LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

25/1/13 呪術廻戦の感想 領域展開とはいったい何だったのか?

呪術廻戦完結

完結したので全巻一気読み。かなり面白かった!

日車好き👍

Twitterで流れてくる断片から薄々感じてはいたが、だいぶ独特な感性で描かれていてジャンプらしくない漫画であった。この世の高評価作品を「期待に手堅く応える作品」と「見たことがない新しい作品」の二タイプに分けるとすれば呪術廻戦ははっきり後者に入ると思う。

確かに作中では漫画の枠すら超えて様々なコンテンツがオマージュされているし、特に術式がハンターハンターの念能力を下敷きにしていることは誰もが知る暗黙の了解ではある。
しかし要素の活かし方や根本的な感性は似たコンテンツのいずれとも異なる。こういう新しい作品が後続を巻き込んで一つの潮流を作っていくのかもしれないし、作者が持つ唯一無二の武器としてこれからも発展していくのかもしれない。その未来は今はまだわからないが、何か新時代の到来を予感させる良い漫画だった。

もう少し具体的に前置きすれば、表面的なストーリーラインは各編でボスが更新されていくオーソドックスなバトル漫画でありながら、そういうマクロな展開というよりはミクロな台詞・キャラ・能力・戦闘などに唸らされるところが多い。物語全体を駆動する大義や信条よりは、もっと個人的で主観的な世界の見え方や流れが強く意識されている。
とはいえ、そういう視座の高い内面を必ずしも心理描写として描くわけではないのが面白いところでもある。つまりセカイ系のように極端に内省的になることがなければ、熱い少年漫画のように気持ちの絶叫で一点突破していくこともない。むしろバトル上でのシステマチックな要素において世界との関係の在り方が表現されていることが呪術廻戦の白眉であると思う。

正確な台詞回しが気持ちいい

本題であるバトルの話に入る前に、まずは呪術廻戦における台詞の正確さについて触れておきたい。
というのは、呪術廻戦ではどのキャラクターも紋切り型の表現や不正確な省略を嫌い、今話すべきことを正しく話す傾向があることについてだ。個人的な感覚で言えば、呪術廻戦の作中で発せられる台詞の精度は哲学書のそれに近いと感じた。

例えば最初に好ましく感じた台詞として、主人公の虎杖が口にする「正しい死」というやや独特なフレーズがある。

何?

これは「(人が死ぬのが嫌なのではなく)人が理不尽な死を迎えるのが嫌だ」という思想を表現したものだが、本当に正しいことを言っていると思う。ちなみにここで言う正しさというのは「倫理的に善」ではなく「論理的に正確」という意味だ。

正しいものは正しくないものと対比するのが一番わかりやすいのではっきり書いておこう。他の漫画や現実世界でよく発せられる、正しくないフレーズとしては「誰も死なせない」が対応する。
これはよく考えるとかなり不自然な文章、多くの前提を落とした論理的に不正確な表現だと常々思う。人が必滅である以上、長期的に見て「死なせない」という目標は絶対に達成できないからだ。それに市井の感覚とも実はそれほど一致していないようにも感じる。実際、トロッコ問題を持ち出すまでもなく自らの命と引き換えに多くの命を救う自己犠牲の死は普通に称賛される(プラマイプラスなら死んでもよい)。
全てが言い間違いとまでは言わないが、冷静になって世界の前提を正しく整理すれば、本当に言いたいことは「死なせない」ではなく「正しい死」である状況は意外なほど多いはずだ(しつこいようだが、これは死生観や善悪の話ではなく論理的に正しい言葉遣いの話である)。
だから虎杖の思想自体は特異だとは思わない。ありきたりな死生観ではあるが、しかしありきたりな表現に逃げずに高い視座できちんと言語化したときに「正しい死」というワードが出てくるのだと思う。こうして生じた虎杖の発言は他にも「殺すという選択肢が入り込む」「(来栖が)野薔薇の代わりみたいになるのが嫌」など枚挙に暇がない。

