NHKのレディ・ガガの字幕翻訳は隠蔽の意図とか以前の問題かな?

 2012年紅白歌合戦に出場したレディ・ガガの"Born this way"の翻訳がおかしいということで酷評されている。本エントリはこの件について、なんで字幕があんなこと(NHKによる自己検閲が疑われるような内容)になったのか私の推測(あくまでも推測)を書いたものである。

NHK紅白・レディー・ガガの歌詞字幕について

 YouTubeに無許可アップロードされていた動画が消されてしまったので(海外在住者には無許可アップロードが唯一NHKにアクセスする手段なのだが)、上のブログから歌詞の写しを引用するほかないため、一応上のトランスクリプトが正しいものとして引用する。まだYouTubeに動画があった時点で私が見た限りでは全体的に翻訳がヘンだったのだが、一番問題視されているのは下にあげる箇所で、NHKでは以下のように翻訳されていたらしい。

Whether you're broke or evergreen
You're black, white, beige, chola descent
You're lebanese, you're orient
Whether life's disabilities
Left you outcast, bullied or teased
Rejoice and love yourself today
'Cause baby, you were born this way

No matter gay, straight or bi
lesbian, transgendered life
I'm on the right track, baby
I was born to survive

貧富の差も 肌の色も 国籍も関係ない
人生で困難があっても いじめられ からかわれても
自分を信じ 愛してあげよう
それがあなたの人生だから
性的好みなんてどうでもいい
私は正しい道を進んでいる どんな困難も乗り越える


 とくに議論されているのは、(1)"You're black, white, beige, chola descent / You're lebanese, you're orient"の後半部分を「国籍」と訳していること、(2)"No matter gay, straight or bi / lesbian, transgendered life"を「性的好みなんてどうでもいい」と訳していること、(3)"life's disabilities"を「困難」と訳していることである。


 とりあえず(1)については、chola descent(メキシコ系アメリカ人)とかいう言葉が使われているので文脈判断で国籍の話をしているのではなく、どっちかというと想定しているのはある国の中にいろいろな民族の人がいるという状況であるらしいことが読み取れる…のだがこの訳者は読み取れなかったのかあるいはわざと読み取らなかったらしい(私は前者に傾いているが理由は後述)。どっちも二文字なので字数の問題ではない。


 (2)についてはとりあえずふつう訳語として「性的指向」(Sexual orientation、どちらの性別を恋愛や性に関する対象とするか)と「性的嗜好」(Sexual preference)は別で、その上「好み」と「嗜好」が一緒なのかも実はよくわからんし(性的指向性的嗜好を区別することに対する批判はそもそも置いておく)、だいたいトランスジェンダーは性的好みじゃないし、そもそも「性的な好み」とか突然言われてお茶の間の人々は何を言いたいのかわかるのか、とかいういろいろな問題がある。歌詞の誤訳に対する擁護としては少ない字数でわかりやすさを優先したという意見があるのだが、「性的な好み」ってそもそもわかりやすい訳語なのか…?


 (3)はかなり誤訳だろうと思う。"life's disabilities"を「人生の困難」って、この文脈でそう訳したらそこらのテストでもバツでは…わざとそうしたのか、それとも何も考えずに直訳したのかはわからないが(そして私は(1)同様何も考えてないというほうに傾いている)。


 で、実は私はたぶんこの上の三箇所の問題点はおそらくなーんも考えず訳したからこうなったのであって、NHK性的少数者とか障害とかについてお茶を濁したいからだ、とかいうゴリッパな理由が背後にあるというわけではないのではないかと思う。というのも、この翻訳は全体的にかなりひどく、プロが字数制限の中で頑張ったというよりはむしろ語義レベルで意味がとれてなくてテキトーに訳したという感じの箇所が結構あったからだ。動画が消されているので全部の字幕を検証することはできないのだが、途中一番ひどいなと思ったのが"Don't be a drag, just be a queen"を「ぼやいてないでいっそ女王になろう」と訳したところである。英語の映画やテレビドラマを普段から見て英語を勉強している人にはすぐわかると思うのだが、これはdrag queen(女装する男性エンターテイナー、日本語で表記するとドラァグクイーン。男装する女性エンターテイナーはdrag king、ドラァグクイーンのような女装をする女性エンターテイナーはfaux queenとかいう。そもそも男/女をどう区別するかという話はまあここではおいておく)にひっかけたシャレた歌詞で、非常に訳しにくいのだが「ただの女装っ子で妥協しちゃダメ、なるならステキな女王様に」というようなニュアンスであろうと思う(これに関しては下の追記1を参照。女装っ子そのものを否定しているのではなく、dragのダブルミーニングを使ってqueenらしくないつまらない女装っ子になるな、と言っているのだと思っていました)。ところがこの訳者はおそらく"drag"に「異性装」の意味があることを知らない。どうも訳者はこれがdrag queenという単語の一部であることがわからなかったようで、苦し紛れの「ぼやいてないで」という翻訳はたぶん「だらだら引っ張る」とか「うんざりする」というようなほうのdragのもうひとつの意味からきている(なんかちゃんと勉強しない学生のテスト答案を採点する先生みたいな思考回路だが)。もしNHKが意図的に性的少数者とかのことを隠そうとしたんだったら少なくとも「人真似はやめていっそ女王になろう」とかいくぶんかはdragの本来の意味をとって訳すだろうから、これは単に字幕制作チームがぜんぜん英語ができないだけで(うちだってあまり英語できないけど少なくともdragくらいはテレビドラマ見てれば高校生でもわかるぞ)、「テレビで流すのでできるだけ簡潔に、早く仕上げてください」というような依頼を受けてテキトーに仕事をした結果なのではないかと疑われる(追記2を参照)。


