元寇以前から外国勢力に乱暴狼藉されてきた九州沿岸の人々
前回まで元寇について5回に分けて書き、「文永の役」では壱岐や対馬などで多くの住民が虐殺されたり拉致されたり家を焼かれるなどの甚大な被害が出たことが記録されており、『高麗史』にも日本で捕らえられた少年少女200人を高麗国王・忠烈王に献上したとの記録が残されていることを紹介した。
しかしながら、九州の沿岸地方で外国勢力から襲撃や略奪を受けて大きな被害を出したのは元寇がはじめてではなかったのである
Wikipediaにはこう解説されている。
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。
特に有名な事件が寛仁三年(1019年)の刀伊の入寇である。詳しいことは平安時代の藤原実資の『小右記』という日記や三善為康の『朝野群戴』という文書に記録されているそうだが、女真族を中心とする刀伊は、約三千人が賊船約50隻の船団を組んで突如として対馬を来襲し、36人を殺害し、346人を連行したのち、次いで集団は壱岐を襲い、老人・子供など148人を殺害し、女性239人を連行したという。
さらに刀伊は博多を襲ったのだが、大宰権帥藤原隆家と大蔵種材らによって撃退され、さらに集団は肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退されたためた、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退していったという。その後刀伊は高麗沿岸を襲撃したが高麗水軍に撃退され、拉致された日本人約三百人が保護されて、日本に送還されたという記録が残っている。
元寇で鎌倉武士たちがよく敵軍と戦ったのは、外国勢力に何度も襲われて来た九州沿岸地域の悲しい歴史と無関係ではないと思われる。
初期の倭寇は元寇の報復であったのか
話を元寇に戻そう。文永の役や弘安の役で家族を殺されたり奪われた人々からすれば、彼らが二度と九州沿岸を襲撃することがないように懲らしめて、できることならば家族を取り戻したいと考えることは当然のことであろう。
鎌倉幕府は文永の役の後、高麗に征討軍を出す計画を立てたところ多くの志願兵が集まったようだが、元が再び大船団を伴って攻めてくるとの情報を入手したことから、国土防衛を優先して取りやめとなった経緯がある。
弘安の役の後も高麗征討軍を出す動きがあったが、それも立ち消えになってしまった。幕府が動かないならば、対馬や壱岐や松浦の人々がなんとかして朝鮮半島に渡ろうとする動きが出ても、何の不思議もないではないか。
対馬観光物産協会のホームページには、最近まで倭寇は元寇の報復であったことが書かれていた。
13世紀から16世紀にかけて、東アジア一帯で猛威をふるったのが「倭寇」(わこう)と言われる海賊集団でした。倭=日本人、寇=侵略、であり、北九州(対馬・壱岐など)や瀬戸内海の漁民・豪族により構成されていたと考えられています。古来よりこれらの地域では海外との交易が盛んでしたが、元寇への報復の意味もあり、日本・朝鮮の中央政府が弱体化したり、戦争や対外的な緊張により交易ができなくなると、盛んに海賊行為を行うようになりました。倭寇の侵略行為は熾烈をきわめ、それが高麗王朝の滅亡を早めたと言われています。
(対馬観光物産協会のホームページ 令和2年6月にリンク切れ)
「倭寇」のすべてが「元寇の報復」であったとは思えないが、少なくとも初期の倭寇に関してはその可能性が高いのではないだろうか。
GHQにより焚書処分にされた『海の二千六百年史』という本がある。この本では倭寇についてこう解説されている。
文永・弘安の役後、わが海事史上の新現象として現われ来ったのは、元寇の侵寇に対する報復としての倭寇の逞しい活動である。元来、日本民族は、平和を愛し、人情に厚く、こちらからは進んで、敵をつくることは殆んどない。外征の如きも、豊太閤の積極的海外進出を本としたほかは、必然、合理的理由によったことが多い。
倭寇の如きも、元及びその手先となった高麗が再度、日本に来寇したことを深く憤り、これに対して打撃を加えようとする意味から生まれた点がある。ただ元や高麗の沿岸を海賊的に荒らしまわって、それによって、痛快を叫んだのではない。実は、元および高麗がかつて日本に向かって加えた不正の振舞いを懲らし、その過去の不逞・不義の所為を罰しようとしての、意味をも含めて活動を始めたわけで、漫(そぞろ)に侵略を事としたのではなかった。それに当時は、世界を通じて、海上では半賊・半商主義が行われ、イギリスなどでも海賊の方が多かったのである。
