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「何も芸がない」蛭子能収が漫画家・タレントデビューできた理由「時代の流れに乗った」

2014.10.23 (Thu)
2014年10月11日放送のテレビ朝日系の番組『ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ!』(毎週土 26:15 - 26:45)にて、タレント・漫画家の蛭子能収が、漫画家・タレントデビューできた経緯について語っていた。

ひとりぼっちを笑うな


小杉竜一:蛭子さんが39歳のときですね。劇団『東京乾電池』に参加。役者活動が始まるんですね。

蛭子能収:そうですね。

小杉竜一:デビューから13年間ぐらい、漫画を描いてたわけでしょ?

吉田敬:もう、プロで?

蛭子能収:でも、原稿料はもらえないから、ずっと働いてました。

小杉竜一:ああ、そうなんですか。

蛭子能収:ちり紙交換をしたり、ダスキンの配達をしたり。色んな仕事をしましたね。

吉田敬:え?じゃあ、39歳でもまだ要はフリーター的な?

蛭子能収:そうですね。

小杉竜一:漫画でメシ食えてたわけじゃないんですか。

蛭子能収:食えてないです、全然。…それで、『東京乾電池』の柄本明さんが、「ウチのポスターを描いてくれ」って言われて。漫画を読んでて、ファンだったらしくって。

吉田敬:へぇ。

蛭子能収:ポスターの依頼だったんですね。

吉田敬:へぇ。蛭子タッチで、ポスターを描いてくれ、と。

蛭子能収:それでね、それを3回くらい描いた後に、「蛭子さん、ウチの劇に出てみないか?」って言われまして。

吉田敬:はい。

蛭子能収:俺、本当はイヤだったんですよ。姿形を見せたくないし。

吉田敬:妖怪みたいな(笑)

蛭子能収:それからですね、テレビとかの依頼を受けるようになりまして。

吉田敬:ええ?たった一回で?

蛭子能収:一回で。フジテレビの名物プロデューサー(横澤彪)っていう方だったんですけど。今は亡くなられたんですけどね。その方が、よく東京乾電池の舞台を観に来てて。その人が、『笑っていいとも!』を担当してたんで。「『笑っていいとも!』に出てくれませんか?」って。

吉田敬:ええ?!

小杉竜一:1987年、40歳の時に、『笑っていいとも!』に出演。

蛭子能収:ちょうどこの頃、「素人の時代」って言われまして、世の中のテレビや映画とか、素人を出す番組が流行ってたんですよ。

吉田敬:そういうブームがあったんですね。

蛭子能収:あったんです。それで、なんで俺が漫画家になれたかっていうと、漫画の方も、「ヘタウマの時代」っていうのがあったんですよ。そのヘタウマに乗っかって。

吉田敬:へぇ。

蛭子能収:そしたら、テレビが「素人の時代」っていうことで(笑)俺、何も芸もできないんですよ。ちょうど時代とマッチしたんですね。

吉田敬:へぇ。

蛭子能収:実際のところ…テレビに出てから、漫画の売上、落ちたんですね。漫画のファンが減ったんです。「ええ?!こんな顔だったの?」っていうんで。凄いガッカリされたみたいで。

小杉竜一:手塚治虫さんみたいに思われてたのかな?(笑)

蛭子能収:漫画が、ちょっと神秘的なのを描いてたんで、神秘的に思われてたんですよ。

吉田敬:ショックやったんや。こんなオッサンが描いてるって(笑)

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