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24/4/20 ダンジョン飯の感想 なぜファリンを蘇生したのは黒魔術なのか?

ダンジョン飯

注:アニメ版ではなく漫画版の感想です
  漫画最終巻までのネタバレを含みます

完結していたので全巻読んだ。かなり面白かった! 個人的にはミスルン隊長が一番好き(アニメ未登場)。華奢な割に突出した異常な強さを持つエロい男、推せる。

Web漫画にありがちな一話完結っぽいタイトルに反してハードなファンタジーとしてのストーリーがしっかりしている。一話冒頭でいきなりパーティーが全滅するところから始まり、「最深部でドラゴンに食われた妹・ファリンを取り戻す」という明確なゴールに向かって迷宮を下っていく。ファリンの蘇生と救出は四巻で早くも達成してしまったかと思いきや、実はそこまでがプロローグだったことが判明する。

ファリンはキメラと化して再び主人公パーティーの手を離れてしまい、彼女を追いながら本格的に迷宮の謎を探るストーリーがいよいよスタートする。プロローグでも顔を見せていたカブルーやナマリのパーティーを呼び水に、西方のエルフや狂乱の魔術師、果てには異世界の悪魔までをも巻き込んで迷宮の命運を巡る覇権争いへ。

 

ああダンジョン飯

スケールがスライドしていくストーリーの中で最初から最後まで一貫しているのはまさしくタイトルの「ダンジョン飯」だ。ダンジョンに出現する魔物を現地調達で飯にしていくからダンジョン飯なわけだが、調理される魔物がこの漫画のオリジナルではないことは面白さの大きなポイントと言える。

スライムやマンドレイクやバジリスクのようにファンタジージャンルでは典型的なクリーチャーを料理していく過程で、読者にうっすら共有されている想像力にそれっぽい肉付けが与えられていく。調理とはいわば解剖の上位種であり、対象の物理的な組成のみならず毒性や効用までしっかり理解していなければ立ち行かない。有名な魔物たちを攻略対象というよりは食糧という切り口で扱うことで、可食部や生活環といった生態的なディテールが明らかになっていき、個別的な生態の合理性が体系的に収斂する地点としての生態系さえ精密に描かれる。

この親近感と新規性が両立する題材選びがまず傑出しており、「うっすらとは知っているが誰も詳しくないものを丁寧に解説していく」という独特な味わいはオリジナルな魔物を食うのでも現実に存在する動植物を食うのでも出てこない。架空とは知りつつも、図鑑を読んでいるときの知的好奇心が満たされていくような感覚すらある。

 

被食者を蘇生するから黒魔術

そんなダンジョン飯を道中で食いながら展開するストーリーのラインは主に二つある。一つはドラゴンに食われた(そしてキメラになった)ファリンの救出、もう一つは迷宮を巡る覇権争いである。

そしてその二つを結び付けるのはやはり食だ。というのも、二つのストーリーが同時に展開する唯一の舞台である迷宮では「食の掟」が絶対的なルールとして世界を支配しているからだ。8巻でセンシが語っているように、「他の生物に消化された肉は自己を失う それはこの生と死が曖昧な迷宮の中で唯一明確な掟」なのだ。食の掟は生命の理よりも明確に重く、迷宮内では何度死んでも蘇生できる一方で食われて消化されたものはもう取り戻せない。「生きるか死ぬか」ではなく「食うか食われるか」が迷宮のルール。

しかし主人公パーティーはプロローグの最後で食の掟を破ってしまう。それはファリンの蘇生である。

ファリンはドラゴンに食され、主人公たちが迷宮を下っている間に胃袋で完全に消化されて骨になっていた。それは主人公たちにとっては決して受け入れられない運命だったとしても、迷宮のルールからすれば正しい食物連鎖の流れに過ぎない。空腹状態でドラゴンに挑んだ人々が食物連鎖の上位にいるドラゴンに食われた、つまり衰弱した被食者が充実した捕食者に食われたことは全く正しい道理である。ファリンが生命の理ではなく食の掟によって失われたのであれば、その喪失を覆す手段は存在しないはずだった。

しかしマルシルの黒魔術は捕食されたファリンを蘇生してしまう。というより、単なる死者の蘇生ではなく「被食者の蘇生」だからこそ最大の禁じ手であり、それ故に黒魔術の発動なのである。

迷宮に通底する鉄の掟「食うか食われるか」に背いてしまった以上、ファリンが元通りになってめでたしめでたしとは問屋が卸さない。ファリンは生命が混乱したキメラと化して狂乱の魔術師・シスルに連れ去られてしまい、主人公パーティーはシスルと戦いながら黒魔術の代償を支払って贖う方法を探すことになる。

「食の掟」という視点から見ると、ダンジョン飯は罪と罰と禊のストーリーでもある。主人公パーティーはドラゴンに被食されたファリンを蘇生したことで食の掟に背いた罪を背負い、ファリンがキメラ化して狂乱の魔術師の配下となる罰を受け、そこから黒魔術を禊いで真にファリンを取り戻す方法を探ることになる。

 

充足と渇望のダイナミクス

ファリンを連れ去った狂乱の魔術師・シスルもまた食の掟に背く存在である。

迷宮の主であるシスルは黄金郷を永遠に守りたいあまりに食の存在しない世界へ幽閉してしまう。シスルに支配された黄金郷の住人たちは、永遠の命を手に入れている代わりに食事を味わうことができない。食の存在意義を抹消したシスルは、被食者でありながら蘇生されたファリンと同じく食の掟に背いたポジションにいる。だからこの二人はヒールとして連帯するのだ。

