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お金で買っていいモノ、買ってはいけないモノ/『のんのんびより』第10話の感想

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アメリカの小学校の話だ。
読書の習慣をつけさせる実験として、8歳の子供に本を1冊読むごとに2ドルを与えたという。
みなさんはこの実験をどう感じるだろう?
「読書の習慣が身につくなら、きっかけがカネでもいい」と考えるだろうか。それとも「読書は本来、知的好奇心を満たすために行われるべきで、カネを渡すべきではない」と考えるだろうか。


â– マイケル・サンデル: なぜ市場に市民生活を託すべきではないのか?


子どもの成績向上に金銭的インセンティブを与えることをはじめ、アメリカではあらゆるモノの市場化が進んでいる。遊園地の列に並ぶ時間、刑務所の監房、あらゆるものがカネで取引されている。遠からず、日本も同じ道をたどるだろう。もはや市場経済ではなく「市場社会」だとマイケル・サンデルは言う。
貨幣制度は、取引を便利にして経済全体を豊かにするためにある。現生人類にはおよそ25万年の歴史があるが、貨幣が誕生したのはせいぜい数千年前にすぎない。当然、貨幣が発明される以前から貿易は行われていたし、貨幣制度がなくても経済は成立していた。貨幣は、モノやサービスの価値を擬似的に表現するものでしかない。したがって、金銭的な価値がそのままモノの「正しい価値」になるわけではない。
貨幣は、モノやサービスの「正しい価値」を表現できるわけではない。そのため、あらゆるモノをカネで買えるようにすると、モノの本質的な価値が歪む。だから何もかもを換金可能にすることには慎重であるべきだとマイケル・サンデルは言う。少なくとも、私たちの生活には市場化に馴染まないものがあるはずだ、と。
前述の実験の結果は、こうなった。
読書に金銭的な報酬を与えたところ、子供たちはたしかに本をよく読むようになったそうだ。ただし、できるだけ薄い本を選ぶようになったという。(※同人誌ではない)
さて、実験は成功と言えるだろうか?
冊数に対して報酬を与えれば、薄い本を選んだほうがトクになる。では、ページ数ならどうだろう。あるいは読書感想文を書かせて、そのデキによって報酬額を変えたらどうなるだろう。
前者なら「読むのが早い子」や「飛ばし読みの上手い子」に高い報酬が支払われる。後者なら「教師をよろこばせる文章」の上手な子供に高い報酬が支払われる。教育の目的を「すべての子供に読書の楽しさを伝える」と設定した場合、どちらの方法も目的にコミットしていない。そもそもページ数が多いからといって良書だとは限らないし、教師をよろこばせる文章がいい文章だとは限らない。
これは「報酬設計の難しさ」「市場化の難しさ」の好例だろう。神の見えざる手によってモノやサービスの価値は1つに収斂していくが、神様はときどき間違えるのだ。



さて、ここまでが前置きだ。
今回はアニメ『のんのんびより』第10話の感想だ。マイケル・サンデルのこの話を思い出したのだ。
『のんのんびより』は日本のド田舎を舞台にしたお話だ。いわゆる“日常系”で、事件らしい事件が起きるわけではなく、のんびりとした田舎娘たちの日常が描かれる。

第10話の主人公は「駄菓子屋」のニックネームで呼ばれる20歳の女性だ。ニックネームのとおり、村はずれで駄菓子屋を営業している。極端にものぐさな性格で、面倒くさいことをできるだけ避けるタイプだ。そんな彼女だが、同村で暮らす「れんげ」という7歳の娘に対しては面倒見がいい。血もつながっていないのに、なぜ?……これが第10話のストーリーの軸になる。
回想シーンで、駄菓子屋とれんげの絆が明かされる。駄菓子屋がまだ中学生だったころ、れんげのベビーシッターを頼まれたのだ。期間は半日だけ。面倒くさがりの駄菓子屋は一度は断るのだが、5,000円という報酬を提示されて考えを変える。一も二もなくベビーシッターを引き受ける。
最初は金銭的なインセンティブのために行動した駄菓子屋だが、しかし、れんげの可愛らしさに当てられてしまう。愛着を持つようになる。駄菓子屋が「帰りは歩けよ」と言うシーンには、思わず涙腺が熱くなった。あのセリフは、れんげの願いを叶えてやりたいという純粋な愛情の発露なのだ。
5,000円という報酬に釣られた駄菓子屋は、結果としてれんげへの愛情に目覚める。このストーリーを見て、マイケル・サンデルの講演だけでなく、もう1つ別のお話を思い出した。
ドラマ『フルハウス』の第1話だ。




