戦後70年談話から日韓合意へ

引用(孫引き)ばかりになってしまうけれども。

金光翔氏が最近のブログでおよそ40年前に書かれた文章を紹介している*1。

松本健一「腐食する戦後体制と右傾化」(『エコノミスト1978年12月19日号。松本健一『戦後世代の風景――1964年以後』(第三文明社、1980年1月)に所収)から引用する(前掲書、220〜220頁。強調は引用者)。基本的に、こうしたやり方が現在まで続いているということだろう。
http://watashinim.exblog.jp/22888378/

こういった一連の動きを右傾化とみることはできよう。しかし、自民党政府がひたすら戦前への回帰をめざしている、とみるのはどうか。たしかに現在の野党の反対運動は、これをすべて戦前への回帰とみている。それゆえに、戦後の擁護にまわり、戦後の理念的象徴である「民主憲法」にしがみつく、といった構えをとるのである。

これは、未来にビジョンをもたない自民党政府にとっては願ってもない状況である。ちょっとでも〈戦前的なもの〉のよろいをちらつかせれば、戦後体制の大体の修復と補強はなしうるのであり、そのことによって「民主憲法」の理念的空洞化は果たしうるのであろう。つまりは、そのことによって容易に権力を維持しつづけることができるのである。
http://watashinim.exblog.jp/22888378/

今も似たような状況すぎてびっくりした。ずっと続いてきたのだなあ。

以下蛇足。
安保法制への反対運動のなかでも、安倍晋三は「平和主義国家日本の『戦後の歩み』を破壊する者」として表象され、それに対峙する「われわれ=国民」が丸ごと戦後体制を擁護してしまうかのような事態が見られた。
これは、あまりに巧妙で狡猾な政権与党にまたもやしてやられた、ということでもなさそう。安保法制反対の立場を自認する「国民」にしても平和憲法こみで戦後を評価してみせたところで憲法愛国主義的な足場を原則的に追求してきたわけでもないし*2、政権与党と根本的な価値観はかなり共有していて対抗軸も立てあぐねるくらいだったのでは。「反アベ」ばかりがやけに際立ったのもそういうことだろう。
そしてこの状況の上に、戦後70年首相談話があり、「慰安婦」日韓合意といった安倍晋三の「成果」が積み上げられていった。
ここで戦後70年首相談話への新聞各紙の反応を思い出そう。ヘイトスピーチに反対する会のブログから引用する。

安倍談話の何が、こうした肯定的反応を引き出しているのか。それを探る一つの方法として、談話の擁護者にも批判者にも共有されている前提に注目してみたい。賛否両論に分裂したたと言われる、主要各紙の15日社説を見よう。

まず、今回の談話をもって「謝罪」を打ち止めにしようとしていること。産経がこの点をはっきり評価しているほか、読売も談話を「未来志向の外交」への転換につながるものと位置づけている。その一方で、朝日社説はもっとも批判的なトーンで書かれているものの、「謝罪を続けたくないなら」と謝罪の打ち止めという意図を受け入れたうえで、安倍がもっと潔く謝罪すべきだったと指摘しているにすぎない。

日本の「平和主義」を維持するという文言についても、異論を表明している社説は見当たらない。むしろ、たとえば全体としては談話に批判的である東京社説は、談話内の「七十年間に及ぶ平和国家としての歩み」を「これからも貫く」という一文について、「その決意に異議はない」「先人たちの先見の明と努力は今を生きる私たちの誇りだ」とコメントしている(東京15日社説)。
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-142.html