また、この発展としてまず少し誤った表現を言いかけて自分で訂正するシーンも頻出する。正確な言葉遣いを心がけるとき、何かを言おうとしてから違和感に気付いて言い直すことはよくある。その過程自体が相手に正確なニュアンスを伝える言語的ジェスチャーだったりもするものだ。
特に夏油や真人などの饒舌な悪役たちがベタな台詞を言いかけて自分でストップをかけたりするのも面白い。あまりにもクリシェじみたことを言おうとすると、それが本当に自分が言いたいことなのかわからなくなってしまう気持ちはよくわかる。

何にせよ、日常的には怠惰や誇張によって様々な前提を捨象した粗雑な言葉が流通するが、正確な言語化を行うためにはまずは高い解像度で世界を捉えなければならない。
そういう「世界の捉え方」が言語的なやり取りだけではなくバトルシステムとしても組み込まれているのが呪術廻戦の真骨頂であり、具体的には領域展開や黒閃に表象されてくる。

渋谷事変:必中と黒閃という発明を見よ

最初に領域展開という奥義を見たとき皆はどう思っただろう?
正直に言えば、俺は設定ミスだと思った。そのくらい奇妙な設定だと感じた。

局所的な世界を展開するタイプの能力自体はよくある。
例えば「固有結界」「領域(テリトリー)」「虚軸(キャスト)」「異天空間(トバリ)」「世界種(ワールド)」など。タイプとしての通称が与えられていないものまで含めば、スタンド能力、念能力、卍解能力の一部なども同じカテゴリーに入るだろう。
その手の能力は領域内に限って「質的に新しい能力」を発現するのがスタンダードだ。異なる世界では異なるルールが適用され、それまでとは違う強力な攻撃を可能にすることでバトル上での機能が果たされる。

一方、呪術廻戦の領域展開では最初に提示される効果が単なる「必中」だ。質的に新しい能力は出てこず、領域展開をしなくても使える術式がただ必ず当たるだけ。

なんで?

もちろん現実的に考えて攻撃が絶対ヒットするのがかなり強いのはわかるが、しかしそうは言っても能力バトルの究極奥義が「必中」というのはちょっと地味すぎやしないか。わざわざ独自の印相によって独自の世界を展開するにも関わらず、その効果は使用者によらず同じ。実質的にはほぼ即死を意味するので展開上の差分も出ない。
実際、作中でも領域展開対策は「必中効果を無効にする汎用抵抗能力(簡易領域や彌虚葛籠)」を発展させる方向で進んでしまう。攻撃が一律なら対策も一律、相手の領域展開が何であろうと必中をシャットアウトする抵抗能力を使えばいい。能力バトル的な相性とか攻略を考える余地が残らない。
もっと身も蓋もないことを言えば、必中なんてわざわざ奥義として設定しなくても作者の匙加減で当てたり当てなかったりすればいいのではとか、少なくともハンターハンターで念能力者が領域展開を取得したとしてもあまり面白そうじゃないなとか考えたりもしてしまう(リッパー・サイクロトロンが必中必殺になってフィンクスがネテロを倒すバトルが面白いか?)。

続けて登場する「黒閃」も同じくらい変な技設定だ。

つまり?

「誰でも使い得る技であってそれ自体は固有能力ではない」というところは領域展開に似た立て付けだが、今度は必中とは真逆に「狙って出せない」「ほぼランダム」という設定がわざわざ与えられている。鍛えて強化した末に習得する技ではなく、運さえ良ければ誰でもいつでも使える技に必殺技としての格が与えられている謎。
更に、黒閃は発生がランダムである割には進化イベントまで兼ね揃えている。つまり一度発動に成功すれば「呪力の核を掴む(?)」ことで使用者が明確にワンランク強化されるのだ。「強くなったから黒閃が打てる」のではなく「たまたま黒閃を打てたから強くなる」というのは順序が逆で、少年漫画によくある修行パートへのアンチテーゼですらある。

しかし、呪術廻戦では己から見た世界の在り方が重視されていることに気付くといずれも腑に落ちる。要するに、領域展開の必中も黒閃も「世界の流れが良いこと」の表現なのだ。
仕事でもスポーツでも勉強でも恋愛でも何でもいいが、人生において「流れ」が来る時間は誰にでもある。全てが絶対にクリーンヒットする自信、そして2.5乗(?)の出力。
それは「ツキ」とか「ノリ」と呼ばれるものでもあって、本質的にアンコントローラブルなはずの領域への不合理な確信があるが故にスペシャル足り得るのだ。そして運良くそういう成功体験を一度通れば、その流れを思い出すことで一定の再現性が得られたりもする(核心を掴む!)。

