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むかし、新庄嘉章先生は、どんなに疲れてゐるときでも、一日十枚(四百字詰め原稿用紙換算。以下同様)の翻訳をなさつた、と、新庄先生の高弟だつた大久保敏彦先生から伺つたことがあります。その頃はまだ学生で、自分でもいつか翻訳などの仕事をするやうにならうとは思ひもよらないことでしたが、いざ自分がかかはつてみると、その数字がどれだけすごいものかがわかります。たとへば、わたくしのやうに始終飲んだくれてゐる場合、一日朝から出てゐて、夕方から友だちと深更まで呑んだとすると、その日は当然ゼロです。もし平均十枚といふことであれば、翌日は二十枚を訳さなくてはならない。授業で教へても頂き、葬儀にも偲ぶ会にも伺つた新庄嘉章先生はしかし、そのお話もさもありなんといふほど精力的なお仕事をなさいました。
さて、三川基好のことです。こちらはいはゆる伝説めいたところはなく、具体的に本が何冊かがわかります。 十年で硬軟とりまぜ厚いものもあはせて、六十三冊の単独訳。それ以外に短篇の翻訳がいくつもあります。いま、ごく大雑把な計算をします。 一冊四百枚平均として、十年の仕事をふりかへると、一日平均なんと7,76枚になります。短篇をあはせれば、この数字は限りなく一日八枚平均に近づくでせう。三川は盛岡に住み、早稲田の授業や会議の時に東京に出てきました。一日一枚しかできない日が週に三日はあつたかもしれません。さうすると、平均数値を保つためには、残りの四日を一日十三枚弱といふハイペースで進まなければなりません。風邪を引いたり、地元のジャズコンサートにいつたりすることだつてあつたでせう。酒だつて呑んだはずです。さうすると、またこの数字は増えます。しかも、これが大切なことですが、三川基好といふ男はそれを義務からしてゐたのではないのです。愉しいから、翻訳するのが愉しくてならないから続けた。それがすばらしい。十年間で三川基好は他のだれも成し遂げられないことをしました。それならば、三川基好の人生は充実してゐて、むしろ羨むべきものだといふ言ひ方もできるかもしれません。しかし、それが友だちとしての厄介な思ひなのですが、さう納得しても、悲しいものはどこまでも悲しいし、寂しいのです。いまだに、ふとした折に涙が込み上げてくるのをどうすることもできません。 それでも、これを読んでくださる方には声を大にしていひたい。三川基好といふ翻訳家の仕事はまさに隔絶してゐたと。しかも、その翻訳のレベルは高いままであり続けたと。どうか三川基好のことを忘れないで頂きたいと思ひます。これはわたくしなどがでしやばつて言ふことではないのは重々承知してゐますが、このことを書きつけておかないとわたくしの悲しみはいつまでも癒えません。ご海容をお願ひしておきます。
by romitak
| 2007-10-19 17:18
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