もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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永野護『ファイブスター物語』は完結するのか問題 & そのジェンダー表象について

最近の『ファイブスター物語』を読んで考えたこと

 

 

このほど永野護『ファイブスター物語』の第17巻が発売された。私も長年の読者なのでさっそく買い、数時間かけて読み、過去の巻に遡ったり設定集をめくったりして楽しんでいる。

それにしても近年は刊行ペースが安定していてありがたい。ここ数巻は1年半~2年以内のスパンで刊行されており、一時はとても最後まで描けるとは思えなかった魔導大戦編も、ひょっとしたら最後まで描けるのかも……?という気が多少はしてきた。

このブログは基本的には本を紹介するブログなのだが、この漫画を未読者に勧めるのはなかなか骨の折れることなので、とりあえず今回は既読者向けに(しかし未読者向けにも補足を入れつつ)、最近の巻を読んで思ったことをつらつら書いてみようと思う。

 

最低限の作品説明をしておくと、『ファイブスター物語』はもともとアニメのキャラクターやメカをデザインしていた永野護が1986年から連載し続けている漫画だ。略称は英語タイトル「Five Star Stories」の頭文字をとってFSS(この文章でも以下FSSと記載する)。

五つの太陽系からなる「ジョーカー星団」を舞台に、様々な国家や個人による戦乱の歴史が語られるというSFアクション歴史漫画である。この世界では「モーターヘッド/ゴティックメード」と呼ばれるロボットが兵器として使用されており、「騎士」と呼ばれる超人と、「ファティマ」と呼ばれる操縦補助のための人造人間のペアによって駆動される。またこの世界には超能力やドラゴン、悪魔や神々も存在し、ロボットと超人たちの歴史に介入してくる。

例えて言うと、三国志とガンダムとスター・ウォーズと指輪物語を合体させたような漫画である。膨大なキャラクターとメカが登場し、複雑に絡み合って物語が進行するので読むのが大変だが、一度ハマればほぼ無限に楽しめるというタイプの漫画だ。

 

『ファイブスター物語』は完結するのか

 

さて、多くの読者が気にしていると思われるのが、「この漫画は完結するのか」という問題である。FSSという漫画は1986年の連載開始時から壮大な年表が提示され、全てがこの年表に書いてある通りに進行すると宣言されている。とはいえそこに書かれている長大な歴史に対して漫画の進行は遅く、当初から「本当に全部描けるのか」と疑問の声が上がっていた。

とはいえもうすぐ連載40年を迎える現在において、年表の全てが漫画に描かれると期待している読者は少ないだろう。なにしろ第1巻のスタート時は星団歴2989年で、年表の最後は7777年、ストーリー的にキリの良さそうな「第二部」ラストでも4100年なのだが、最新第17巻のストーリーはまだ3069年だ。40年間連載して作中では80年しか進んでいない。

私としては、もちろんこの漫画は、普通の漫画のような意味での「完結」はしないだろうと考えている。そもそもこの漫画は歴史漫画の体裁を取っている。よく考えれば当たり前なのだが、歴史に終わりはないのだ。歴史を語る物語は、どこかで「とりあえずの終わり」を迎えるしかない。(だいたいみんな、例えば三国志の終わりを知っているだろうか)

ゆえにFSSも、どこかの時点で「とりあえずの終わり」を迎えることになると思う。普通の歴史漫画だったら例えば主人公が死ぬまでを一区切りにできるかもしれないが、残念ながらFSSの主人公の正体は神なので(神なんです)、永遠に生きることが最初からわかっており、その手は使えない。設定されている歴史の中で「とりあえずの終わり」になりそうな部分はいくつかあるが、今の感じだと、3075年の魔導大戦終結あたりが現実的な完結タイミングではないかと思われる。

 

FSSという漫画では、その初期から、いきなり時空が飛んではるか未来(あるいは過去)のエピソードが描かれることが多かった。例えて言えば、戦国時代の徳川家康の物語の最中に、突然、徳川慶喜が登場する幕末のシーンが挿し込まれるといった具合である。

また何人かのキャラクターは永遠とも言える寿命を持ち、はるか過去から未来へと至る歴史を目撃することが示唆される。今にして考えれば、FSSのこのような手法は、最初から「年表の最後までは描けない」ということがわかっていたがゆえの手法ではないかと思う。FSSは一直線に描かれる物語ではなく、過去と未来が常に現在の中に侵入し、また現在のシーンが常にはるかな過去と未来を指し示すような漫画なのだ。ゆえに、FSSはいつ終わってもいいのである。

 

『ファイブスター物語』におけるジェンダー表象

 

さて、ひとつの漫画が40年ちかくも連載していると、当然それを取り巻く社会も変化する。そして漫画などのポップカルチャーの受容に対して大きな影響をもつ社会の変化としては、特に近年のジェンダー表象に関する意識の変化があることにはあまり異論はないだろう。この点においても、FSSという漫画は非常に独特の立ち位置にいる。