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『フルハウス』はNHK教育で1993年から放映されていた海外ドラマだ。私と同年代の人なら、小学生のころに見た記憶があるだろう。いわゆる“シットコム”で、男3人+娘3人の家族を描いている。笑いあり、涙ありの傑作。必見だ。
第1話では、一家がシェアハウスを始めるところが描かれる。妻のパメラを亡くした主人公のダニーは、義弟のジェシー、大親友のジョーイと共に、3人の娘を育てることになる。ドラマだから笑っていられるが、もしも現実だったらめちゃくちゃヘビーな設定だ。
娘たちのうち長女DJと次女ステファニーは、以前はそれぞれ個室を与えられていた。しかし、同居人が増えたことで部屋が足りなくなる。そこでDJとステファニーは同じ部屋で寝起きすることになった。が、DJは納得できない。「ここを自分の部屋にする」と宣言して、地下のガレージに引きこもる。
叔父のジェシーがDJの説得にあたるが、しかし相手は10歳の女の子だ。24歳の独身男よりも口は達者だ。かんたんに説得に応じるはずがなく、ついにジェシーはカネで買収することにする。50ドルくらいだったかな? お金を払うから部屋に戻ってくれとDJに懇願する。
お話はその後も色々とあって、結局すべてが丸く収まる。だが、DJをカネで買収したことについては、ジェシーは義兄のダニーから叱られることになる。「そんなことをしたらDJが傷つく」と諭され、カネは結局支払われない。



マイケル・サンデルは、私たちの生活を市場経済にゆだねるべきではないと主張していた。少なくとも、子供の教育に金銭的なインセンティブを与えることには慎重であるべきだと訴えていた。これを踏まえて『のんのんびより』と『フルハウス』を見ると、とても興味深い。
『のんのんびより』第10話の駄菓子屋も、『フルハウス』第1話のDJも、どちらも金銭的な動機によって行動を変えている。後者ははっきりと「悪いこと・好ましくないこと」として描かれているが、前者ではとくに問題視されていない。
ベビーシッターは職業として広く認められている。そのため、「赤ん坊の世話をするサービス」を金銭的な取引の対象にするのは、社会的に問題がない。だから『のんのんびより』の駄菓子屋は叱られないし、彼女が愛情に目覚める様子を描くことで、金銭的インセンティブのいい側面を描いている。
一方、『フルハウス』のDJの場合は「わがままを言ったこと」に対して報酬を支払われている。もしもジェシーがあのままカネを渡していたら、DJはお金欲しさにわがままを言う子供に育っていたかもしれない。「そんなことをしたらDJが傷つく」というセリフは、DJの倫理観が傷つくことを意味している。
教育に金銭的なインセンティブを持ち込む影響について、『のんのんびより』第10話と『フルハウス』第1話は好対照だと感じた。



      ◆



私は基本的に市場の力を信用しているし、独裁政党の計画経済よりも、自由経済のほうが好ましいと考えている。しかしマイケル・サンデルの指摘するとおり、世の中には市場化に馴染まないものがあるのも事実だ。
すべてを換金可能にし、市場原理に任せればうまくいく──。そう考える人は日本でも珍しくない。とくに経済的な成功を収めた「声の大きな人」に限って、そういう偏狭な考え方に凝り固まっていたりする。
たしかに市場に任せれば、物事の公正な価格を見つけることはできるだろう。しかし価格づけすること自体が、物事の本質を歪めてしまう場合もある。神の見えざる手によってモノやサービスの価値は1つに収斂していくが、それでも、神様はときどき間違えるのだ。このことを肝に銘じておきたい。





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