倭寇が最初高麗・元両国に向かって寇したのは、正応五年(1291年)のことで、これが構成分子の中には、南朝に使えた人々の子孫もいた。厳にいうと、それ以前から、九州の商人・漁民らの中に、支那・朝鮮沿岸を荒らして、これに報復し、海国男子の面目を示したものが既に少数ながらも、存在していたらしい。
(高須芳次郎 著『海の二千六百年史』p.53~54昭和15年刊)
倭寇が元寇の復讐であったとする見方はわが国だけで勝手に主張しているのではなく、李氏朝鮮の後期に安鼎福(あんえいふく)が書いた『東史綱目』にも出ているのだそうだが、Wikipediaによると、明の朱元璋がわが国に送った書にも「倭兵は蛮族である元のおとろえに乗じただけだ」と記されているという。明も、倭寇は元寇の復讐であったとの認識を持っていたようなのである。
初期の倭寇の具体事例
高須芳次郎の同上書に初期の倭寇の事例が具体的に記されている。
正応五年(1291年)、九州の商人が四艘の船に乗って、元の慶元路に向かい、三艘は難破したが、一艘は目的地に着き、沿岸を劫略した。それは元の来襲あって十一年後のことである。ここに九州男児により、元の侵略に対する報復を敢行したわけだった。
この事あって、元の朝廷は、日本が将来、必ず復讐のため、来襲するものと考え、種々警戒した。すなわち嘉玄元年には、千戸所を置いて、定海を守らせ、更に要所に都元帥府を設けて、海防を厳にした。のみならず、日本の商人には高率の海関税を課するなど、つとめて抑制を加えたが、日本商人は、それらに屈せず、かの地に渡って貿易した。
その後、徳治二年(1307年)に日本商人が元の役人と衝突したとき、怒って火を城に放ち、烏有に帰せしめたことがある。爾来、元では、日本商人は、支那に勢力を張り、常に三、四艘の船を仕立てて彼の地に赴いた。その武力は、元兵の猛勇を以てしても、恐れをなしたくらいだったから、わが商人の勇敢さは、元の軍隊を圧倒したというべきである。
当時、倭寇の進出は、高麗方面に於て、特に著しいものがあった。それには、征西将軍懐良(かねなが)親王*の下に属した南朝方の武士が参加していたようである。その海外進出は、財政上の必要と内地において伸ばすことの出来ぬ志を朝鮮に伸ばそうとした事情に基づいている。まず正平五年(1350年)二月、高麗を襲った倭寇は、巨済・竹林・固城地方を荒らしまわり、海国民の壱岐を示して、かつて元と共に日本に寇した高麗に酬いた。それから同年五月には、六十余艘の船で押しかけて、順天府を騒がせた。次いで同年六月、二十艘の船に分乗して、合浦を侵し、固城・会源・長興府を脅かして、財物を収得したのである。
* 懐良親王:後醍醐天皇の皇子。戦後は「かねよししんのう」と読むことが多い。
(同上書 p.55~57)
倭寇に南朝勢力が加担していたことが記されているが、その可能性はかなりあると思う。懐良親王は、南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた人物であるが、親王を支えていた勢力を見ると、肥後の菊池武光、阿蘇惟時、豊前の宇都宮貞久、伊予の宇都宮貞泰らのほか、瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の名前が出ている。熊野水軍の支援を受けていたのであれば、中国や朝鮮半島で海賊行為を行ったこともすんなり理解が出来る。
そして、南朝の懐良親王が『明史』日本伝に何度も登場しているのである。
『明史』では懐良親王の名前を「良懐」と記し、「日本国王」と書いている。明が親王を「日本国王」と認識していたということは、明がわが国の南朝を朝貢国とし、懐良親王をその国王と認識していたことを意味している。この「良懐」が懐良親王であることは、『明史』に次のように書かれているので間違いないだろう。
当時良懐はまだ若く、持明(じみょう)という者と王位を争い、国内は乱れた。
(講談社学術文庫『倭国伝』p.397)
「持明」とは「持明院統」、すなわち「北朝」を意味している。 懐良親王については詳しくは次回に書く予定だが、『明史』には「良懐」が何度も登場しているので、明にとっては重要な交渉相手であったはずだ。
