戦後GHQは市販されている多くの書籍を没収・廃棄し、日本人に読めないようにしたが、戦前から日本が統治していた朝鮮半島や台湾、樺太などに関する書籍も処分している。
朝鮮半島に関する書籍は26点、台湾に関する書籍は3点、樺太に関する書籍は4点と決して多くはないが、朝鮮半島に関する書籍の中には朝鮮人が書いた書籍も何冊かある。その中から姜昌基 著『内鮮一体論』の一部を紹介したい。
民族が歴史をつくったのではなく、歴史が民族をつくった。そうした経緯において日韓の両民族がつくられた。近代の民族学者が教えるのである。民族の観方に三様の体型が許される。それが自然発生的――血族体であるという意味で、その限りのものを自然民族ということが出来るならば、これに対して、一定の文化形態に結ぶ民族の協同体、それは一元自然民族たると多元民族のそれたるを問わない。ただ共通の文化圏において存するというだけの特殊な見方においての民族体として、これを文化民族ということができる。例えば、自然民族的にいうならば、必ずしも一体民族ではないが、しかし、その言語や習慣や思想や生活形態において同一文化系統に集結される民族体である。而してその第三は、これもやはり同様の規格形態において、一定の政治意識と現実において集結される民族協同体を政治民族として考えることも可能となる。この場合、その政治民族は、純一なる一元自然民族であることも許されるし、そうでない多元自然民族であることも許される。要するに、その共同体意識の上に、統一的な政治的個体的独立意識を明確にもつというところに、特徴的なモチーフを把握して考えるとき、そこに政治民族が成り立つのであるが、それは一定の政治圏を成すという意味で、一元自然民族の中で、更にいくつかの政治民族が分裂的に独立することをも決して拒むものではない。
ところで、同祖同根の一元的な民族として内鮮を分離せしめたものはじつにこの政治民族としての独立分裂なのであるが、従って、王朝初期桓武天皇頃までの内鮮関係が、今から回顧すれば不思議にさえ思えるほどに親密だったことは、相互に同祖同根の単一自然民族であり、それからの政治民族として二義的な分岐でしかないという根本の事実に基づくのであって、接壌する漢民族の勢力的な威力を、常に地域的に直接に蒙りつつ、一葦帯水とはいっても、玄海の荒波に隔てられて漸くにして交渉を薄弱にした古朝鮮は、同胞の国日本の其自然民族的歴史関係と雄書を遠くへ押しやり、海の彼方に忘却してしまったのである。そして、その政治民族としての独立意識の中に漸く疎遠した。とともに、日本はまた日本としての政治民族的な独立意識の中に、海の彼方へその同胞の国を――同胞の国としての古朝鮮の意義を忘れてしまった。そうした自然的分離と忘却の中に、その政治民族的意識のみが鋭く成長し、東亜における政治経済上の種々なる事態が、この意識の発展と成長に愈々拍車をかけるとともに、かつては同一の神に祈り同様の風俗と習慣の中に息吐き、同じような思想と性格と感情を懐いて、同一の言語に同一の生活をしたところの内鮮が、自然環境的社会環境的に段々に乖離し始めた。いわゆる朝鮮民族と日本民族とが、そうした歴史の中につくられたのである。
しかして遂に、互いにかみ合う状態にありとする独自の民族意識を相互にいよいよ鋭くして、このような政治民族以前における民族の単一関係、切っても切れぬはずの本質的な族戚関係をきれいさっぱり忘れてしまった。されからとにかく千年以上の世代を隔てる。この間にはしばしば両者に背馳的な事態をも生じた。例えば、しわゆる神功皇后の三韓えんせいである。豊太閤のそけである。西郷南洲の征韓論である。そうした剣戟の事さえ起った――起こりえたのである。南洲のそれは、ヨーロッパに対する大亜細亜主義へのそれのためであり、豊太閤の場合にあってさえそうした意味の、しかし彼の野望に出づる大経綸のための第一歩であったのであり(豊太閤の真意は、朝鮮征討ではなく支那計略だったといわれている)、神功皇后の場合は、漢民族の勢力にあやつられて、態度常なきそれへの弾劾として、実は支那に対しての剣戟だったという意味で、直接にいわゆる朝鮮侵略のための起兵ではなかった、と思うのであるが、しかしとにかくそうした剣戟にも及んだのである。…こうした政治民族としての対立的な葛藤の関係は、かつては実際に、政治民族としてもなおかつ協和と協同の親密の関係にあったにもかかわらず、一に支那の勢力的な摩擦と刺激によって結果づけられたのだという意味しか持っていない限りに於いて、決して本質的なものではなかった。本当の意味からいうなら、日支の民族葛藤が、朝鮮に仇花を咲いた、衝撃の火花を散らしたというだけに過ぎない。内鮮の隔離については、支那がたしかに重大な被告人だ。