人がワンランク上に進む奥義の本質とは何か。
この問いに対し、肉体的精神的に確実な成長ではなく、逆に運によって感覚される「己と世界の流れ」を答えとした表現が領域展開の必中であり黒閃でもある。そういう「感じ」は善悪や思想とは無関係に誰にでも生じるものだから、固有の術式によらず誰でも使い得る汎用スキルとして設定されているのも納得だ。

死滅回游:真のルール設定能力を見よ

死滅回游編からは領域展開の必中効果はそれほど強調されなくなり、さっき色々挙げたような「いわゆる世界展開系の能力」に近付いていく。つまり領域内では独自のルールが設定され、それに従って戦闘が進行する立て付けの領域展開が増えていく。

とはいえ「領域内の専用ルールに自他を巻き込む」という一見するとありきたりな世界展開系能力にシフトしてもなお、呪術廻戦における描写は依然として極めて特異だ。その理由は展開される世界の異常な解像度の高さにあり、その徹底ぶりは一つの発明と言える水準にまで達している。

特にわかりやすく完成度が高いのは坐殺博徒で、このページを開いたとき芥見下々は天才だと確信した。

ここヤバすぎる

坐殺博徒が凄いのは、パチンコをモチーフにした能力というよりはもはやパチンコそのものを持ってきてしまっていることだ。

他の多くの発明と同様、こうして一度提示されれば当たり前の話ではある。確かに秤が持っているはずの世界の認識をそのまま領域展開にすればこういう詳細ルールを伴うのがむしろ自然だ。
常識的に考えて、パチンコの能力を発現するようなキャラが単なる「パチンコをモチーフにした攻撃能力」程度で満足するだろうか。例えば「殴ったときにスロットが回転して揃ったら大ダメージ」程度のしょうもない能力で満足するだろうか? しないだろう。
パチンコを術式にするほどやり込んでいるのなら、パチンコの再現はもっと厳密なものであるべきだろう。遊技機として最大の目標である大当たりが終着点に設定され、そこに至るまでのルールも完璧に組み込まれるべきだろう。
彼はパチンコをモチーフにした何かによってではなく、まさにパチンコそのものによって世界と関係しているのだから。

弁護士や芸人だって全く同じだ。
弁護士が裁判の能力を発現するのであれば、六法と法解釈をそのまま持ち込むべきだ。彼が普段から接している世界のルールは簡略化された作中独自ルールなどでは決してなく、職能としてはっきり定義された法律とその運用なのだから。
芸人が漫才の能力を発現するのであれば、漫才の面白さ以外のあらゆる干渉を拒絶できるべきだ。ただ漫才が面白いかどうかだけが彼が接している世界のルールであり、ギャグ補正の能力を発現したいと思っているわけでは決してない。ウケるかどうかが全ての能力基準になるべきだし、彼のバトルは一週丸々使って漫才が描かれるものであるべきなのだ。

各キャラが職能や趣味を通じて世界を見ている解像度がそのまま表現されたものが死滅回游の領域展開だ。俺が今まで読んできた漫画によくある「モチーフ系攻撃能力」は読者の可読性に配慮して妥協された産物だったのだと初めて気付いて頭を殴られた思いだった。

一旦まとめよう。
渋谷事変では主観的な「世界の流れ」を掘り下げることで領域展開に必中効果を与えたのに対し、死滅回游では更に「世界の見え方」を掘り下げることで超具体的なルールを付加している。いずれでも世界の感じ方を重視してそのまま能力に落とし込んでいる点が通底する。

新宿決戦:領域展開の領域展開を見よ

最終的に、新宿決戦で描かれたのはいわば領域展開の領域展開だった。

各編ごとに領域展開の描写方法が変わっていく中、最後に新宿決戦でフィーチャーされたのは非常に細かい仕様部分である。
つまり作中最大戦力である五条と宿儺を筆頭にしたハイレベルな戦闘の表現としては、ここまで積み上げてきたルールの確認と手続きを厳密に進める戦闘が描かれた。無量空処を何秒展開するだとか、領域内での防衛が何だとか、魔虚羅の適応条件が何とか。戦う当人たちの認識をモノローグや観戦者たちが語る独特な立て付けは新宿決戦で初めて導入されたものだ。

