復刊された『敗走千里』
GHQが焚書処分した本の中に、日本に留学していた中国人が帰省時に徴兵されて、支那事変を戦った手記が残されている。『敗走千里』という名の本だが、五年ほど前にハート出版から復刊されているので、すでに読まれた方も多いかもしれない。
著者の陳登元は十四、五才の時に来日し、日本の大学に進学して昭和十三年には卒業する予定であったのだが、支那事変が拡大したのを心配して一度郷里に戻ったところ、強制的に兵隊にとられて戦線に送られてしまう。二カ月ほど兵隊生活を送り、かなりの重傷を負って病院に収容され、傷も良くなってからこの本の原稿を書き、日本でお世話になった大学教授に送ったのだが、昭和十三年(1938年)三月にこの原稿が翻訳されて刊行されるや、百万部を超える大ベストセラーとなったという。
中国兵の徴兵
初めに紹介するのは、彼が兵隊にとられる場面である。
わが国なら戸籍に基づいて召集令状(赤紙)が来て、家族は赤飯を炊いて出征兵士を送り出した。
一方、当時の中国には戸籍がなかったので、募兵官が直接人集めにやってきて、こういう時に中国人は、いかに徴兵から逃れるかが関心事であったようだ。彼は家の中の秘密の部屋に隠れて徴兵を逃れようとしたのだが、五六人の兵士が両親を縛り上げて、八方に分かれて家宅捜査を始めたのである。なかなか見つからないので募兵官が老夫婦を脅迫するところから引用する。
探しあぐねた兵士たちは、店先に取って返してそこに縛られている父や母をまた責めだした。
「お前たちが飽くまで自分の息子をかばうというなら、こっちにも考えがある。群衆に命じて略奪もさせよう。群衆はお前たちも承知の通り、屋根の瓦から、床板まで剥がして持っていくだろう。むろん、お前たちは国家の統制を乱すものとして銃殺だ。…どうだ、それでもまだかばうつもりか。」
老人夫婦はふるえるばかりで口も利けなかった。顔も上げられなかった。その時、店先にたかっていた野次馬の中から「その家には、秘密の地下室があるんだ、その中に隠れているに違いねえ』と言うものがあった。誰か近所の、事情を知っているものらしかった。
陳登元 著 『敗走千里』,教材社,昭和13 p.82~83
彼は遂に発見された。
「彼」というのは主人公の事で、著者の陳登元氏は自分の事を「陳子明(チェンツミン)」という名で登場させている。彼は徴兵忌避の罪で銃殺刑に処せられるところを、彼を知る中隊長に命を助けられて軍隊に入り、斥候(せっこう)を命じられている。
中国の斥候兵
斥候の主な任務は敵軍の様子を探り監視することである。斥候を命じられた中国軍の仲間たちがどんな行動をとっていたかがわかる部分をしばらく引用する。
この戦争の初め頃は、誰も今程この斥候に出るのを厭がリはしなかった。嫌がるどころか、古くから兵隊をやっている者共はその殆ど全部がその斥候を志願したものだった。この分隊から下士斥候が出るという時なぞそれの参加志願者で押すな押すなの騒ぎだった。
「分隊長殿、今度は儂(わし)をつれてって下さい」
「馬鹿! お前はこの前の時に行ったじゃないか。今度は俺だ。」
そんな始末だから、洪傑(ホンチェ:分隊長の名)としても斥候の人間に困るようなことはなかった。沢山の志願者の中から気に入りの者だけを抜き出せばいいわけだった。
下士斥候は大概の場合、五名か六名だ。それが揃っていざ出発という場合、彼等はにやりと何か意味ありげな微笑をかわす。陳子明の如き、わずか一カ月ほど前から強制徴募されてきた新兵には、その微笑が何を意味するものか、初めは全然わからなかった。
が、二時間ほどして、意気揚々と帰ってきた彼らを見て、新兵たちは初めて、彼らが何故にあの危険きわまる斥候を志願するかが解った。彼等は実におびただしい種々雑多な戦利品をぶら下げているのである。主に時計とか指輪、耳飾り……といったような、小さくて金目のものだが、中には重いほどそのポケットを銀貨でふくらまして来るものがある。