(姜昌基 著『内鮮一体論』国民評論社 昭和14年 p.184~188)
かつて日本と朝鮮半島とは親密な関係にあったのだが、支那との関係において何度か干戈を交えることとなり、それ以来政治的な対立が続いてきた。日韓合邦により一つの国になった今、政治民族体を双方が解消して、同祖同根の民として一体化すべきであると述べているのだが、このようなの著作をなぜGHQが焚書処分したのであろうか。この本には戦勝国にとって都合が悪い史実が具体的に書かれてはいないことは、この本の序言や目次を見ればわかる。
この本が焚書されたのは、おそらく、日本本土と朝鮮半島は仲良くすべきだという主張そのものにあったのだろう。以前このブログで松井賢一氏の『打倒英国』のなかから「われ等のもっとも要心堅固なるを要するは、英国の伝統的悪辣政策「デバイド・エンド・ルール」すなわち「仲間割れをさせ、それに乗ぜよ」という方針である。出来るだけ相手方の内輪で争闘を起こさせ、しかして、英国に立ち向かうことを不可能ならしめるように、相手国の内部を攪乱することを目的とする英国外交の秘訣である。」と言う文章を紹介したが、戦勝国からすれば、アジア人同士が仲良くなるよりも、ずっと対立関係にある方が都合が良いと考えていたのではないだろうか。
以前、外国人の著作として紹介した 李東華 著『国防と朝鮮人』と言う本も同様の理由で焚書にされたのだろう。この本にはこう書かれている。
日清、日露の戦役は日本にとって、いまだ帝国主義的戦争ではなかった。それは欧米の帝国主義的競争威圧に対する国民的反抗であったのだ。ここにこそ、その世界史的意味があるのだ。
(李東華 著『国防と朝鮮人』黄人社 昭和8年刊 p.7~8)
従ってその直後に生じた日韓合邦についても、同様の立場に依るものがあって所謂「汎アジア」の思想がその根底なのだ。
従来白人の直接・間接の支配を受け、呻吟しつつあった有色人種の世界が、一斉に覚醒を叫んで奮起せんとした。日韓合邦は、それらの機運が打ち上げた花火であった。
花火はアジアの暗黒の空に、ヨーロッパに対する、反逆的宣言として、前兆として、予告として、象徴的な光を放ったのだ。それは他日、日本が有色人種の旗頭として白人の覇権に拮抗せんとする希望と、また他のアジア諸国が、日本を盟主として白人の覊絆より脱却せんとする先駆的役割を意味したのだ。
以下のリストは、GHQ焚書のリストの中から、タイトルに「韓(国)」「(朝)鮮」「台湾」「樺太」を含む本を集めたものだが、国立国会図書館デジタルコレクションURLの記載のあるものは、ネット公開がされており、ネット環境があれば 誰でも 無料で読むことができる。
【朝鮮半島関係書籍】
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
大阪より満鮮北支へ | 杉 道助 | 大阪商工会議所 | ||
国防と朝鮮人 | 李東華 | 黄人社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464784 | 昭和8 |
事変下の満鮮を歩む | 新里貫一 | 新報社 | ||
すめら朝鮮 | 上田竜男 | 上田竜男 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275884 | 昭和18 |
鮮満事業 昭和10年版 | 久司民次 編 | 福徳生命保険 | ||
鮮満支新興経済 | 小島精一 | 春秋社 | ||
鮮満の興亜教育 | 伊藤献典 | 目黒書店 | ||
鮮満北支を語る | 西島東洲 編 | 紙業出版社 | ||
鮮満を観察して | 北條為之助 | 大成社 | ||
起て!朝鮮人行け!満洲国 | 李東華 | 黄人社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1270952 | 昭和11 |
朝鮮役水軍史 | 有馬成甫 | 海と空社 | ||
朝鮮経済年報.
