絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

恥ずかしいとはどういうことか

パンツじゃないから恥ずかしくない

 人前で裸になるのが恥ずかしくない人は、多くはいないだろう。ぼくは裸になることはとくに恥ずかしくもないが、時と場合によってはえらく恥ずかしく感じることもある。ってまるで四六時中裸でいるみたいだが、まあ精神の話に置きかえれば似たようなものだ。
 ではなぜ人前で裸になると恥ずかしいのか。ときと場合と前述したが、たとえば銭湯に入るときに恥ずかしがって全身を隠す人はあまりいない。なぜ恥ずかしくないかといえばまわりも全員全裸だからなのだが、これはおかしな話だ。たとえば通勤電車の中で大勢が突然脱ぎだしたからといって「じゃあおれも」と脱ぎだすことはたぶんないからだ。
 人はなぜ、恥ずかしいと感じるのだろうか。まず、恥ずかしいと感じているとき、人の体はどうなっているのだろうか?ものの本によれば、恥ずかしいときに人は赤面し発汗する、これは体が興奮したときと似たような状態になるということだ。興奮するとアドレナリンが出て、というのは逆で本当は興奮する出来事が起こるとアドレナリンが出て体が興奮した状態になり「あ、いまおれは興奮している」となるわけだが、まあともあれ興奮するとアドレナリンが出て赤面し発汗する。恥も同じように脳内で何かの作用が起こって体に変化が起こる、そしてその変化はとても恥ずかしい。子供の喧嘩は怒った方が負けである。なぜなら子供の場合、怒るも泣くも嬉しいも悲しいもあまり違いはないからだ。だから子供はことさらクールに振舞おうとするし、相手が怒ったことを指摘するだけで勝ち誇る。馬鹿な話である。

あいつら肛門丸出しで平気だし

 動物が興奮するのは、身の危険が迫ったときだ。怪我をするとアドレナリンが出て血圧が上がり、皮膚表面の血管が収縮する。瞳孔は散大し意識はフル回転。くだらない話で恐縮だがヘソと乳首にピアスをあけたとき(もうふさがってる)、全身が真っ白になりまったくといっていいほど出血しなかったのをおぼえている。人体侮りがたし、である。
 恥ずかしいという感情も、危機を感じたときに発動する。ただしこれは身の危険ではなくて、精神の危険を感じたときのことだ。たとえば、実際の知能を図ると猫よりも犬の方が頭が良いそうだが、パッと見は猫の方が思慮深そうに見える。それはやつら恥ずかしがるように見えるからである。廊下を突然ダッシュしてきたかと思うと「別に……遊んでもらおうとか思ってないし…」といった風情で歩いている、これが人間の目から見ると「照れている」ように見えるのだ。ナニ、あれは馬鹿だから数秒前のことを忘れているだけだ。犬はくらべていつも楽しそうだし別に照れ隠しもしない、だから馬鹿に見える。
 まあ犬猫のことはどうでもよろしい、人間は身の危険を感じると興奮する、精神の危険を感じると恥ずかしくなる。もうお分かりのとおり、精神とはその多くを文化に頼ったツギハギの道具である。だから恥ずかしいという感覚も、人や、場所や、時代によってまったく変わる。いま恥ずかしいと思うことを未来永劫己が死んでからも誰もが同じように恥ずかしいと思うのだと信じているやつがいるとしたら、そいつは馬鹿である、笑ってやろう、わはははは。

いつでも脱げると思えばいい

 だからことさら「裸は恥ずかしくない」とか言うやつも馬鹿である。裸は恥ずかしいにきまってる、もちろん、現代の日本に限っていえばの話だが、人前でべろんべろんと出すものではない。ほんの百数十年前までは丸出しべろんべろんが普通だったとものの本には書いてあるけれども、今はそうじゃないのだからとりあえず恥ずかしいことにしておこう。
 なんだか裸の話ばかりになってしまったが、人はべつに裸だけを恥ずかしがるわけではない。たとえば恥辱、馬鹿だ馬鹿だと言われたり、言い訳のきかない状況で批判を受けたり、自分でもわかってる失敗や、気づいていなかった失敗を指摘されると人は恥ずかしくなる。悔しいだけなら怒りはしない、情けなかったら泣くだろう、相手が間違っていれば冷静に指摘すればよろしい。恥ずかしいとき、人は精神の危険を感じているのである。そして、恥ずかしさに興奮をおぼえ、人はやがて怒りだす。自分を守ろうとして。もう終わったあとなのに。
 ぼくはもうすこし、恥ずかしさに強くなったほうがいいと思うのである、みんな。
 精神を強くする必要はない、弱いままで別にかまわない、単によりかかる基準をちょっと変えればいいだけだ。精神が文化に頼ったツギハギの出来損ないのまま成長すれば、恥ずかしいことは人よりも多くなるだろうし、それがなぜ恥ずかしいのかも考えられないだろう。いろいろな時代のいろいろな考えを知って、いろいろな世代のいろいろな考えを知って、まあ現代の文化はとりあえずおさえておいてあとは好きにすればよろしい。恥ずかしさに強くなればいいことはたくさんある、挑戦することも増えるし、人に優しくもなるだろう。ちなみにこんな偉そうなことを書いているぼくはどうかというと、これが滅法恥ずかしさに弱い、ちょっと批判されると頭をかきむしって反論を考えるし、言い間違いや知識の間違いを指摘されると顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。子供のころは本当に嫌なやつだったし、いまでも嫌なやつだと思う人もいるだろう、仕方ない。そんなぼくでも少しは恥ずかしさに強くなったのだ、きみにできないはずがあるか。