『明史』で最初に「良懐」が登場する場面を紹介しよう。
明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。
洪武二年(1369年)3月、太祖は外交官の楊載(ようさい)を日本に遣わし、勅書を与えて教え諭し、さらに沿岸侵入について非難した。その内容は次の如くである。
「わが国に朝貢する気があれば挨拶に来られよ。それがいやならば兵を訓練して防備を固められるがよかろう。どうしても侵入をやめぬというならば、我が方としてはただちに将に命じ、貴国を征伐に赴かせるであろう。王よ、よく考えられよ。」
しかし日本国王良懐は太祖の命に従わなかった。そして山東の侵攻をくりかえし、南に転じて温州・台州・明州一帯の沿海の民衆を掠奪し、さらに福建沿海の諸郡を侵略した。
(講談社学術文庫『倭国伝』p.394~395)
このように『明史』には、明に服従しなかった人々が日本に亡命して、日本の農民とともに山東の沿岸地帯を襲撃したことを明記した上、さらにわが国の南朝勢力が倭寇に絡んでいたことを示唆している。このような記述内容においては、明国にとって公式記録に嘘を書く動機は乏しいと思われるのだが、なぜかわが国の戦後の歴史叙述においてはこの重要な記述が無視されているのである。
おかしな戦後の教科書
「寇」という字は、「外から侵入して害を加える」という意味なのだが、「倭寇」という言葉は、普通に考えて被害者の立場である元や高麗などが用いるべき言葉である。その言葉をわが国の通史でそのまま用いるということは、日本側が加害者であることを著者が認めているに等しい。
『元史』や『高麗史』では「元寇」という言葉は用いられず「日本征伐」とか「東征」と表現している。要するに普通の国は、自国の歴史叙述に際して自国が他国に悪いことをしたようには書かないものなのである。
戦前の歴史書を「国立国会図書館デジタルコレクション」で調べると、すでに「倭寇」という用語がかなり用いられていたことがわかるが、「八幡船」という用語が用いられている書物が結構多く、昭和十八年に文部省が編纂した『初等科国史. 上』でも「倭寇」ではなく「八幡船」という言葉で叙述されていることがわかる。
そもそも、倭寇のメンバーは日本人ばかりではなかった。『明史』にも明確に書かれているように、前期倭寇の勢力には少なからず中国人・高麗人がいたし、後期倭寇は中国人が大半であったことがわかっている。にもかかわらず、なぜ戦後の歴史叙述で、「倭寇」という言葉で統一されてしまったのであろうか。
私の推測ではあるが、その理由は「日本だけが悪かった」という歴史観で日本人を洗脳する役割を担わされた人々が、「八幡船」と書くよりもよりも「倭寇」という言葉を用いた方が日本が加害者であったとするニュアンスが伝わり、都合が良いと考えたのではないだろうか。
たとえば、今の標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、「倭寇」についてこのような解説をしている。
こうして東アジア地域で。あらたな国家の建設がなされているかたわらで、海の道を舞台に活動する集団がいた。その出身は九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人で、彼らの一部は貿易がうまくゆかなくなると、海賊的な行動をとり、倭寇と呼ばれておそれられた。李成桂はこの倭寇撃退に名をあげ、ついに高麗をたおしたのである。
(『もういちど読む 山川日本史』p.109)
この教科書を読むと、 13世紀から16世紀にかけて活動した倭寇の構成員は、全て日本人であったと理解するしかないのだが、これは全く事実と異なる。時代を経るにつれて構成員は日本人主体から、中国人や高麗人主体に移っていったことがわかっているのだが、このような教科書の記述になっているはなぜなのか。
ついでにいうと日本史の教科書でありながら、倭寇を撃退した人物として李成桂の名を記すこともおかしな話なのだが、近隣諸国が声高に主張すればわが国の歴史が書き換えられてきた時代が長く続いていることを知るべきである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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