迷宮の真相が明らかになるにつれてシスルの背後に無限の異世界から悪魔が現れ、食欲は欲一般へと拡大解釈されていくが、そこに通底しているものはやはり食の掟だ。常識的に考えれば食欲とは欲一般の一ジャンルに過ぎないのだが(欲>食欲)、ダンジョン飯においては欲一般の方が食欲とのアナロジーで語られる(食欲>欲)。

実際、ダンジョン飯で描かれる欲の在り方は食欲の抱える二面性と常にパラレルだ。二面性とはつまり、充足と渇望のダイナミクスである。

食事とは不思議なもので、三十分かそこらも食い続ければ「もうこれ以上は要らない」と思える割には、また少し時間が経てばもう「食べずにはいられない」。どんなに素晴らしいものをどんなにたくさん食べても一日もすれば腹が減ってくる。充足したと思いきや渇望し、渇望したと思いきや充足する。

充足と渇望のダイナミクスこそが大いなる食の流れであり、相転移を破棄して充足だけを取り出すことは誰にもできない。満たされたかと思っても満たされず、永久に惑い続けるしかないからこそ悪魔が巣食って救っていく。黄金郷の住人が食事から追放されているのは、永遠という不動の状態は食のダイナミクスを持ちえないからだ。

そしてそれは悪魔ですらも例外ではない。悪魔の欲でさえ食欲の支配下にあることを看破したライオスは食欲ごと悪魔を飲み込んだ。悪魔はシスルと同じように欲望が常に満たされる幸福な世界を目指そうとするが、食欲から充足の一面だけ都合よく取り出すことは決してできない。それは魔物ですらも無差別に食らう悪食王・ライオスの方がよく知っていた。

 

禊としてのカニバリズム

ライオスが悪魔を食らったことで迷宮の覇権争いには収拾がついたとして、ファリンを蘇生した罪の方はどうなったのか。悪魔ですらも抗えない食の掟に背き、被食者を蘇生した罪はどのようにして贖えばよいのか。

それはファリンを食うことによってである。黒魔術によって癒合したドラゴンの魂を追い払ってファリンの蘇生を改めて成功させるためにはドラゴン部分を食わなければならない。

つまり、食の掟に背いて混乱した生命を元に戻すには、やはり食という絶対のルールに従って修復を試みるしかないのだ。ファリンを人間としてきちんと蘇生することは、この迷宮においては黒魔術によって食の流れから追放されてしまった者を正しく引き戻すことである。きちんと食われなかった者はきちんと食うことによってのみ救済できる。

決して断腸の思いでカニバリズムに至るのではない。最初から最後まで唯一の正解はカニバリズムしかないのだ。ライオスがファリンを殺す肉親殺しですら正しい食の掟に対しては単なる過程でしかない。絶対なのは生死でも倫理でもなく食の掟、それが食欲によって生まれた迷宮の論理。禁忌ではなく禊としてのカニバリズムという転倒した儀式は本当に面白く、この作品の到達点として感嘆に値する。

 

対立と和解のダイナミクス

また少し別の視点として、ファリンを食らう宴はあらゆる種族のキャラクターたちが食卓に集うフィナーレとなっていたことにも注目したい。

ダンジョン飯では作品全体を通じて種族の違いが幾度となく描かれていた。種族の差異に起因する思想の差異は食事のメニューから世界の覇権に至るまで様々な対立と和解を生み、ダンジョン飯を貪る横では明らかに種族間のダイバーシティが一つのテーマになっている。しかしそうして描かれる対立と和解のダイナミクスもまた、根底に存在するのはやはり食なのだ。

ここにはまた別の食の二面性が顔を出す。すなわち食事とは誰もが同じように食べて味わうという営みの同質性を備える一方で、何を食べるかという具体的な好みは無限に存在して一致しない異質性も備えている。一緒に食卓を囲めば誰でも仲間になれる一方で、好みが一致しなければ誰とでも諍えるという矛盾した二面を持つのが食事だ。

そして食の好みとは論理的な信条ではなく全く説明できない純粋な趣味なのが厄介なところでもある。どんなに仲が良い相手でも料理だけは受け入れられなかったり、逆に料理が意外と美味かったというだけで理由もなく同調できたりもする。そういうダイナミックな和解と対立の契機は食事の中に既に含まれているため、悪食王のライオスが意外にも多様性を受け入れる王の器を持っていたことにも頷ける。

この食における対立と和解のダイナミクスは、先に触れた充足と渇望のダイナミクスとも強く結び付く。どんなに対立した緊張状態だったとしても、しばらく武器を下げて食事に向かうことだけは誰にもやめられない。時間が経てば腹は勝手に減るからだ。充足と渇望によって人は食事を望み、対立と和解が渦巻く混沌の舞台に否応なく足を踏み入れざるを得なくなる。

当初は魔物料理に引いていたマルシルでさえ次第に慣れていったように、誰もがファリンを食らうカーニバルに参加するポテンシャルを持っている。魔物の肉だろうが人肉だろうが、一仕事こなして腹が減ってしまえば結局は饗宴に戻っていくしかない。飢餓からは誰も逃れられないから。

充足と渇望のダイナミクスによって誰もが腹が減れば食わざるを得ないし、和解と対立のダイナミクスによって異種族間にも協調の契機がある。こうして食の掟が支配する世界の中、カニバリズムという禊によってファリンを大きな食の流れに取り戻すことでダンジョン飯は完結する。傑作。