合わせてSEALDsによる「戦後70年宣言文」のURLも貼っておこう。
http://site231363-4631-285.strikingly.com/

SEALDsのものについては強行採決への警戒や「積極的平和主義」看板への批判はあるが、ネガティブワードとポジティブワードの使い分け方針とかの大枠において安倍70年談話と似ている。安倍70年談話は信じてもいなさそうな「人権」などの理念に言及しつつ戦後肯定と今後への野望を織りこむところに奇妙さがあり、普遍的な理念が空疎に持ち出されほとんど嘘なのではないかというくらいの淀みなさとともに「信じてること/信じたいこと」らしきものも配置されているため「どこまで本気なんだ」という奇怪さがある。SEALDsの宣言文にしても「平和主義」うんぬんの取扱いについて同様の奇怪さまでもおぼえる。でもいろいろとバランスに配慮した文章であることはわかった。
あと、「満州事変に端を発する先の戦争」という切り出し方には注目すべきである。いわゆる「15年戦争史観」ということで特別めずらしい見解でもないものの、そこでは植民地支配における暴力が切り捨てられているということはやはり指摘しておかなければならない。(ちなみに、奥田愛基、小林よしのり両氏の対談があるが、そこで小林よしのりは「やっぱり、満州事変までは自衛戦争なのよ」と言っている*3 )。
これは「先の大戦」呼称・期間をどうするかという問題だけど、この問題がすごく重要だなとしみじみ感じてきたのは私にとってはごく最近のことである。不明を恥じるしかない(とつぜんの自分語り)。
あと、「平和の歩み」などと「平和」について発声されるが、その「平和」とは一体何なのか? そしてそれに対置されているであろう「戦争状態」とはどういうものを指しているのか? について最近考えており、まとまってないし稿を改めたいんだけど、とりあえず適当に書き出しておく。

ごく狭い生活空間における主観的な「平和」が「戦争状態」と対置されるとすれば、「内地」住人、とりわけ東京住みの主観としては大戦の開始は1941年12月8日(真珠湾攻撃)ですらなく、空襲がはじまるまで戦争じゃないという極端な立場もありうる。ただ、より穏当には平時/戦時という対置であろうから、戦時法制その他の影響を考えれば誰それの主観に求めるにせよ戦争開始時期には非常に長い幅がとれるだろう。歴史的事実としての戦闘行為のはじまりからでいいんじゃないのと思われるかもだが、例えば植民地では正規軍から入植者に至るまで武装しており、事実として紛争はずっとあった。このようなことをもって愼蒼宇氏は「朝鮮からの視点としては『140年戦争』である」ということを提起している(私が最近こういうこと考てるとかいうのも完全にこの提起の影響下であるのでみなさんもぜひ参照してほしい)。またさらに現代では戦争のあり方も変わってきてるんだとともう20年以上言われている。それ言うと多分ずっと途切れなく戦争状態てことになるし、いたずらに「戦争」「平和」概念を拡張するのもあれだという意見ももっともであろうが、「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さんがいて(後略)」な日常*4は戦時にも成立しうるということは何度でも確認しておきたい。むしろ、満州以前(以後も)の内地における主観では、新たなビジネスや繁栄の可能性が感じられ、おじいちゃんからの仕送り額も増えそうなわくわくする日常だったはずである。

というわけで「戦争」についても「平和」についても認識を改める必要があるし、安倍ひとりを止めるためにウソを重ねてもいけない。なんか政治状況の悪いニュースが多すぎて、それに圧倒されてて全然思考が追いついてない。のでたまには文章にまとめることも必要な気がした。


田島正樹氏がブログで、ヘロドトスの一節を紹介していたが本当にこのペルシア人みたいになりそうでつらい。

「あなたと私とは食卓をともにし、また一緒に献酒もした縁があるので、記念の意味で私の考えをお話ししておきたいと思う。それによってあなたがこれから起こるべきことをあらかじめ知り、有利な身の振り方をなさることができればよいと願うからだ。あなたはここに食事しているペルシア人たち、また我々が河岸に野営させて残してきた軍勢をご覧であろう。それがしばらくすれば、あなたの眼に映るのはこれら総勢のうち生き残った僅かばかりの人間だけになってしまうのだ。」