ある一人の兵が持っていた耳飾りの如き、現に、たった今まである女の耳にぶらさがっていたものを無理にひきちぎってきたからだろう、血痕が滲んでさえいた。しかもその兵の、無智、暴戻、残虐を象徴するかのごとき、ひしゃげた大きな鼻、厚く突き出た大きな唇、鈍感らしい黄色い濁った眼……その眼が何ものかを追憶するようににたりにたりと笑い、厚い大きな下唇を舐めずり回している顔を見ていると、陳子明の胸には、何かしら惻々(そくそく)とした哀愁が浮かんできてならなかった。あの血痕の滲んだ耳飾りと関連して、何かしら悲惨なことが行われたような気がしてならないのだった。
同上書 p.3~5
時計や指輪などが略奪してきた品々であることは言うまでもない。中国の兵隊は斥候をしながら中国民衆から金品を巻き上げるだけではなく、女性を凌辱する者もいたのである。
この会話はさらに続いて、耳飾りをしていた女性を殺したのかという質問に対しては、この兵士はあいまいにして答えなかったのだが、この言葉のやり取りまで引用すると長くなるので省略することとして、彼が中国の軍隊の本質を述べている部分を引用する。
陳子明はすべてを見た。そして、聞いた。彼はこれだけで戦争なるもの、更に軍隊なるもの、本質を残らず把握したように思った。戦争なるものがひとつの掠奪商売であり、軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊*であるということである。
しかし、そんなことは今どうでもいい。問題は、自分が好むと好まざるとにかかわらず、国家という大きな権力の下に、自分がその匪賊の仲間入りしたことである。自分一人は純潔のつもりでいても、濁水の中に交った清水は結局濁水である。
同上書 p.6~7
*匪賊:集団で略奪などを行なう盗賊
便衣となって逃げる
次の場面は、彼の所属する軍が窓覆いをおろされて外の景色が見えない電車に乗せられ、どこかわからないところに移動しているところである。仲間同士で、もうすぐ日本軍と大激戦になって死ぬ者がかなり出るだろうという話題になり、そこで軍曹が、おれが指揮官だったら兵隊を犬死させないためにこういう策戦をとると、周りの兵隊に話を持ちかけた。ポイントとなる部分を引用する。
「ほう、どんな策戦です?」
同上書 p.130
生命が助かるということだったら、今の場合、どんな児戯に類したことでも聞きたい。それは偽りのない彼らの心境だった。
「それは、敵に気づかれないように、ここの戦線をそっと引き揚げるんだ。そして、奥地の山岳地帯に敵を誘い込んで、ここに現れたかと思うと、彼方に現れ、あちらに現れたかと思うとこちらに現れ、敵を奔命に疲らすんだ。そして、俺達は全部、便衣になるんだ。そしていよいよ追い詰められた時は、百姓になって誤魔化してもいいし、商人になってもいい。とにかく良民に化けて敵の眼からのがれる工夫をするんだ。」
「便衣」というのは普段着のことだが、要するに切羽詰ったら軍服を脱いで一般人に変装して前線から逃れたり、あるいは隙をついて日本軍に攻撃を仕掛けようと言っているのだ。しかもその「便衣」も、どこかの村などから衣服を略奪することが多かったようだ。
大虐殺があったとされる「南京事件」では、実際に中国兵が軍服を脱ぎ捨てて一般人になりすまして日本軍を攻撃したのだが、このような行為は明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうからだ。
それゆえに、もし平服で敵対行為をすれば戦時重罪犯の下に、その場で死刑かそれに近き重罪に処されることは戦時公法の認めるところである。この場合にゲリラを処刑する行為は「虐殺」にも「捕虜殺害」にもあたらないのだ。
下の画像は岩波新書『南京事件』P107にある便衣兵の画像である。
逃げる兵を狙い撃つ「督戦隊」
次に紹介するのは実際の戦いの場面であるが、日本軍の追撃におされて、退却しようとする中国兵に味方の兵が銃を撃つ場面である。
混乱に陥った退却部隊は、彼を追い抜け、駆け抜け、先へ先へと走った。たちまちのうちに二三ヶ中隊ぐらいの歩兵は、彼を後にして前に立った。が、後ろを振り返れば、退却部隊はまだ無限に続いていた。
