるというありそうもないことが起こることを願ってもいるのである。
 時間が限られているのに、超常現象だというものを持ち出す、超常科学の信奉者の数はむやみに多いので、科学者は超常科学の主張の一つ一つはごく短い時間でさばかなくてはならない。非難の余地のない記録を伴っていないものは、検討するだけの価値が無い。そこで、超常現象をかつぐものは、科学者の独断、陰謀利権、科学的客観性の欠如、を非難することになる。科学者を非難するものの途方もない主張の一つでも実証されることになれば、科学者は実は大喜びすることになるのだが、非難するものは、このことを夢にも想像していないのである。

哲学事典―AからZの定義集 (ちくま学芸文庫)
Willard Van Orman Quine 吉田 夏彦 野崎 昭弘
448009055X

昨年、はてな界隈で疑似科学批判と、疑似科学批判に対する批判の議論を見てて感じたことを、率直に述べているクワイン大先生のお言葉。科学にとって驚異や異常、超常現象は大好物なのである。ただし、それらにはかなりの不良品、欠陥品があるので、いささか科学者は食傷気味になる。科学的精神のその衝動は、宗教家や神秘化のものとそんなに変わらないのかもしれない。違いは、その超常現象に触れた後に行うことであり、科学者は懐疑的に検証する必要がある。クワインが指摘するように科学的実験の際、科学者は引き裂かれる思いなのである。そのような驚異が存在してほしいという欲求と、それに対する反証をあわせもつものこそ真の科学者である。
科学が超常現象を軽視したり、独断的であるといった批判は、科学のこのような特性を理解していないものから発せられることが多い。というか、科学についてよく知らない人ほど、科学がガチガチの体系で出来ていると信じている。実際には科学は柔軟なものである。
クワインがこのあと述べるとおり、科学者は何もしないでいるわけではない。宇宙人からの信号を電波をモニタすることで探しているし、テレパシーや千里眼の実験もしていた。しかしながら、時間は有限である。だから科学者が時間や努力の配分に慎重になるのを、認めてあげるべきだ。