そんな将棋の実況みたいな

こうして緻密に分析される領域展開はそれ自体が世界に存在する対象物でもある。
もともと顕微鏡のように世界の解像度を上げて捉える仕組みが領域展開だったとして、その領域展開自体もまたこの漫画における創造物として世界に存在する対象の一つなのだ。だから領域展開そのものを分析対象として解体して使い尽くすことは領域展開の領域展開に等しい所業である。

この発動者はもちろん作者だ。弁護士の日車寛見が裁判に詳しいように、領域展開に最も詳しいのは作者の芥見下々である。
もともと作品全体に通底する正確な言葉遣いや世界認識は、各キャラクターの造形というよりは芥見下々自身の世界認識に属するものだろう(キャラクターごとに個別設定されているわけではなく作品全体をカバーしている)。実際、芥見は一巻の頃からオマケページにおいて設定の整合性を異様に気にする素振りをよく見せていた。この振る舞いが新宿決戦では戦闘描写に活かされ、プロットを語る物語というよりはルールが厳格なTRPGのように所与の要素が細かく精密に運用される。
特に新宿決戦が決着したあとの僅かな話数で少なくない紙面を使ってバトルの反省会をしていることにはかなりの異様さを感じた。素朴なバトルの結果にはほとんど関心がなく(宿儺を倒したこと自体は世界の見え方を変革するほどの事態ではないから)、それよりはバトルを語る解像度に抜け落ちがなかったのかという確認作業を作中でやってしまうあたりがこの漫画にしてこの作者ありだ。

真人は気付いてた本質設定

あまり注目されていないが、非常に印象に残っている真人の台詞がある。

地味な名言

魂と肉体の関係に関して術式を跨いで一貫した説明を試みる夏油(羂索)に対し、真人は「それって一貫してないといけないこと?」と素朴な疑問符を浮かべてみせる。
意外にもこの見解は作品全体で支持され続けているように思える。つまり真人が単に呪いとしての行動原理の延長で答えたというよりは、術式の本質的な在り方をたまたま真人が看破したシーンであるように思える。

ただ、この一貫性のなさに関しては粒度を慎重に捉える必要がある。
というのも、呪力や術式や領域といった専門用語を定義する「共通ルール」においてはむしろ異常なまでに整合性が志向されているように思われるからだ。さっきも書いたように、それはおまけページでの解説や新宿決戦のモノローグで強く現れる。
一方、矛盾が容認されているのは各術式の個別具体的な内容についてだ。「魂がどう肉体がどう」とかいう細かい術式内容については術式を跨いで一貫していなくても構わないことに真人は気付いている。

形式的な整合性と内容的な矛盾の両立!
これは領域の衝突でも描写されていることだ。複数の領域が同時同地点に展開した際の基本ルールが「より洗練された方が残る」という択一方式であることから明らかなように、領域とは物理的な媒質のように押し付け合ったり打ち消し合ったりするものであって、領域の効果内容が相互作用することはない(ゴムゴムvsゴロゴロのような勝負にはならない)。
真人が正しく指摘したように、個別の術式はそれ自体が世界だ。所与の世界とは現にそう感覚していることが全てであり、「矛盾しているのではないか」という議論をそもそも受け付けない。

芥見先生の新作に期待

まとめよう。
呪術廻戦では、各々が高い解像度で主観的に世界を感覚していることが本質的な意味を持っている。それは紋切り型ではない正しい言葉遣いの前提であると同時に、世界の流れを掴むことが本質的な強さに直結する所以でもある。個々人が感じる世界は独断的に妥協なく定義され、その志向性は作者自身の語りとしても浮かび上がる。

個人的には、こういう感性はきっと作品というよりは作者に紐づいたものだと思う。たまたま哲学的な素養と漫画家としての資質を併せ持つ特性が週間少年ジャンプのバトル漫画というフォーマットで発露する、異質掛け合わせによって類稀な傑作が成立した。芥見先生の今後の作品も楽しみにしている。