遥か前方に、町の屋根が見え始めた。昨日まで彼らの休養していた町だった。
「さア、このくらい遅れて行ったら、まさか自分が退却の責任者としてもんせきされることもあるまい」——彼がそう思って、再び歩度をはやめようとして時だった。遥かに展望しうる町の方向に当たっていきなり、バン、バン、バン……と銃声が起こった。音とともに、ビュン、ビュン、弾丸が飛んできた。
「督戦隊!」
瞬間、彼の頭に浮かんだ疑問だった。が、
「督戦隊がこんなところに居る筈はない!」…中略…
が、銃弾は相変わらずビュンビュン飛んできた。…中略…退却部隊はひっきりなしに、ざっ、ざっ、ざっ……と走っている。終いになる程、ただ色でない顔つきになってくる。みんな必死の顔だ。服装までが裂けたり、泥だの血だので汚れ返っている。しかも、追撃に移った敵軍の銃砲聲が、猛烈に、手に取るように近々と聞こえ出してきた。本来ならここらで一旦退却体制を整備して、反撃に移らなければならないのだ。それは、中体調ともあろう彼の充分承知していることだ。
が、この死にもの狂いの見方の軍隊の顔つきを見ると、それは到底不可能だと諦めに到達する。「止まれーっ」なんかと、剣を振り廻すだけ、野暮の骨頂であり、見方から嗤われ、怨まれる。こうなっては自然に任すより他はないのだ。
要するに、彼も激流に投じられた一滴の水に過ぎない。一緒に走るより他ない。だから彼は走った。走っていると、より一層早く走らなければならないという気持ちに駆り立てられる。すぐ自分の背後に、追撃して来る敵軍の銃剣を感じるのだ。芒の穂のような、あの何万と言う銀色に輝く敵の銃剣だ。
町に近づくにつれ、異様な光景が眼につき出した。仲間の退却軍であろう。あちこちに屍骸をさらしているのだ。自分が肘をやられたと同じく、味方から発砲されて、やられたものに違いない。
退却部隊は、町の入口近くで急に右に曲がって、町の北側の方向に延々と続いて走っている。おかしいぞ――と思っているうちに、彼はその曲がり角のところに来た。そして見た。急拵えの鉄条網が町の入口を塞いでいるのである。そして、その背後に武装した兵士がずらっと、機関銃の銃口とともに、自らの方向を睨んで立っている。しかも、そのすぐ前には、堂々と塹壕の掘削工事が始められている。…
同上書 p.136~139
要するに、兵士が簡単に退却することがないように、町の入口に鉄条網を張って町に入れないようにして、退却しようとする兵士は味方の中国兵によって銃殺されていたのである。
ちなみに、主人公の陳子明氏は鉄条網の向こう側にうまくもぐりこんで命を拾ったのだそうだ。 この本の中に何度か出てくるのだが、中国軍には前線の後方にいて自軍の兵士を監視し、命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)したり、降伏するような行動をとれば自軍兵士に攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った「督戦隊(とくせんたい)」という部隊が存在した。この督戦隊に殺された中国兵士が日中戦争では少なくなかったのである。
次のサイトは台湾のサイトであるが、
「在中日8年戰爭中的中國軍督戰隊是使中國軍隊死亡數目最多的原因之一。」
と書かれている。
日中戦争で多数の中国軍兵士が死亡した最大の原因のひとつがこの督戦隊によるものであったと中国語のサイトに明記されているのだ 。
http://www.buddhanet.idv.tw/aspboard/dispbbs.asp?boardID=12&ID=27094&page=7
『南京事件』では、南京の城門のところに多数の中国人の死体が積み重なっていたことが、多くの日本兵士によって目撃されており、日本軍との戦争で死亡した兵士よりも、自軍の督戦隊に射殺された兵士の方がはるかに多かったのではなかったか。なぜ中国兵が書いた戦争の記録が焚書処分されたのか、それが問題だ。
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