浅羽通明『右翼と左翼』評by韓リフ先生

本当の本書の対立軸は、本書の著者も属すると思われる「理念」なくしては生きて行けない人たちvs現実で十分お腹一杯生きてける人たち との対立だと思う。この対立軸を全面に出していないために、例えば小泉政権のこーぞー改革の内実=現実の分析さえも、「平等」を犠牲にして「格差社会」を容認した、という紋切り型=「理念」の零落形態を採用するにとどまってしまっている。

http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061203#p2

きわめて少数の例外をのぞいてほぼ思想系の本の常道であるが、本書も全くマクロ経済政策なんか歯牙にもかけず、また「格差社会」についても大竹文雄さんの議論などもどこかに吹っ飛び、その意味では浅羽氏の採用している立場はすでに指摘したけれども「理念」なくしては生きてない人&そんな人たちを主要読者層としているので、それになじみやすい?橘木先生や金子勝氏らのセカイ系のお話=小泉前政権の経済政策スタンスは市場原理主義、に事実上依拠している。僕は前政権の理念や間違った理念はさておき、事実としてそのような市場原理主義的評価は適切でないと理解してます。

http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061203#20061203fn1

 この辺はおっしゃるとおりで、『ロースクール小論文』と同様、浅羽さんの人文系ヘタレぶりが本書にも出てしまっていると思います。あるいはまた、『公共性の法哲学』における田島さんと大屋さんや谷口さんとの間の緊張関係にも、こうした「「理念」なくしては生きて行けない人たちvs現実で十分お腹一杯生きてける人たち との対立」が現れている。
 もちろん浅羽さんに病識はあるので、だからこそ以前から「臨床思想士」とかいってみたり、あるいは本書ではついに「正統の復興に向けての長征が必要だ(大意)」とか言ってしまうわけです。
 つまりですね、「右や左のセカイ系」どもに分をわきまえさせて現実と折り合いをつけさせる、というのが「臨床思想士」の職能なわけですが、そういう連中に現実と折り合いをつけさせるためにも、最終的には「正統」思想が必要なんではないか、というのが浅羽さんの問題意識なんではないかと思います。


 ところで、戦前の左右両翼の合作である「大東亜共栄圏」、アジア主義「帝国」の分析ですが、韓リフ先生お勧めの町口哲生『帝国の形而上学』は読んでないのですが、言うまでもなく出たばかりの米谷君の『アジア/日本』のテーマであるわけですね。ただ当然のことながら米谷君の分析にも「マクロ経済」という視点はすっぽり抜けているわけです。(矢内原忠雄はきっちりとりあげられても、石橋湛山は分析されていない、というのはそういうことでしょう。)書かれた時期の限界もあるのでしょうが、安達誠司『脱デフレの歴史分析』などの成果が踏まえられていない。
 ただつくづく考えることですが、これは多分人文系インテリだけを責めていれば済む問題ではなく、経済学者こそが悪いんですよ。人文系インテリが一所懸命センなどを読んでも、そこから少し手を広げてローマーとかの厚生経済学と政治哲学の中間領域のフロンティアを無理して勉強しても、「マクロ経済」の「マ」の字も出てこないんだもの。
 己を省みるに、ある程度勉強した人文系インテリのマクロ経済認識は、マルクス経済学の帝国主義論というか、マルクスケインズ=カレツキ折衷の不完全競争市場の不均衡分析の枠組みにとどまっていると思います。なぜそういう状況なのか? プロの経済学者がサボってるからだよ。
 でもそこのところをはっきりさせないと、「帝国」分析は全然前に進みません。「帝国主義」理解そのものがゆがむんです。マルクス系=人文系の「帝国主義」認識は要するに「独占段階の不完全競争市場・プラス・それを補うための国家による介入」であり、対外進出もケインズ政策もそのフレームの中での代替戦略として理解されてしまいます。つまり国内で不足した有効需要のはけ口を、海外市場に求めるか、国内の公共事業に求めるか、という違いとして。だからケインズ政策が「帝国主義の矛盾を糊塗するだけの対症療法」扱いされてしまうし、ケインズ政策マネタリズムが両立不可能であるかのようにみなされてしまう。
 しかし「帝国主義」というのはそういうものではない。ギャラハー=ロビンソン以来の「自由貿易帝国主義」テーゼではないですが、「独占段階における市場経済の不完全性の増大」とは本質的な関係はないのです。しかしマルクス系=人文系には「自由貿易帝国主義」論は「もともといわゆる「自由主義段階」の資本主義だって不完全で、国家による介入に支えられるものだった」というルクセンブルグ=従属理論流の倒錯した理解で受容されてしまう。