そう言うとともにそのペルシア人はさめざめと泣いたという。テルサンドロスはこの言葉に驚いて、

「それならばそのことをマルドニオス〔指揮官〕はじめ彼に次いで要路にあるペルシア人の方々にお話になるべきではないのですか。」

と彼に言うと、ペルシア人が言うには、

「異国の方よ、神意によっておこるべき運命にあることは、人間の手で進路をそらせる方策はない。信ずべきことを口にしても、誰ひとり耳を貸そうとはせぬ。ペルシア人の中にも、今私が申し上げたようなことを認識しているものは決して少なくはない。しかし我々はみな「アナンケ(必然)」の力に金縛りにされ、成り行きに従っているにすぎぬのだ。この世で何が悲しいと言って、自分がいろいろのことを知りながら、無力のためにそれをどうにもできぬことほど悲しいことはない。」(同p−246)
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52443937.html

*1:以下の「メモ40」だけでなくほかのも読むべき

*2:そもそもそんな勢力あるのか??

*3: http://www.poco2.jp/special/talk/2015/09/kobayashi-sealds/page6.html

*4: https://twitter.com/SEALDs_jpn/status/624549914941329408

崖っぷちの憲法9条守るためにノーベル賞でもなんでも使え、に大反対


手短に。


崖っぷちの憲法9条を守ろう! 安倍晋三から憲法を守るために、憲法9条にノーベル平和賞を! 受賞者は9条のもとこの戦後70年(くらい)一度も戦争をしなかった日本国民だ! まあ授賞式に揚々と安倍晋三が行ってみるのもいい。いくらヒトラー安倍でもノーベル平和賞をとった憲法をやすやすと変えることはできなくなるだろう。


こんな運動があり*1、ノーベル賞の候補として正式にノミネートされたとかなんとか。


すでに批判も多く今さら私が付け足すこともないですが、私も、こんなのどうしようもないとしか思えない。
ここで私が強調したい立場は、そんなウソまみれではだめだということです。日本の戦後70年史が戦争と無縁だった、平和国家だったというのは端的にウソです。このへんについては「反日の会」ぶろぐの以下の記述に同意します。

 日本は、明治以来、侵略戦争と植民地支配を行ってきました。そして1945年以降も、再軍備を行い、アメリカとの同盟関係のもと、朝鮮戦争からイラク戦争、各地でのPKOにいたるまで、公然と戦争参加を行ってきました。沖縄には米軍基地を押しつけています。この否定しようのない事実をうやむやにするのは、歴史修正主義・現在修正主義です。


また、「集団的自衛権」と対比されるものとしての「個別的自衛権」なるものを容認する空気が反戦運動のなかに広がりつつあります。しかし、自衛隊の存在を認めた時点で、9条はまさに壊れています。


私たちは、戦後日本体制を「守るべきもの」としてとらえるのではなく、帝国主義・植民地主義の継続として打倒することを目指すことによって初めて反戦運動を出発させることができるのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/hannichi/20140408/1396933790

予想される反論 ↓*2

「戦争協力」と「戦争(とりわけ戦闘)」を一緒にするな。雑な議論だ。

9条の抑止力なめんな。

戦争もなめんな。9条やめると「本物の」戦争がくるぞー!

9条によって避けることができた現実を細かくよく見つめろ(そうすれば君も9条のありがたさに気づくだろうし、そうなればこの9条崖っぷち状況でなりふり構わないことだってそうそう批判できるものじゃない)。

戦争協力と戦争のちがいを細かく見つめろ。銃弾提供も給油も戦そ……かもしれないが戦闘じゃない。殺してるのはよそだ、うちらは後方支援のみ。この違い大きいぞ!!

条文改憲と解釈改憲はちがう。
まだまだまだまだまだまだ平和国家だ!