一見して目に付くのは、ロボットを操縦する「騎士」と「ファティマ」のペアだろう。騎士は男女同じくらい登場するが、人造人間ファティマは大半が女性型となり、原則として騎士に対して従属的な立場に置かれる(ここを調整する例外規定もあるにはある)。また騎士から離れたファティマに人権はなく、一般人からどのような扱いを受けてもよいとされる。

このような設定は明確に男女間の社会的な非対称性を反映したものであり、ファティマたちははっきりと抑圧された立場なのだが、一方でまた明確なのは、作者がそのような構造に関して完全に自覚的であることだ。作者の永野護は意識的に、ファティマを構造的に被抑圧的な存在として描き、その立場や処遇は常に作品のメインテーマのひとつとなっている。

しかし、では作者はそのような抑圧を批判するためにそれを描いているかといえば必ずしもそうではない。作者はこれもまた明らかに、ファティマのそのような被抑圧的な立場と、その美的な、そしてキャラクター的な魅力を深く関係させている。永野護はファティマを抑圧された、悲劇的な存在として描き、しかし同時にそのこと自体がファティマの魅力となるように描いているはずだ。

このことは例えば、作者がいわゆるハイファッションに造詣が深く、それをデザインや世界観に強く反映させていることとも関連があると思う。ハイブランドによるハイファッションは、それそのものが巨大な資本と権力によるものであり、その資本と権力が美の基準を定めるという点で権威的である。そしてまたその美の基準と抑圧/被抑圧の関係は切っても切り離せないもののはずだ(例えば「女性の美」という概念について少し考えれば明らかだろう)。永野護の漫画やデザインは、そのような「美/魅力」と「権力」との緊張した関係を常に含んでいる。

 

また同様のことは作中のジェンダー観についても言える。FSSには非常に保守的な「男らしさ」「女らしさ」への傾倒があり、それは物語の基本的な骨格が古典的な騎士道物語であることにも関連がある。力強い騎士たちとそれを助ける美しいファティマたちという構図はその最たるものだし、例えば女性キャラクターがメイドのように家事の能力を発揮するシーンも多い。

しかし一方で、FSSにはその初期から、ほとんどあらゆる種類のクィア表象が登場していた。10代前半にFSSを読み始めた自分の経験を思い出してみても、おそらく私は同性愛、異性装、両性具有、一見して性別のわからないキャラクターなどの表象のほとんどを、FSSにおいて初めて目にしたと思う(このあたり、手塚治虫に近い存在感がある)。

また女性キャラクターに関しても、読者に圧倒的な人気があるアイシャ・コーダンテを筆頭に、自立した強いキャラクターや、様々な意味で定型的・保守的なイメージから外れるキャラクターは数多い。

つまりここでも、FSSにおいては保守的なものとそうでないものが同列に並んでいる。永野護はおそらく保守的な美と価値を愛し、同時にそれを破壊するものも同じくらい愛している。

このような立場は、現在においては日和見的なものだとされるかもしれない。あるいは、結局は恵まれた状況にいる者、抑圧を受けない強者の視点であると。そのような批判は否定できないと思う。

今改めてFSSという漫画を俯瞰すると、ジェンダー表象に限らず政治的なテーマに関する態度にはある種の「育ちの良さ」のようなものを感じるし、それはまたFSSが生まれた1980年代という時代の文化そのものにも通じるものがあるだろう。この部分に関しては、若い世代の読者がどうFSSを読むのか聞いてみたい。

 

余談

  • ひとつ前の16巻はその大半が「人外・神・上位存在キャラクター大集合バトル」の回で、正直いって物語としては弛緩していたが、しかしこのエピソードには「過去にデザインしたけど本編中には出しようがないキャラクターをまとめて出しておこう」というような雰囲気を感じ、作者もそろそろ漫画の終わりを見据えているのかなあと思った。
  • FSSにおいて重視される保守的な価値観には、ほかに「血統」「国家・王室の権威」「君主への忠誠心」などもある。
  • さすがに40年近く続いていると、最近の巻では「さすがにこれはちょっとおっさんぽいな……」と思うセリフやギャグなどはままある。
  • 14巻あたりで言われ始めたファティマを「娶る」という表現はさすがに気持ち悪いなと思ったが、最近は出てこなくなった。

 

次の一冊

 

FSSとほぼ同時に始まって現在まで続いているもうひとつの漫画が荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズだ。意外と共通する部分が多いと思うので比較すると面白いと思う。

 

 

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2024年12月に行われた、オンラインSF誌『Kaguya Planet』プラネタリウム特集の公募に参加した小説が、最終選考に残り、選評をいただきました。(選評は会員向けサイトおよび雑誌『Kaguya Planet』に掲載)

1920年代のシンガポールを舞台とした、歴史改変ジュブナイル・ファンタジーです。当ブログで関連コラムも執筆しました。

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」では、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらは2024年1月に行われた、Kaguya Planet「気候危機」特集の公募に応募した短編。こちらも佳作として選評で取り上げていただきました。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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