昭和15年版 | 全国経済調査機関 聯合会 編 | 改造社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445222 | 昭和15 |
朝鮮工業の現段階 | 川合彰武 | 東洋経済新報社 京城支局 | ||
朝鮮同胞は語る | 金洪澳 | 脇和互助会 | ||
朝鮮の決戦態勢 | 鈴木武雄 | 朝日新聞社 | ||
内鮮一体論 | 姜昌基 | 国民評論社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268330 | 昭和14 |
内鮮同化論 | 田中勲 | 田中勲 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021430 | 大正14 |
日韓合邦秘史. 上巻 | 葛生能久 | 黒竜会出版部 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225270 | 昭和5 |
日本の誇 朝鮮関東州 | 北垣恭次郎 | 明治図書 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1720011 | 昭和7 |
北支満鮮旅行記. 第2輯 | 本多辰次郎 | 日満仏教協会本部 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096248 | 昭和11 |
僕の見た満鮮 | 小生夢坊 | 月旦社 | ||
満州・支那・朝鮮新聞、 記者卅年回顧録 | 楢崎観一 | 大阪屋号書店 | ||
満・鮮 | 山本実彦 | 改造社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907562 | 昭和7 |
満鮮視察記 | 森田福市 | 森田福市 | ||
満鮮三千里 | 依田 泰 | 中信毎日新聞社 | ||
満蒙鮮血の清算 | 内藤隈南 | 東亜社出版部 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445462 | 昭和16 |
【台湾関係書籍】
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
台湾教育の進展 | 佐藤源治 | 台湾出版文化 | ||
南方の将来性 台湾と蘭印を語る | 大阪毎日新聞社 編 | 大阪毎日新聞社 | ||
満洲・台湾・海南島 | 石山賢吉 | ダイヤモンド社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043883 | 昭和17 |
【樺太関係書籍】
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
支那事変樺太盡忠録 | 軍陣援護会 樺太支部編 | 北方文化出版社 | ||
大東亜語学叢刊 樺太ギリヤク語 | 高橋盛孝 | 朝日新聞社 | ||
血に彩られた北樺太 | 能仲文夫 | 中央情報社 | ||
日露樺太外交戦 | 太田三郎 | 興文社 |
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
無名の著者ゆえ一般の書店で店頭にはあまり置かれていませんが、お取り寄せは全国どこの書店でも可能です。もちろんネットでも購入ができます。
電子書籍もKindle、楽天Koboより販売しています。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント
しばやんさん、こんにちは。いつも楽しくブログを拝見しています。
>英国の伝統的悪辣政策「デバイト・エンド・ルール」…幕末における英国の酷さは想像以上です。今、小栗上野介の動画を作成中なのですが、調べていくととんでもないことに出くわします。そんな中でパークスは、別格に残虐だったことも。
アトランティック・マンスリーというボストンの権威ある月刊誌に、エドワード・H・ハウスが1881年に論文を寄稿しています。その中に、パークスという男の凶暴性が記されています。曰く「着任後最初にしたことは、理由は判らないが、長崎奉行に烈火のごとく怒り、恐怖に陥れ震えるお奉行に暴行を加えることだったということは記録に残っている。」「公的交渉の席でコップを投げつけて割り、この通り日本は粉々になるぞ」などと脅していることも書かれています。
そして、’the use of the word “Edo” was formally forbidden, on account of its association with the long supremacy of the usurping house of Tokugawa, and “Tokyo” was substituted therefor. ’(パークスによって)「江戸」という言葉の使用は正式に禁止され、「東京」に置き換えられたとあります。このページの脚注の記述です。
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.b000556064&view=1up&seq=631
そして、この変更は英国政府でさえも認めていないとあります。14ページの英文なので飛ばし読みですが、幕末から明治にかけて戦後のマッカーサーのように振舞っていたのではないかと想像できます。5月にロンドンの「パル・マル・ガゼット」紙でこの論文に対する投稿があり、議論を呼んだそうです。このハウスは、それをこの年の6月に当時参議だった大隈重信に報告、その後の経緯は判りませんが、10月の明治14年の政変で大隈が下野、そしてパークスも反論の論文を寄せたそうですが、結局ハウスの論文がもとで2年後に、さすがに英国政府もパークスを罷免しています。