冗談はやめたほうがいい。


こんな風に虫めがね使ってやっと見分けられる違いを探してる姿勢、これが解釈改憲そのものだ。9条の抑止力、平和国家の看板にのみこだわりいいとこ探ししてるうちに、

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文をせいぜいが「直接戦闘をしない」程度にまで切り縮めてしまったのだ。この現実で崖っぷち9条の意義を強調することは解釈改憲を擁護することでしかない。戦後の平和国家日本の欺瞞に向き合わず、大江健三郎のように堂々と「67年の平和主義」を厚顔にも謳う*3か、「それでも9条はすごかったんだ」と虫めがね片手に繰り返すか、もうどっちもどうしようもない。確かに解釈改憲に対して反対する声はあったし、結果として後退状況ではあるけれどずっと反対してきたのかもしれない。でも現実把握、危機感について言うなら、この崖っぷち9条のよかった探しはもう限界としか思えません。そんな現実にきています。


さて、またこの戦後67年史は周辺国にはどう映っているか? 「周辺国」とはあれだ、「反日国家」だとか、もっと最低なネットジャーゴンの「特亜」などではない、日本帝国とその臣民が長年にわたって蔑視し、ときに敵視してきた国々のことだ。


戦後日本が地位協定まで結んで沖縄島の米国軍事基地を必死で守り*4、日本国自衛隊にしてもイージス艦を6隻も所有し(アメリカに次いで世界2位!)、去年の夏には機能も見た目も空母そっくり! の自称「護衛艦」が進水式を終えた*5。この軍事力の充実っ! 書店には「こんなに強い自衛隊」とかいう本が並んでるし。


こんな有様で「憲法9条をいただく平和国家でござい」てハァ?としか。とりわけ朝鮮民主主義人民共和国に対しては日米韓合同軍事演習など軍事的威嚇を繰り返し軍事的に包囲し、外為法*6と入港禁止措置*7による独自の制裁を実施。国内の朝鮮学校に対しても明白な差別措置。こんな有様で「憲法9条があったからこの程度済んでるんですノーベル賞欲しいです」て、そんなこと本気で言うんですか?


憲法9条も骨抜き、「平和賞」も看板だけのでたらめ、ウソまみれ。崖っぷちだからって瀬戸際護憲運動でウソいっぱいついて戦後日本美化して、そういうウソまみれでなんとか崖っぷちの9条が残ったとして、まあそれでもあった方がいいのかも……とは思ってしまわなくも。でも勇気を持ってそんなものに意味はない!と言いたい。


こんなことをやめて戦後史を正しく見つめ直すしかないと思います。今やってる戦争協力も「あれは戦争だからしない」と言ってしまいたい。
事実を見つめないと、その先になにをすべきかも引き出せない。それはみんな知っており、例えば日本軍の戦時中の行為にしても、ウソまみれでなかったことにしないと責任が生じてやばい、という感覚が共有されてる。この安倍政権をなんらかの危機ととらえるにせよ、原則的な立場から力強く反対していくべきだと改めて思った。

*1:https://www.facebook.com/nobelpeace9jou 安倍晋三がもらいに行ったら、てとこまでこの実行委が主張してるかどうかは確認してません。よって、「こんな運動」は上の段落の「〜日本国民だ!」までを指すということにします。

*2:似たようなのは実際にtwitterであった。URL貼るほどでもないと判断した。

*3:http://www.labornetjp.org/news/2014/0408shasin

*4:基地機能拡大に抗議する島民はスラップ訴訟で追い立てる有様だ

*5:http://www.asahi.com/articles/ASFDT5KFRFDTUTIL03D.html

*6:外国為替及び外国貿易法

*7:特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法

朝鮮学校の完全排除を意図した「高校無償化」施行規則改定にパブリックコメントを送りました


安倍政権がいろいろ話題ですが、早くも、いわゆる「高校無償化」政策から朝鮮学校を完全に排除する動きを見せています。朝鮮学校は無償化政策の施行規則の(ハ)に該当するものと一度は判断され、その後無理やりに適用保留とされてその状態が続いてるわけですが、今回その(ハ)をなくしちゃおうということです。この(ハ)を取ることについて文科省がパブリックコメントを募集していますので、私も書いて送りました。


