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佐々木幹郎さんの新刊詩集『明日』は、二十一篇の詩を収める。内、四篇が震災後に書かれた作品である。「この椅子に座って」「鎮魂歌」「明日」「風のなかの挨拶」といふ題を附けられた四篇は、震災後に日本語が持ち得た貴重な果実としてこののちの人々にも読み継がれてゆくだらう。
「風のなかの挨拶」をすべて引いてみる。 ねむる月 なお ねむる月 おさない葉の 枝の風を抜けて 夢乱れて 泣くなら 泣け 千のピアノ 千のヴァイオリン 生まれたての やわらかな黄緑の葉をさわり 愛が人間のなかに入り込むときの なんという奇妙な瞬間 猫 尾を立てて歩き 挨拶する あなたに こぼれちる風の向こうの あなた 生きる水 あふれる 音ひくく うた遠く 知らないうちに 笛と太鼓が鳴り 笑い声が 扉を開けて 次々と扉をあけて 鉦は鳴る 欲しいものすべて 四月の大きさ 五月の深さ 六月の強さ 芽吹くときの やさしさ すべて なんといふ言葉の使ひかたであらう。三行目の「おさない葉の」で心打たれぬ者は詩を読む力がないといつていいと思ふが、とくに、そのつぎの「枝の風を抜けて」と「泣くなら 泣け」と続いたあとの「千のピアノ 千のヴァイオリン」。これはみごとといふしかない。まさに詩の言葉として目の前に立つ。 私たちの言葉はかつてかうした響きをもたなかつた。一行一行の言葉の音と姿と意味内容とが十全に外にむかつて光と一体になつて発せられ、しかも、それ以外にはない個体としての言葉の重なりとなつて読む者に迫つてくる。これが詩なのだ。かういふ言葉の連なりが詩である。 佐々木さんは今回の詩集で、震災後に詩を書くことの意味を追究したはてに、かうした表現に行き着いた。私はいま、心から思ふ。詩がこれだけ混迷をむかへ、詩ならざるものを詩と称するものがあまたあふれる世にあつて、佐々木幹郎さんといふ詩人がゐるといふことがどれだけ、言葉に携はつてゐる者(たとへば私)を根柢から励ますかといふことを。これは私がたまたま佐々木さんを個人的に存じ上げてゐるがゆゑの言葉ではない。といふより、かう云へばいいか。私は佐々木幹郎といふ詩人とたまたま同時代に生き、佐々木さんの紡ぐ言葉で励まされ、言葉に対する信頼を取り戻したのだ、と。私のプルースト第二巻ができあがつたのも、佐々木さんに明治の大学院で特別講義をして頂いたことが大きな励みとなつてゐる。こたびの震災でまつたく無力感を味はふことがなかつた文筆家といふのは存在そのものが信じがたい。みな、その絶望感から立ち上がつてきたはずなのだ。 今回私は震災後の詩について書いたけれど、震災前の詩もすばらしい。個人的な好みで云はせてもらへば、「珊瑚の岩の神の」「エビアンの叔父」「岩と死者」「不滅あるいは囲むということ」「飛沫論」「春から夏へのハープ」は真正なる傑作である。かういふ詩をもてたといふことは私たちの幸ひである。
by romitak
| 2011-11-28 22:08
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