 私がこう思うのは、翻訳バイトなどをする中で聞きつけた噂によると、NHKみたいな大企業でも昨今は人手不足や予算不足などいろいろあり、報道や教育はともかく娯楽プログラムでは番組によっては全く外国語ができる正規スタッフがおらず、やっすい値段でバイトに字幕制作を外注したりしているらしいという話をきいたからである。そういうのはだいたいあまり質がよくなく、時々とんでもない質のものが出てくるらしい(そして正規スタッフにも外国語わかる人がいないので気付かない)。翻訳をバイトに外注する場合はとにかく早くて安いことが重視されるはずなので、受けたほうは期限にまにあうようわからんところとかは超テキトーに訳して出してしまう(実は私もテレビ局ではないものの映像スクリプトの翻訳バイトを何度かやったことがあるのだが、賃金が安すぎるので全くやる気は出ない)。まさか紅白ではそんなテキトーにやらんだろうとも思うのだが、私がきいた話ではけっこうNHKの主力の文化番組でもヤバい翻訳が放送されたり放送されかけたりしたことがあるらしいし、紅白みたいな大きい番組は段取りで混乱が起こってスケジュールがきちきちになったりしないでもないだろうから、何かの事情でやっつけ仕事になってもおかしくない。


 まあそんなわけで、お茶の間に質の悪い翻訳が出回ってしまうのは翻訳のバイトをしたことのある者としてはなかなか心苦しいことである。とりあえずもうちょっと賃金を上げてくれればまだマシな翻訳が出回るようになる気がするのだが…あと、こういう翻訳の買い叩きは英語が一番ひどい気がする。学習している人の母数が多い分、あまり英語力に保証のない人ができるフリして安く翻訳バイトを請け負っていたりする気がするな…まあ自分で英語ができるという人の英語力は信用しないほうがいいよ。うちなんか二年もロンドンに住んでるのに、じすいずぁぺんレベルだから。


 なお、一点補足しておくと、字数の関係でNHKの字幕がああなったというのは非常にあやしい。スマップの番組にレディ・ガガが出た時はほとんど全部訳してるが、ちゃんと読める速度で字幕が出てくる。「トランスジェンダー」が「性同一性障害」になっているところは放送当時に誤訳だと指摘があったが、NHKに比べれば全然意味はとれてる。


 なお、もう一点補足しておくと、歌詞翻訳というのはいくら学術書やニュースが外国語で読めても難しく(大学院生やビジネス系の人だとこのへんだけが主な外国語との接点という人もいると思うが)、テレビドラマや映画をよく見たり大衆小説を読んでいるような人でないと無理なので、テキトーなバイトに外注すれば質の悪いものが出てくるのは目に見えている。こちらの記事を見て欲しいのだが、とくにヒップホップなどだとネイティブでもわからんようなクレバーすぎる歌詞が多くて問い合わせサイトまでできているらしい。"Real G’s move in silence like lasagna"が「本物のギャングはlasagnaのGみたいに黙って動く」(lasagna「ラザーニャ」のgは英語ではサイレントになるので発音しない)だなんて全然わからんぞ…だから、いくら安いからってあまり質の保証がないバイトとかに歌詞翻訳頼んだりしないほうがいい。

追記1:"don't be a drag, just be a queen"についてはid:macskaさんのご指摘及びコメント欄をご覧下さい。私はdragは「ドラァグクイーン」+「退屈なもの」のひっかけだと思ったので「ただの女装っ子」=queenらしくない退屈な女装っ子、「女王」=堂々とqueenらしい女装っ子、として翻訳しましたが、前半を難しく解釈しすぎでは、というご指摘がありました。ただここは女装っ子自体がつまらない、ということを言いたかったのではありません。

追記2:同じくmacskaさんのご指摘で「ぼやいてないで」をdrag=つまらないことばかりする、の延長ととればNHKの訳はおかしくないというご意見がありました。これはそうかも。

追記3:フォローアップエントリを書きましたので、"Don't be a drag, just be a queen"の解釈についてはこちらをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/saebou/20120103/p1