1/26(土)までで、下記のサイトから送ることができます。

公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則の一部を改正する省令案に関するパブリックコメント(意見公募手続)について
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000617


私が書いたものは以下です。参考になれば。

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施行規則(ハ)の削除に反対します。

施行規則の一部改定が、かねてより適用保留となっている朝鮮学校を、このいわゆる「高校無償化」政策から完全に排除することを目的としていると推察されるからです。

いわゆる「高校無償化」政策そのものは、国際人権規約の留保を解除しうる動きとして、教育行政を世界の標準的な水準に近づけるものとして評価できますし、また実質的には無償化ではなく支援金の支給といえども、「一条校」ではない従来非正規的な扱いであった学校も対象としていたことは画期的なことでした。

しかし、その中で一度は(ハ)の該当を決定していた朝鮮学校を強引に適用除外とし、以来ずっと保留としてきたのは極めて不当でした。保留決定とその継続の理由として、砲撃事件だとか拉致問題がどうだとか都度示されてはいますが、単に朝鮮民主主義人民共和国への経済制裁等の敵対政策の一環として、日本国内の朝鮮につながりを持つ人々に対し攻撃的意図をもって差別政策を打ち出していると理解するほかありません。

もう3年にもなろうかという期間続いた適用保留措置によりそうした意図は示され続け、その影響により自治体からの補助金も停止する動きも出てきています。例えばこの補助金にしても、朝鮮学校が日本の地で関係者の努力により継続してきたことやそれに伴う権利運動の成果として獲得されたものであり、それは朝鮮と日本の交流の歴史のみならず、民族や教育に関わる普遍的な権利の実現という観点においても(まるで十分でないとはいえ)重大な意義を持つものであったはずです。仮に安倍新政権がどのような「国のかたち」を議論するにせよ、現代での最低限の価値観を共有するならば、無償化政策からの排除や補助金廃止などは、後退と評価せざるを得ない愚行です。

日本がかつて行ったアジア太平洋地域での植民地化や侵略、そこでの虐殺や性暴力、また日本国内や植民地での白色テロなど、真相を究明し見つめ直していかなければならない課題は数多くあります。最近はこうしたことを「なかったこと」とする動きが目立ちますが、証言者や真相究明の努力に対し侮辱的に対応したところで歴史的汚点をさらに追加するだけでしょう。戦後も在日朝鮮人などへの抑圧は続き、今回の制度的後退もそれに連なるものになります。

ここで(ハ)の項を除外することは、教育の権利とかそういったイシューにとどまらない、現代で共有され憲法にもうたわれている理念からの決定的な逆行であり、到底賛成できません。

朝鮮学校へは即時に無償化制度(支援金の支給)を適用し、この3年弱の間での卒業生についてもさかのぼっての補償がなされるべきと考えます。

以上

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軍事通ワナビがふしぎなくらいいっぱいいるのはなぜ?



aidetaocanさんのこのpostに関連して。


社民党の福島瑞穂氏が「空母からB52が飛び立つ」と発言したとかいうのは繰り返しネタになっています。Goooogleの期間指定検索してみたらつい数日前にも言及されてました。この発言があったことは事実であり*1、検索すれば容易に見つかるのですが、2001年11月15日の参院予算委員会での質問に出てきます。なんと11年も前の発言ですが、いまだに繰り返し言及されているわけです。

○委員長(真鍋賢二君) 次に、福島瑞穂君の質疑を行います。福島瑞穂君。

○福島瑞穂君 社民党の福島瑞穂です。
 十一月二日の日に防衛庁設置法に基づいて海上自衛隊が英領ディエゴガルシア島に向かいました。総理は首相官邸で、米国にとっては戦闘地域だとおっしゃいました。戦闘地域に行くことは問題ではないですか。

