那覇商業高校116年の歴史の始まりとなる那覇区立商業高校(1905年開校)が置かれたのは那覇市久茂地。13年、現在の那覇中学校の地に移転した。22年に那覇市立商業学校に改称。44年には那覇市立商工学校となった。
「那覇商百年史」によると、現在も歌い継がれている校歌の制定は15年3月。作詞は立山圭介、作曲は園山民平である。なお、校歌制定はそれより4年ほど早く、作詞者を島袋全発とする資料もある(1911年10月26日付琉球新報)。
沖縄戦で戦前の那覇商業の歴史は40年で終わる。51年の那覇商業高校開校まで6年の空白がある。
東京で税理士として活動してきた仲田清祐(98)は戦前の35期。東京沖縄県人会会長や東京沖縄経営者協会の会長を歴任し、在京県人のまとめ役を担ってきた。
伊是名村の生まれ。41年12月に那覇市立商業学校を卒業し、那覇税務署で働いた。戦後は大蔵省税務大学校や中央大学法学部(夜間)で学び、熊本、福岡、東京の国税局や国税庁に勤務した。69年に退職し、仲田会計事務所を開業した。
東京沖縄県人会長就任は2002年。在京県出身者や県系人の催しはいつも仲田の顔があった。那覇商関東同窓会の会長も務めた。
琉球舞踊や詩吟にも造詣が深い。愛唱歌は「汗水節」。母校の校歌も忘れない。コロナ禍で最近は外出を控えている仲田は電話の向こうで那覇商業の校歌を歌った。
「でいご花咲くうるま島 那覇港頭の森蔭に 学べる若き商士らが 腕(かいな)ふるわん時到(いた)る」
妻の仲田美智子(72)は戦後の14期。卒業後、バス会社勤務を経て国会議員・大城真順の秘書となった。近年は仲田と共に県人会活動にいそしんできた。「これからも夫と頑張ります」と快活に語る。
仲田清祐と同じ35期に梯梧の花短歌会会長の許田肇(97)がいる。「本来は昭和17年3月の卒業だったが、大平洋戦争が始まり、16年12月に繰り上げ卒業した」と語る。
那覇市西本町の生まれ。県立図書館に勤めていた父の許田普修は沖縄学の祖・伊波普猷のいとこに当たる。母の重子は郵便局に勤めていた。父と波上に通い、海と親しむ幼少期を送った。那覇尋常小学校を経て商業学校に進んだのも海に近いから。「現在の那覇中学校の場所に商業学校があった。向かいにミートゥジー(夫婦岩)があり浅瀬が広がっていた」
商業学校では水泳部に所属した。背泳100メートルで1分28秒の記録を出したという。柔道部にも所属したが、小柄な体躯(たいく)のためいつも投げられっぱなしだった。「受け身だけは上手だ」と周囲に言われた。
放課後は友人と「まちまーい」をして遊んだ。首里城まで足を延ばしたこともある。帰りにまんじゅうを買って食べた。
戦時下の商業学校も皇民化教育が徹底された。「正門にある奉安殿にいつもあいさつした。教育勅語の意味が分からなかったが『何かがあれば国のために尽くしなさい』ということをたたき込まれた」と語る。
卒業後、徴兵検査を受け不合格となり、肩身の狭い思いをした。その時合格し、現地入隊した同級生の多くが命を落とした。
その後、経理担当として沖縄新報に入社し、地上戦のさなかに沖縄新報の拠点となった首里城背後の「留魂壕」でも勤務した。壕入り口に爆弾が落ち、飛び散った活字を拾ったこともある。新聞社解散後、島尻で至近弾に遭い負傷した。「私は艦砲ぬ喰えー残さーだ」と語る。
戦後、沖縄外語学校で学び、米国民政府保安部や琉球政府で働いた。その後は民間に転じ、国場ベニアで勤務。国場組創業者の国場幸太郎の通訳を務めた。
28年ほど前、梯梧の花短歌会に入り、これまでの人生を三十一文字につづってきた。昨年、初の歌集「福木の双葉」を編んだ。「私は沖縄戦を生き残ることができたが、命を落とし未来を奪われた人たちのことを忘れたことはない」とあとがきに記した。
沖縄戦を題材とした連歌には犠牲となった友人を悼む歌がある。
「童顔の微笑み顕(た)ちぬ友の名を呼びてなぞりぬ平和の礎」
(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)