このハウスは、1869年にニューヨークトリビューン紙の記者として来日し、1901年の死の直前に叙勲されています。小村寿太郎外務大臣の推薦文に、『英国公使「パアクス」、他の外国公使と謀り、常に帝国政府に反抗したるとき、米国公使「デロング」も英国公使に味方して我に利ならざるを以て・・・』とあります。叙勲の公文書に名指しで非難しているので、想像もできない残虐性であったに違いありません
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000050949&ID=M0000000000000041726&TYPE=&NO=
『日米交流』というサイトに詳しく書かれています。
http://www.japanusencounters.net/house_3.html#relay
シドニー学院さん、コメントありがとうございます。
エドワード・H・ハウスと言う人物は知りませんでした。ネットで検索しても、紹介いただいた『日米交流』のサイト以外にはあまり情報は出てこないですね。貴重な情報ありがとうございます。
ハリー・パークスは癇癪持ちで部下からもあまり好まれていなかったようですね。
英国は幕末の日本に対立の種を蒔いて、討幕勢力を育て、伝統的な「分割統治」に持ち込んで、日本を分断し弱体化させる考えがあったのだと思いますが、討幕派も、旧幕派も外国勢力の助けを借りて戦っては、最終的に国が奪われるとの認識があったのかも知れません。
幕末から明治にかけて、何度かわが国は、西洋の植民地にされる危険がありましたが、うまく乗り越えてきたものだと思います。
コメントはしっかり届いています。私が返事を書くと同時に、頂いたコメントが承認されて、コメント欄に表示される仕組みの様です。返事が遅れてしまって申し訳ありません。
しばやんさん、こんにちは。いつも楽しくブログを拝見しています。
>英国の伝統的悪辣政策「デバイト・エンド・ルール」…幕末における英国の酷さは想像以上です。今、小栗上野介の動画を作成中なのですが、調べていくととんでもないことに出くわします。そんな中でパークスは、別格に残虐だったことも。
アトランティック・マンスリーというボストンの権威ある月刊誌に、エドワード・H・ハウスが1881年に論文を寄稿しています。その中に、パークスという男の凶暴性が記されています。曰く「着任後最初にしたことは、理由は判らないが、長崎奉行に烈火のごとく怒り、恐怖に陥れ震えるお奉行に暴行を加えることだったということは記録に残っている。」「公的交渉の席でコップを投げつけて割り、この通り日本は粉々になるぞ」などと脅していることも書かれています。
そして、’the use of the word “Edo” was formally forbidden, on account of its association with the long supremacy of the usurping house of Tokugawa, and “Tokyo” was substituted therefor. ’(パークスによって)「江戸」という言葉の使用は正式に禁止され、「東京」に置き換えられたとあります。このページの脚注の記述です。
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.b000556064&view=1up&seq=631
そして、この変更は英国政府でさえも認めていないとあります。14ページの英文なので飛ばし読みですが、幕末から明治にかけて戦後のマッカーサーのように振舞っていたのではないかと想像できます。5月にロンドンの「パル・マル・ガゼット」紙でこの論文に対する投稿があり、議論を呼んだそうです。このハウスは、それをこの年の6月に当時参議だった大隈重信に報告、その後の経緯は判りませんが、10月の明治14年の政変で大隈が下野、そしてパークスも反論の論文を寄せたそうですが、結局ハウスの論文がもとで2年後に、さすがに英国政府もパークスを罷免しています。
このハウスは、1869年にニューヨークトリビューン紙の記者として来日し、1901年の死の直前に叙勲されています。小村寿太郎外務大臣の推薦文に、『英国公使「パアクス」、他の外国公使と謀り、常に帝国政府に反抗したるとき、米国公使「デロング」も英国公使に味方して我に利ならざるを以て・・・』とあります。叙勲の公文書に名指しで非難しているので、想像もできない残虐性であったに違いありません
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000050949&ID=M0000000000000041726&TYPE=&NO=
『日米交流』というサイトに詳しく書かれています。
「日米交流 japan-us encounters」で検索、「19のエドワード・ハウス3」
*昨夜と今朝、2度投稿しましたが、以前のようにまたゴミ箱に入ったのかもしれません。この『日米交流』というサイトは、米国滞在が長い方なのか、個人で丹念に英語の文献にもあたっています。ヤバい情報も満載なので、URLがはじかれている可能性があり、URLなしで再度投稿します。
シドニー学院さん、コメントありがとうございます。
エドワード・H・ハウスと言う人物は知りませんでした。ネットで検索しても、紹介いただいた『日米交流』のサイト以外にはあまり情報は出てこないですね。貴重な情報ありがとうございます。
ハリー・パークスは癇癪持ちで部下からもあまり好まれていなかったようですね。
英国は幕末の日本に対立の種を蒔いて、討幕勢力を育て、伝統的な「分割統治」に持ち込んで、日本を分断し弱体化させる考えがあったのだと思いますが、討幕派も、旧幕派も外国勢力の助けを借りて戦っては、最終的に国が奪われるとの認識があったのかも知れません。
幕末から明治にかけて、何度かわが国は、西洋の植民地にされる危険がありましたが、うまく乗り越えてきたものだと思います。
コメントはしっかり届いています。私が返事を書くと同時に、頂いたコメントが承認されて、コメント欄に表示される仕組みの様です。返事が遅れてしまって申し訳ありません。