○内閣総理大臣(小泉純一郎君) それは、コンバットゾーンという話が出たから、これは日本語に訳せば戦闘地域だろうと。しかし、アメリカのコンバットゾーンと日本の戦闘地域という場合においては違う場合も出てくるということを言ったんですよ。ディエゴガルシア島が戦闘地域じゃない場合もあるでしょう。戦闘地域の場合もあるかもしれない。これは戦争が起こってみなければわからない。ディエゴガルシア島で戦争が起これば戦闘地域、戦争が起こらなければ戦闘地域じゃないんですよ。そこを言ったんです。

○福島瑞穂君 私は、問題なのは、米国にとって戦闘地域だと首相がおっしゃったことです。つまり、戦争はもう起きているわけです。B52はディエゴガルシア島から飛び立っています。アメリカにとっては戦闘地域で、日本にとっては戦闘地域でないなんてことがあるんですか。国際社会では物差しは一本でしょう。どうして米国にとって戦闘地域が日本にとって戦闘地域じゃないんですか。

(中略)

○福島瑞穂君 よくわからないんですね。
 そこでB52が、実際に艦船から飛び立ち、攻撃をするわけです。直接に攻撃をするわけです。ですから、そこは相手方から見て十分攻撃される場所ですから、アメリカは戦闘地域と考えているわけです。日本がいつまでも、日本は戦闘地域と考えないと日本だけが言って、だから自衛隊は行けるのだとすることは極めて問題だと思います。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/153/0014/15311150014006c.html*2


この議事録を読む限りでは、はじめに「B52はディエゴガルシア島から飛び立っています」と言っていて、その後に「B52が実際に艦船から」と言っており、たしかに意味不明です。ですが、おそらく質問時の言い間違いであり、ここでの質問はディエゴガルシア島への自衛隊派遣を問題視していることは明白です。引用元のURLから続きの質問も読んでみてほしいですが、このほかにも北部同盟が捕虜の少年兵を多数処刑したとか、誤爆や国境封鎖による食糧不足のため多数の死者が出ることについても問題にしています。

アフガニスタン攻撃に際しての自衛隊のインド洋派遣は、9.11テロ直後の興奮のさなかに「テロ対策特別措置法」を成立させ、それを根拠に行われました。この予算委員会が行われた数日前に海上自衛隊の艦船が出航して、、、という状況です。米国のアフガニスタン攻撃やそれに続くイラク戦争は、今ではその攻撃の根拠についての重大な疑義が明らかになり、結果も含め不当な軍事介入だったとしてきびしい批判にさらされています。そしてこの小泉政権下の戦争協力は、米国と日本の戦争協力の新たな局面を開いた歴史的なものでした。11年経った現在からすれば、戦争協力の事実が積み上げられていく寸前にも、福島瑞穂氏がこうして問題点を指摘していた。しかしそれは十分に吟味されなかった。この議事録はそのような点に注目し反省的に捉えられるべきものでしょう。

私がふしぎに思うのは、「B52が空母から飛び立つ」について、言及するみなさんが当然のようにそれが起こりえないことを常識と捉えていて、なおかつその常識が広く共有されているかのように前提し、きわめて過剰に福島瑞穂氏の「(軍事的)無知」を問題視し、単なる言い間違えの可能性すらきびしく責めることです*3。正直私もこれに関連したあれこれではじめてB52ていうのがどういうものか知ったし、じゃあ空母から飛び立つのはなんていう名前のやつなのかとかは今に至ってもよく知らない。

こと軍事知識についてはこういう極端な反応、「たしなみ」としての自明視が出てきますが、とてもきもちわるいです*4。軍事通気取りが例えば「人権」とか軽んじたらもうネット民の支持とか「ちょろいもんだぜ」な状況があります。まあ知らないよりは知っていた方がえらいのかもですが、上に引用した福島氏の質問の意義が全力でスルーされたまま「B52 空母 福島みずほ」だけが一人歩きしている状況はどうしようもないものだと思います。そして、こういう形での福島瑞穂氏のネタ化とその継続は案外あなどれない力を持っていて、その力が今後どう働きどういう結果を生むのか、なにかおそろしい予感もします。ともあれ、軍事通ワナビの横並び的な嘲笑なんてものは、政治の上での公正さやらなんやらとは最も遠くにあるはなくそみたいなものでしかない、と結論づけていいのではないでしょうか。そして、こういうくそみたいなものにこそ影響力があったりするのが現状なわけです。


ちなみに、ニコニコ大百科の「福島みずほ」の項目はこのようにひどい有様です。

一応党首だが、記者会見において空母から爆撃機が飛び立てると信じてたりする。また未だに自衛隊が戦争を起こすと信じて止まない53歳である。自衛隊の意味を理解しているのかどうかはさておいて発言などを振り返ってもちょっと頭がお花ばt・・・げふんげふん、いつまでも少女の心を忘れない人物。

福島みずほとは (フクシマミズホとは) - ニコニコ大百科

こんなのを放置してるわりにニコニコ動画を党首討論のインフラに推薦したりする人がいるのもおどろきです。

*1:このコピペがデマであるのとはちがって→ http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060606/p1

*2:強調は引用者

*3:B52が空母から飛び立ちえないのはあまりにも自明な常識なのだから、言い間違えでもこんな発言は政治家としてとんでもない、みたいな

*4:これによく似たものに放射線照射食品への懸念(を笑う)などもありますが、今回は面倒なので触れません

自称無臭のマジョリティが「スメルハラスメント」とかいう怖い新語を開発

スメルハラスメントという言葉をご存知だろうか。モラスハラスメント、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント・・・、様々なハラスメントがあふれる中、昨今注目を集めているのがスメルハラスメントだ。スメルとは、「臭い(におい)」のこと。つまりスメルハラスメントとは、臭いで周囲に不快感を与えることだ。生まれ持った体臭はどうにもならないけれど、気をつければ何とかなる臭いは防ぎたいもの。

「スメルハラスメント」に注意せよ!ところで「スメルハラスメント」ってどんな意味?


この記事信じられない。。。


「しょうがないにおいはしょうがないけど」みたいなエクスキューズあるけど、どこの誰がすきこのんでスメル発したがるというのだろう。


たしかに、清潔/衛生/においについての感性とかこだわりとか個人差あるとは思う。比較的敏感な人もいれば、鈍感な人もいると思う。
中にはすごく敏感な人もいて、そういう人にとってはラーメン屋の排気口や地下鉄の通路ですら耐えがたいかもしれない。そういう人たちにのみ過大な障害(往来に出られないなど)を強いてる現状があるとすれば、それについて無関心でいいというわけではないし、それは課題として共有していきたい*1。


でも人のにおいとなるとそう簡単な話じゃない。
「あなたはくさい」なんてとても言えない。この記事でも申し訳程度に想定されているけど、「しょうがないにおい」を解決するための困難さを思えば、そんな努力を求めることなんてなかなかできない。そして、しょうがないかどうかなんてわかるわけがない。
「歯周病はすぐに治しましょう」という常識ひろめるとかそういう話?
そんなの当たり前のことで、ことさらに「スメルハラスメント」なんて新語開発してわざわざそんな言葉経由する必要全くない。


あと、食習慣とか体質とかの違いだけじゃなく、職業/生活環境とか時には社会階層の違いによってにおいの異質性が際立つことある。それが「スメルハラスメント」なんて言葉に接続されたら……と想像するのもおそろしい。

【参考】臭いによる排除に抗して - Apes! Not Monkeys!  本館


自称「無臭のマジョリティ」というのが比喩でなく、まさに「問題とされない程度の体臭」であるという立場によって、においの異質性を人間ごと排除していこうとする暴力的な発想、そういう消息を全く考慮しない傲慢さが「スメルハラスメント」という言葉にすでにある。最悪きわまりないと思った*2。

*1:「不快感至上主義」に警戒すべきと思う一方で、この視点も保つ。というのはすごくむずかしい、というか大問題ですね。

*2:でもひとつまえの日記で「ハラスメント」って言葉濫用気味かも……。ひええ。